第53話
「オテロさん、あの馬車はデフレイタス侯爵の馬車だわ。こんな所で止まっているなんて、壊れたのかしら?」
オテロはリリアスの説明に、御者に馬車を止めさせ御者台から降りた。
「決して出ないで下さい」
そろそろ薄暗くなってきた外は、まだかろうじて周りの景色は見てとれる。
オテロは腰の剣を抜き、馬車に近づいて行った。
「何者!!」
と、誰何の声が上がったが、オテロには見知った者の声だったので剣を収めた。
「レキュア様ですか?」
相手も声と姿で、誰だか分かったようだ。
「おお! これはオテロ殿、良い所に来て下さった。車輪が轍に嵌って困っていたのです」
「押すのを手伝いますよ」
レキュアが頭を振った。
「いいや、車軸が折れてしまって駄目なのだ。今御者を馬車が借りられる所まで、行かせようと思っていた所だったのだ」
言下に乗せて欲しいと言っている。
レキュアにとっては天の助けだが、オテロにとっては不味い所に出くわした。
主人同士が友人で、互いに従者として顔見知りであるし、ここで馬車に乗せるのは自然な事だが、リリアスが乗っているのでとてもよろしくない。
オテロが黙っているので、レキュアは何か察したようで近づいて来た。
「どなたかお乗りなのですか?」
と、聞いてきた。
オテロは窮した。こういう時とっさに機転が利かない自分が恨めしい。
「うーん、困りましたね。若様をここに長く置いておきたくはないのですが、そちらには同乗できないのでしょうね?」
オテロがうんうんと頷くと、馬車から音がした。
レキュアに断ってオテロが馬車に行き、ドアを開けると中からリリアスが小さな声で話してきた。
「聞こえました。オテロさんも返事にお困りでしょ? 私はこのショールを頭から被っていますから、レキュア様に私の事は詮索しないとお願いして、馬車に乗って頂きましょう」
「それは……」
「若様は以前襲われた事がありますから、暗くなってここにいらっしゃるのは、レキュア様もご心配なのでしょう」
リリアスが励ますように頷いたので、オテロは仕方なく承知した。
「ラウーシュ様とレキュア様には、同乗の方を詮索なさらないとお約束なさって頂ければ、お屋敷までお送り致します」
「おお! これはありがたい。勿論お約束いたしますよ。ねっ? ラウーシュ様?」
馬車からラウーシュが下りてきて、背伸びをしてから服の皺を伸ばした。
「ああ、約束しよう」
とても助けてもらっている態度ではないが、二人は馬車に向かった。
ラウーシュの御者は御者台に乗り、オテロと二人は馬車に乗った。
オテロが馬車のドアを開けると、中には黒いレースのショールを頭から被っている女性が座っていた。
レキュアとラウーシュは、てっきり男性だと思っていたので、異様な姿の女性に驚いた。
暗くてもう服の色ははっきりとしないが、そのデザインから若い女性と思われた。
「ご同乗させて頂いて感謝しております。大変助かりました」
レキュアが挨拶すると、ショールを被ったリリアスは、こくんと頷いた。
この二人とはよく会っているので、姿で分かってしまうかとドキドキしたが、ショールや膨らんだドレスで体の線が出ないので、気がつかないようだった。
向かいにラウーシュが座り、隣にオテロが座った。
リリアスは顔が見えないように、窓の暗い外を見ていた。
馬車の中は静かで、皆気まずい雰囲気を感じている。
目の前にラウーシュがいて、自分が誰か分かるのではないかと心臓が早く打っている。その音が聞こえるのではないかと、もっとドキドキしてしまう。
しばらく店にこないので、姫の所に行って忙しくしているのだろうかと思い、ふと姫と一緒に刺繍をしている姿を想像して、おかしくなってしまった。
ハンカチで口を押え、笑いを堪えた。
そして汗ばんでいるせいか香水を付けていたので、くちなしの香りが馬車の中で匂った。
「ガーデニアか、良い匂いだな」
ラウーシュが独り言を言った。
余計な事を言うなとレキュアが、膝でラウーシュを押した。
詮索しないという事は、関わり合わないで欲しいというオテロの意向で、助けてもらっているのだからそれは、尊重せねばならないだろう。
