第58話
それは夜中に始まった。
「先生! うちの子が腹が痛いって、熱もあって顔色も悪くって……」
下町の滅多に医者に掛からない住民が、医者の家のドアを叩いた。
医者は珍しい事もあるものだと、連れて来た子供の顔を見て驚愕した。
目は落ちくぼみ、老人の様な顔をしている。
「どうしてこうなるまで、ほおっておいた!」
「夜までは腹が痛いって言ってたんだけど、それから急に下痢が酷くなって、こうなったのはあっという間で! 先生助けて!!」
まだ幼い子供を抱えてきた母親は、泣きださんばかりだが、症状を見た医者はもう、手の施しようがないと分かってしまっている。首を横に振ると、母親は大きな声を上げて子供を抱きしめた。子供はそれに抵抗する力も無く、命はもう消えかかっていた。
それからは次々と子供が連れられてくるが、そのほとんどは手遅れの状態だった。
「先生! これはもしや……」
「ああ、そうだな。はやり病だ……」
今日の朝、酒屋に呼ばれて診た男は、酷い下痢と発熱で意識がなかった。そこに置いておくのも居酒屋には邪魔になるだろうと、親切心で診療所まで荷車で運んだが、その男もはやり病に罹っていたのだろう。部屋の奥に寝かせているが、まだ意識は戻っていない。
「これから衛兵の詰所に行ってくる。もし患者がきたら水を飲ませるように言うのだ、それしか今は治療法がない」
助手に言い置いて、医者は衛兵の詰所まで走った。
夏の夜は少し涼しく、もったりとした空気は王都を包み、静かな夜は更けている。その中を医者は、突然自分の身に起こった災害のような状況に恐怖を覚えていた。
中の詰所は静かで、人がいるようには思えない。
「誰かいるか!」
奥に声を掛けると、寝ぼけまなこで夜警の兵士が起きて来た。
「なんだ、先生かあ。こんな夜中に強盗かなんかかね?」
呑気に着崩れた制服を引っ張りながら、兵士は外に出て来た。
「さっきから、子供が病気で運ばれて来ているんだが、皆ほとんど手遅れの状態だ。王都ではやり病が広がっているんだろう。すぐに上司に連絡を取り、はやり病の対策を考えてくれと伝えてくれ。早くしないとどんどん広がるぞ!!」
医者の必死の顔と声に、寝ぼけていた兵士の顔が緊張したものに変わった。
「分かった! 伝える! 患者は先生の所に集まっているのかい?」
医者は頭を振った。
「いや、もっと多くの患者が家にいるんだと思う。私の所に来たのはほんの一握りだろう。夏の暑さの中では、もっと広がるだろう。早く対策をとらないと、大変な事になるぞ!!」
兵士は慌てて詰所の奥に駆け込んで、寝ていた上司に伝えている。
医者は病気の事を伝えようと思い、自宅に帰らずそのまま知り合いの他の医者の所に行こうと走った。
しかし寝ているはずの知り合いの医者の所も、家の灯が灯っていて、玄関の前には人が数人立っていた。 その人達は医者の足音に気が付き、こちらを見ると医者と知っている人が声を掛けてきた。
「先生! 手伝いに来て下さったんですね?」
その言葉に、溜まっていた人々が、期待の声を上げた。
「こっちも、患者がでているのか?」
医者の言葉に、皆驚愕に黙り込んだ。違う場所でも、病人が出ていると理解したのだ。
「モンタン大丈夫か?」
医者が人をどけて診療所の中に入ると、子供を抱えて母親が皆立ち尽くしている。
その中から男が出て来た。
「おお! ステファヌどうした? こちらから連絡もしていないのに……。お前の方もか?」
友人の医者は、寝巻のまま診療していた。驚いた顔のモンタンに医者は頷いた。
「ああ、皆子供だ。今衛兵の詰所まで、はやり病の事を言いに行って来た。ついでにお前に注意をしようと、駆けつけたがもう遅かったな」
母親達は二人の医者の話を聞いているが、抱いている子供にとって無常な内容に、唇を噛みしめ涙を堪えている。
時間と共に集まって来る人の多さに、二人は深い沼に足を取られているようで絶望を感じていた。
