第56話
ラウーシュは仰け反って、知った真実から身を避けようとした。
しかし肩を掴まれ、侯爵の武骨な顔が目の前にある。
侯爵の言葉は、レキュアには聞こえなかったようだ。
「まさか……と言いたいですが、閣下が嘘をつく理由がありませんね?」
先ほどの――娘――発言より衝撃的な告白に、却って現実的な感じがせず頭が冷えていくようだった。
イズトゥーリス国の事は、もう自分たちの世代には歴史の一部の様なもので、人から聞いて想像するほかない事だった。
それがこのように目の前に現れるのだから、この世の巡り合わせは不思議だと思わざるを得ない。
侯爵がどの時期に、息女の事を公にするか知らないが、どんなに隠してもいずれその出自は知られるだろう。そして……息女は、イズトゥーリスの王家の血を引く者だ。国はなくともその民と、元が付くとはいえ譜代の貴族は残っているはずだ。
そこに王の孫が現れたら?
――大騒動だろう――
父は敵国だったフレイユ国の英雄、母はイズトゥーリスの王女、どちらの国の顔も立つのだから、イズトゥーリスの元貴族達が担ぎ出すには最適な人物だろう。
ブリニャク侯爵が秘密にしたいのも、良く分かる。
その血筋が、重要過ぎるのだ。
彼女が平民の時は貴族でなくて釣り合わず、今はあちらが王女で侯爵家が釣り合わない。
――なんという皮肉だろう。
とんだ身分差だと、ラウーシュは可笑しくなった。
自分の身分が低くて、苦労する事になろうとは思ってもみなかった。
クスリと笑ったラウーシュに、豪胆な事だと侯爵は頼もしさを感じて肩を叩いた。
「そういう事なので、暫くは遠慮して欲しい」
もう関わって欲しくないと言えば良いのにと、ラウーシュは思った。
「はい、承りました。閣下もこれから、大変でしょうがお気をつけて」
顔を見合わせ、互いのこれからの健闘を願った。
侯爵の気苦労はラウーシュが想像するよりも、大きな事だろう。息女の結婚の話などとてもではないが、考えられない状況であるのだ。
レキュアと玄関まで侯爵を送り、夕暮れ時の穏やかな初夏の空気を吸い込んだが、心の中は切ないものだった。
「侯爵様は先ほど何と仰られたのですか?」
レキュアが遠くなる侯爵の馬車を目で追いながら、聞いてきた。
「うーん、平民の孤児が、実は隠されていたお姫様だったという、おとぎ話だ」
――ほう――
というレキュアの何とも言えない声を聞きながら、ラウーシュは今度こそリリアスとの事は、忘れねばならないのだなと思った。
裏庭に小さめのテーブルと椅子が置かれ、リリアスが腰かけ茶を飲んでいる。
ぺラジーとモットは出されたケーキをお行儀よく、フォークで食べている。モットなどはいつもは何でも手づかみなのだが、今はケーキの欠片を苦労して口に運んでいる。
急にモットが、フォークを置いて立ち上がった。
「いや! やっぱりおかしいですって。俺が座ってお茶を飲んで、オテロ様が立ってそれを見てるなんて、世の中間違ってますぜ!!」
食って掛からんばかりにモットは、リリアスの斜め後ろに立っているオテロに詰め寄った。
自分よりかなり年上で赤鬼の腰巾着と言われているが、ブリニャク侯爵と変わらぬ強さである従僕のオテロが、茶を入れて振る舞っているのだ。
戦場で鬼神の傍で剣を振っていた男が、ただの兵士だったモットに茶を入れるなど、昔の知り合いが見たら気絶するだろう。
「俺がお茶を入れますから、オテロ様が座って下さいよう」
半泣きのモットが、懇願するように手を揉みしだくと、オテロは首を横に振りニヤッとモットに笑った。
「モットよ、私は主筋のお嬢様と一緒の席に座る事など考えられないのだ。お前はお嬢様の知り合いだから、私にお茶を入れられるしかないのだ」
モットの焦り具合を知っていながら、面白そうにカップに更に茶を注いだ。
「そうだよ、モットのおっちゃん。ごちゃごちゃ考えないで、美味しいケーキを食べてりゃいいんだよ」
ぺラジーのほうが、オテロの凄さが分からない分素直に茶を飲み、ケーキをぱくついている。
オテロが店にやって来てから、ブリニャクの屋敷から毎日午後の茶の時間に、おやつが運ばれて来るようになった。
店の者達は、リリアスに何かあったのだろうと思っていても、深い事情は聞かないし、毎日食べられるおやつに文句はなかった。却って今日のおやつは何かなどと、期待して仕事をしていたりする。
リリアスは皆が喜んでくれるのなら、侯爵家のする事も受け入れていた。
この生活もリリアスが何と言っても、王妃のドレスが出来上がれば、終わりになるのだろうと思っているのだ。
自分の血を引く娘をずっと探していたのなら、侯爵がこのままリリアスを市井に置いておくとは考えられない。
しかしいくら考えても、これからの自分の身の振り方が想像つかない。
侯爵家の娘として家を継ぐのか、それともどこかの貴族に嫁ぐのか、自由な生活をしてきた今までとくらべて、束縛された生活を強いられるのかと考えてしまう。
「しかし……、リリアスがどこか知らないが、良い所のお嬢様とはなあ。世の中分からないもんだ」
モットが呑気な声で、呟いた。
ある日、モットが知る世間にも有名なオテロが店にやってきて、リリアスの付き添いというか護衛だと言って、一緒に寝泊まりする事になったのだ。
驚かない方がおかしいのだが、女工達は自分の父親よりも年上であるオテロをあっさりと受け入れ、大きな体を怖がりもせず、時折楽し気に話したりもしている。
女所帯の店で気まずい感じでもなく、きっといつも通りなのだろうという態度で、リリアスの傍にいるのだ。
強い男は普段は他の男よりずっと優しく、気の良い人格者なのかもしれない。オテロがいら立ったり、怒ったりする所を見ないのだ。幼い下女にさえ物腰柔らかく、屈んで相手をしている。
彼の狂人のような戦いぶりを、遠目でも見ていたモットには、それが信じられなかった。
しかし、ブリニャク侯爵の従僕としか見られなかったオテロが、人間とは慣れるもので日々一緒にいて生活していると、恐れ多さを感じなくなり、普通に接する事が出来るようになったのだった。
それでも今日のようにリリアスに午後の休憩に誘われて、茶を飲む時にはオテロが給仕をするので、とてもではないが生きた心地がしない。
自分が手入れする裏庭の花壇の傍には、いつの間にかオテロがテーブルと椅子を設置して、そこでリリアスに茶の提供をするようになっていたのだ。
「暑くなってきたねえ」
ぺラジーが空を見上げて、高くなった太陽を見て顔を顰めた。
王都は夏を迎え、午後の茶の時間を外で過ごすには厳しくなってきた。
そろそろ日傘を差さなければならないかと、男にしては細かい事に気がつくオテロが、ぺラジーの言葉に耳を傾けていた。
ロバに大きな荷物を載せて轡を取り、歩く男が居た。
着ている服は以前は良い物だったのだろうが、着古されて汚れて綻んでいた。
年の頃は三十四・五才だろうが、もっと老けて見える。歩く姿は背中が丸まり、息が荒かった。
一足進む毎に息を吐き、額からは汗が流れ顔色も悪かった。熱があるようにも見える。
遅い歩みの横を他の旅人が通り過ぎていくが、様子が悪い男の顔を見て驚いていく。
「兄さん、顔色が悪いが大丈夫かい? 段々暑くなってくるから、少し休んだ方が良いんじゃないかい?」
男は汗を手で拭いながら、旅人に顔を向けた。青白い顔は埃で汚れ、流れる汗がその顔に筋を作っている。どう見ても病人のようだが、男は歩くのを止めなかった。
「ああ、調子は悪いが休んでいられねえんだ。決まった日までに王都に着かねえと、金が貰えねえんだよ」
「そりゃあ、難儀だなあ。まあ頑張るこった」
旅人はそう声を掛けて、さっさと歩いて行ってしまった。
男は自分の吐く息が熱く体も痛いのだが、約束した期日にはどうしても王都に行かなければならないと、必死で足を動かした。
借金を返すためにも、この荷物を届けなければならないのだ。
男と共に、暑い夏が王都にやって来る。




