第5話
数分歩かされて光の差す大きな廊下に出ると、踏みしめる絨毯は厚みをまし、壁に掛けられた絵は窓ほどの大きさになり、置かれた椅子のたぐいの家具は見たこともない、輝きを見せていた。
奥のドアの前に止まると、女中は振り返りリリアスを頭からつま先まで見返し、眉をひそめてからドアを開けた。
どうせ侯爵夫人に会わせるような、服装ではないと思っているのだろう。
広い応接室のような部屋を横切り二人が入った部屋は、天井は金のモールで飾られ、うすいピンク色の壁紙の、寝室とは思えぬ豪奢な場所だった。
部屋の真ん中に天蓋の付いた大きなベッドがあるので、ようやく寝室だと思える。
その中にはまだ寝巻のまま紅茶を飲んでいる夫人がいたが、レースのカーテンから入る、日光はその顔を映さずベッドのわきの赤い絨毯に差し込んでいて、その表情も顔も見る事はできなかった。
静かにカップが置かれる音がすると、夫人は寝起きのくぐもった声でリリアスに
「おまえが、ジラーのお気に入りの縫い子か?」
と、感情のない声で聞いてきた。
直接答えて良いものか、とまどっていると、
「顔を、お見せ」
威厳のある声だった。
なるべく優雅に見えるように体を起こして、数歩ベッドにより、シーツの柄に視線を向けた。
静かに侯爵夫人の視線が自分を探るように見つめる気配がして、リリアスは緊張で手が震えた。
「あの子が女を屋敷に呼ぶというから、どうしたことかと思ったら……ホホ……」
あとの、自分をさげすむ言葉は、飲み込まれたが、貴族から見たら平民の縫い子など、飼っている犬よりも下だろう。
「顔は人並み以上だけど、あの子の手は付いたのかい?」
侯爵夫人の意外な質問にリリアスは戸惑い、そしてなぜ自分がここに呼ばれたのか分かった。
「いいえ、そのような事は……。若様とは昨日初めてお目にかかりました」
リリアスの返事に、部屋の中の重い空気がゆるみ、息を殺すように部屋のあちこちに控えていた、侍女達の動きが活発になった。
リリアスも侯爵夫人の顔を、盗み見たが化粧をしていない顔は若く、20才を超える息子がいるようには見えなかった。ただ夜更かしの疲れは顔に表れていて、生気がないようだった。
クリッとした瞳や、鼻筋や唇の形が親子でよく似ている。
「なんと……つまらぬのう。少しは色ごとに興味が出たと思ったのじゃが」
「奥方様、平民のおなごにつかまって、変な病気をうつされようものなら、お家が続きませぬ。何もなくて、ようございました」
夫人のすぐそばで年配の使用人が、追従するように言った。周りの女中たちも、かすかにうなずいている。
どうやら侯爵家の息子は、女より自分を着飾る事が優先のようで、夫人は洋服より女に関心を持って欲しいと願っているようであった。
リリアスは品定めのために、夫人に呼ばれたようだが、息子のお手付きではないと知れて、夫人の興味はなくなったようだ。
反対にこの部屋にいる若い女中達は、ほっとした様子で、リリアスに先を越されたのではないかと、恐れていたのではないだろうか。
彼女達は、侯爵子息のお手付きになる事を願っているのだろうか。
馬鹿馬鹿しい事だ。
「まったくあの子ときたら、少しは侯爵家の跡取りの自覚を持ってもらわねば。いつまでもレースだ刺繍だと女のような事は、言っておられぬのにな……」
夫人は誰に言うでもなく、ぐちをこぼして、手をリリアスに振った。
その仕草は昨日の息子と同じだった。
リリアスはさっさと頭を下げて、寝室の外に出た。
いっしょに出て来た紺色の服の侍女は、
「夕べから夫人はお前が来ると聞いて、機嫌が良かったのだが、お手付きではないとお知りになって……、これからは最悪のご気分だろう」
そんなことはこちらの知ったことではないと、リリアスは思ったがそれを顔に出すと、面倒なことになりそうなので、無表情をつらぬいた。
使用人玄関まで送られて、裏門を出ると気疲れのせいで、美しいコートを見た高揚感はなくなっていた。
――とんだ勘違いで朝早くから起き、見たくもない平民の女に時間をさいてしまった。
夕べのパーティーの疲れもとれないのに、目はさえてしまっている。
「なにかつまめる物を……」
熱いコーヒーと甘い菓子でも食べて、息子にも洋服以外の関心事が出来たと喜んだのが、ぬか喜びだったという事を忘れてしまおう。
息子はもう二十六、か七才になったはずで、婚約目当ての娘の肖像画が引きも切らずに送られてくるが、王への奉仕と、憎らしいが洋服にしか興味のない夫の侯爵は、息子の結婚にまったく関心がない。
息子もとっくに若い伯爵家の娘でも嫁にとり、子供の二人もいてもよさそうなのに、自分を着飾る事しか考えていない、腹立たしく思うがそれが自分や夫の血筋からきていると思うと、ため息しかでてこない。
――私の若い頃にそっくりだ――
美しい布やレースに囲まれていれば、それだけで幸せなのだから。自分にそっくりな息子を、嬉しく思う気持ちもあるが、男はそれだけでは駄目なのだ。
やはり、政治の中枢に入り権力を握り、国政を操るようにならなければ。
王との結婚の条件に一番近かった自分は、王妃になればどんなドレスも望みのままだと思い切望していたが、あっさりとよその国の王女にその座を奪われてしまった。
もはや王妃の座に未練はないが、王や宰相から大事にされている王妃は嫌いだ。
このまま、王に忠実な衣装自慢の侯爵家と言われて、裏で笑われては、王妃にも対抗できるはずもない。
息子には、侯爵家をより強くする家との縁が必要だ。
噂では長年蟄居していた王太后が王都に帰ってくると言われている。
それならば貴族の勢力図も大きく変わるかもしれない。なるべく早くに、他家と結びつきを強くしなければと思う。
ふと、さっき見た縫い子の髪が真っ赤だったのを思い出す。あの色をどこかで見たことがなかっただろうか。
「先ほどの縫い子と同じ赤毛を、前に見なかったか?」
長年仕える女中頭に侯爵夫人は、記憶を探りながら問いかけた。
「さようでございますねえ……」
夫人より人に会う機会がない女中頭は、わずかな記憶をたぐりよせたが、あんなにみごとな赤毛を見たことはなかった。主人と同じ人物を見ていれば、必ず記憶に残っているはずだった。
「覚えはございませんが」
「そうか……」
ひっそりとした夫人の部屋に、つぶやきのような声が立ちのぼり、女中頭は黙ったまま部屋を出た。
女中頭は長い廊下を歩くうちに、一瞬頭の中に真っ赤な何かが浮かんだが、それがなんなのか分からなかった。
誤字報告ありがとうございます。
訂正いたしました。