秘書のカノーは、長い廊下を走っている。
夜明け早々屋敷で起こされて、主の屋敷に向かったが夕べから王宮に泊まっていると知らされ、そのまま王宮に行った。
夕べは先に返されたので、オルタンシア公爵が王宮に泊まった事は知らなかった。今は、急ぐ仕事はなかったはずだがとふと思った。
主のオルタンシア公爵は無口で感情を表さない人だが、常に頭の中で先々の事を考えている人で、秘書であるカノ―は尊敬している。どんなに仕事が遅くなっても、朝が早くとも主の役に立つならと働いている。
衛兵の上司から下町ではやり病が広がっていると連絡が入り、今主に知らせに行く所だった。
執務室をノックして、返事を待たず部屋に入る。
「おはようございます。先ほど連絡が参りまして、下町にはやり病が広がっているとの事でございます」
執務机で書類を書いていた公爵はペンを置いて、じっとカノ―を見た。
「いつ頃から始まったか聞いたか?」
「はい、どうやら昨日あたりからポツポツと病人が出てたようでございます」
公爵は新しい紙を取り、ペンで書きながらカノ―に指示をした。
「宮廷医師にこの書類を持って行き、直ちに病の鎮静化に尽力せよと伝える様に」
ありがたい宣託の様に、カノ―は頭を下げて書類を両手で受け取った。
「それから、ブリニャク侯爵を呼ぶように」
カノ―は、公爵の頭の中ですでに対策が、考えられているのだろうなと思った。こんな朝早くからブリニャク侯爵を呼びつけられる人は、公爵しかいないしその人を仕事で使おうと思う人もいないだろう。
さっそく書類を医師に届け、ブリニャク侯爵への連絡の手続きを取った。きっとこれから寝る暇もないのだろうと、公爵の食事の手配や出張ってくる人達の部屋などを用意しようとした。
秘書官となって三年あまりだが、公爵の薫陶よろしくカノ―も自分が思っているよりも、仕事ができる男になっているのだった。
「王都を閉鎖?!」
呼び出されたブリニャク侯爵は、オルタンシア公爵の無茶ぶりに声を上げた。
「そうです、出入りを禁止します。聞くところによると、かなり伝染力の強い病のようで、下手をすれば国の人口が二・三割減るかもしれません。やっと戦争で減った人口が戻りかけているのです。それを下手を打って無くしたくは無いでしょう?」
「まあ、それはそうだが……。抜け道は色々あるだろう」
国境閉鎖とは訳が違うと、ブリニャク侯爵はその困難さを思い少々辟易した。
「入りたいという命知らずはしょうがないでしょうが、出る者は斬ってでも防いで下さい。それほど大変な状況になるかもしれないのですよ」
いつになく感情が出ている公爵に、ブリニャク侯爵も真剣にならざるを得なかった。
先ず王宮への出入りを制限し、荷物などの受け渡しは幾人もの手を通し、なるべく病が王宮の中に入り込まない様にと考えた。
それらの手配は王宮の執事たちに任せ、ブリニャク侯爵は軍の派遣を考えた。
軍務大臣のサバシア侯爵との面会を取り付け、オルタンシア公爵の言葉を伝えた。
「閣下……、難しい任務ですね。兵士が嫌がりますよ。兵士のほとんどが平民ですから、知り合いとの軋轢が出るのではないですか?」
「しかし、王都で病を押さえなければ、宰相の言う通り国中に病が広がる恐れがあるのでは? 王都から地方に行く商人などは多いだろう? 物流は滞るかもしれんが、病よりはましだろう」
サバシア侯爵は目を瞑って考えていたが、宰相の言葉に従うしかないかと頷いた。
「分かりました。兵を使って王都を閉鎖致しましょう。勿論、閣下もお出張り頂けるのでしょうね?」
「ああ、勿論。兵だけを、危険な場所へ送る事は私にはできない。それに私が出れば、皆嫌でも仕事に就くだろう?」
自分の効果を良く知っているブリニャク侯爵は、軍務大臣に笑いかけた。
サバシア侯爵も、頼もしさに笑ったが、二人はこの仕事の過酷さをまだ知らなかった。