独り言でも、相手に少しは反応して欲しいと言う気持ちが透けて見えるので、レキュアは止めて欲しいのだ。
しかし貴族のラウーシュは、同乗する女性から挨拶を望まれていないというのは、沽券に係わる事なので酷く気分が悪い。
ここでずっと相手に合わせて黙っているのも業腹なので、話す機会のないオテロを相手にすることにした。
「オテロ殿は、お屋敷からのお帰りか?」
この男もブリニャク侯爵の傍にいて、武勇に名高い男である。貴族の若い男達からは、憧れの目で見られる事が多い。
「はい」
それ以上の事が言えないから、オテロの返事は短い。
「それより、最近襲われたとお聞きしましたが、どうなさったのですか?」
オテロも貴族相手に黙っているのは、難しいので先ほど知った事を話題にした。
「ああ、訳が分からないのだ。この私が襲われるのだから、今は政治的に混乱しているのかも知れんな」
格好の良くない一件だったから、ラウーシュはその事には、あまり触れて欲しくなかったので会話が続かない。せっかくの機会なのにと、残念に思った。
「良くご存知ですね? あまり知られていない事なのですが」
隣のレキュアが、意外そうに聞いてきた。
オテロは慌てて、
「ええっと、……旦那様にお聞きしました」
と、主人をだしに使った。
リリアスは、オテロの慌てぶりに自分も慌てて、持っていたハンカチを落とした。
オテロが拾おうとしたが、レキュアがいち早くハンカチを拾いリリアスに渡そうとしたが、考え直してオテロに渡した。
「あ……」
リリアスは思わず、礼を言おうとして慌てて口を閉ざしたが、その一言は馬車の中に良く響いた。
デフレイタス侯爵邸に馬車は着き、ラウーシュ達は降りて行った。
動き出した馬車の中でリリアスと、オテロは体から力を抜いた。
「冷や汗をかきましたよ。お嬢様が声を出されるのではないかと思って……」
「私も、危うく話しかけるところでびっくりしました。だってハンカチを拾って頂いたんですもの」
ショールを取ったリリアスは、オテロと顔を見合わせて笑ってしまった。
「お嬢様はお二人をご存知なのですか?」
「はい、ラウーシュ様のお母さまが店のお客様で、良くお会いします。だからショールを被っていても、布一枚ですもの分かるのではないかと、びくびくしていました」
ほっとして馬車の背に体を預け、楽な態勢になった。
「誰だと思う?」
「若くお美しい方でしょうね」
「見えたのか?」
「そうお答えするのが、礼儀という物です」
屋敷の廊下を歩きながら、さっきの女性についてあれこれ話をする。
「ですが、オテロ殿のお話が聞き捨てなりませんでしたね。若様が襲われたのは、ブリニャク侯爵はお知りになりませんよ。旦那様が我々に口止めなさいましたから」
「では私を襲ったのは、ブリニャク侯爵の手先だな」
ラウーシュは笑いながら、部屋に入って行った。
「その線はありませんね。若様を襲っても、侯爵には何の利益もありません」
「冗談だ。あの人は、私を生まれた時から知っているんだぞ」
レキュアが上着を脱がせると、クラバットを緩めながら椅子に座り込んだ。
「女性の前ではお行儀が良かったのに」
レキュアは残念そうに、肩をすくめた。そして上着の裏から一枚の布を取り出した。
「手品でも見せてもらえるのかな?」
冗談でラウーシュが言うと、レキュアはもったいぶった動作で、――ひらり――とその布を目の前に下ろした。
何気なく受け取った布は、白いハンカチで豪華なレースが縁に飾られていた。
「私は手癖が良いので、このようなまねも出来るのです」
レキュアはニコニコと笑って、
「先ほどの女性が落としたハンカチですよ」
と、言った。
――えっ?――
ラウーシュは間の抜けた顔をして、レキュアとハンカチを交互に見ている。
「屈んで拾った時に、手持ちのハンカチとすり替えたのです。いつ必要になるか分かりませんから、女性物のハンカチを持ち歩いているのです。きっとそれには、イニシャルがあるはずです」
そう言われて、見たハンカチには、――L・C――と豪華な刺繍でイニシャルが刺されていた。
「そのイニシャルの人に心辺りがあるでしょう?」
「うーん。リリアス・コルトレか……」
見事な刺繍とレースに、ラウーシュは見とれていた。




