第47話
濃い眉毛の下の瞼が垂れた茶色の瞳から、ボロボロと涙が零れ落ち侯爵の頬を伝っていく。
唇は震えリリアスを見る瞳は、悲しいのか嬉しいのか分からない色をしている。
信じる事が、出来る訳がない。
いつか親が孤児院に、自分の両親だと迎えに来てくれたらどうしようと、孤児なら誰もが想像する事を考えた事もあったが、現実的ではなくてすぐ諦めてしまった。
親の顔も姿も二人に対峙する自分も、想像できなくて止めてしまった。
「侯爵様なのでしょう……?」
侯爵が泣きながら頷いた。
「私のお父さんでは、無いでしょう?」
顔を横に振った。
物語では、ある日馬車に乗った貴族の両親が、貧しく酷い仕事場で虐められ、絶望のうちに生活している主人公を迎えにやってきて、自分を虐待した人を懲らしめて、大きなお屋敷に連れて行き、一緒に幸せに暮らす事になっている。
虐められたり、親の愛情を知らなかったりしたが、自分の腕でのし上がり、一流の職人になりつつあるとは思っている。
不幸かと問われれば、そうではないと言いきれる。
だからもう両親を、望んだりはしていなかった。
永遠に手の届かない物の一つだと思ってきた。
自分の素性も親の顔も、どこからやって来たのかも知らずに、死んでいくのだと覚悟していたのだ。
「違う……、お父さんじゃない。お父さんは、貴族なんかじゃない。ブリニャク侯爵じゃない……」
リリアスは頭を横に振り、侯爵が――本当はお父さんではない――と言うのを待っていた。
「違うでしょ?」
「本当だよ、お姫様……。お前は私の娘なのだ。嘘なのではない」
涙を流す瞳の中に嘘を見つけようと、じっと見つめる。
「リリアージュ……リリアージュ……リリアージュ」
初めて男の人から名前を呼ばれた。
自分の名前を呼ぶ父の声は、どんな声だろうと思っていた。
野太く低い男の人の声は、リリアスの耳に響いてくる。
リリアスが動かなくなると、侯爵はそっと細い肩に腕を回し、優しく懐に抱きしめた。華奢な体は抵抗もなく小鳥の様に軽く、分厚い胸板と太い腕の中に抱きこまれた。
硬い生地が頬に当たり、焚き染められた香の匂いが侯爵の体臭と交じり合い、個性を持って漂ってくる。
これがこの人の匂いかと、太い腕の暖かさに安心感を覚えた。
「侯爵様が本当に、本当に、本当に、私のお父さん?」
頭の上の侯爵の顎が揺れて、リリアスの問いに答えてくれる。
「私が、リリアージュで、侯爵様の娘?」
「本当に、お前がリリアージュで、私の娘だ」
「後で、嘘だって言わない?」
「絶対、言わない。本当にお前が娘なんだよ」
腕を幅広の背中に回してみるが、脇の横にまでしか届かない。ぎゅうっと抱きしめてみた。胸元に顔を押し付けて、ぐりぐりしてみた。びくともしないその身体が強く感じられ、頼って良い物なのだと分かった。
「お父さん?」
胸に顔を付けたまま呼ぶと、声はくぐもって自分の声ではない様に聞こえた。
侯爵は――うん――と、答える。
「お父さん?」
なんだかひどく小さな子供になった気がした。
――そうだ――と、答える。
「お父さん」
侯爵の体が動いて、頭を揺らしている。
自分がどんなに聞いても、違うと言っても侯爵は、リリアスが娘だと言ってくれる。
見上げると侯爵は声もなく、泣いていた。
「ああ……、お父さんだ。我が娘よ」
抱き上げられ小さな子供の様に、侯爵の頭の上まで持ち上げられた。
リリアスは侯爵を信じて良いのだと、臆病に震える心の中の幼子の自分に言い聞かせた。
「あははは!」
大きな口を開けて、笑った。
歓喜が心の底から溢れ出て、体が震えるのを止められない。熱い物が喉に込み上げ、両腕を侯爵の頭に回した。
「お父さん!!」
抱きしめられた侯爵の首筋に顔を当てて、溢れる涙が流れるままにした。
シンとした部屋に二人のすすり泣きだけが響き、隅に居るオテロも顔を押さえて涙を流していた。
そっとドアが開かれ、ジラーが顔を覗かせ中の様子を見て、腰を抜かしそうになった。
「……あの、申し訳ありませんが」
ジラーは、従者のオテロの気を引いた。
オテロは顔をぬぐって、ジラーが中に入らないようにドアまでやって来た。
二人は廊下に出て、オテロが
「済まないが少しお二人だけにしておいて下さい。それから馬車を呼んで下さい。少ししたらお帰りになると思うので」
ジラーは承知して、支配人に合図した。
「リリアスは何か……」
言いかけて、中の様子からもしや侯爵の手が付いていたのかと、訝し気な顔をした。
「いやいや、大丈夫だ。何でもないのだ」
こっそりと話す二人に、馬車の用意ができたと連絡が来た。
オテロはドアを開け、
「旦那さま、馬車の用意が出来ました」
と、告げた。
泣きながら抱き合っていた二人はその声で離れ、リリアスが持っていたハンカチで侯爵の顔を拭いた。
「リリアージュありがとう、今までの事は屋敷に帰ってから詳しく話すとしよう。では我が家に帰ろう」
侯爵がリリアスの腕を取って、部屋を出ようとすると
「待って下さい。今日は行けませんよ?」
リリアスが足を止めた。
「何故だ? ああ……荷物は後で、女中にでも取りに来させるから、そのままで構わん。持って行くのは子供服ぐらいだろうからな」
リリアスは不思議そうな顔をした。そして侯爵の言葉の意味を理解して、首を横に振った。
「侯爵のお屋敷には行けません。仕事が残っていますし、まだどうするかだなんて考える事が出来ません」
今度は侯爵が不思議な顔をした。
「いやいや、親子だと分かったのだから、リリアージュは屋敷に帰ってくるんだ。これからは屋敷で、ダンスや行儀作法や今まで出来なかった事を習って、楽しく暮らすんだよ」
「侯爵……」
侯爵が――お父さんだ――と言い直したので、
「お父さん……」
と、リリアスは、少し不満げな顔で言った。
「私は、今王妃様のお衣装を縫っています。これは店ではもっとも大事な仕事で、責任があります。それを放り出して、家に行く事はできません。……お仕事をなさっているお父さんなら、分かって下さいますよね?」
胸の前で指を組み願うように頭を傾ければ、侯爵はやっと見つかった娘の願いを、無碍に断る事が出来ない。
顔をしかめ、苦悶の表情で黙った。
「しかし……」
「王妃様のお衣装なのです」
リリアスはきっぱりと言った。
「リリアージュ~……」
今にも泣きそうな声になって、侯爵が懇願するような声を出した。
「……急なお話になって、私もこれからどうしていけばいいか、まだ全然わかりません。少し落ち着いて考えさせて下さい。それにもう離れる事は無いでしょう?」
侯爵はその言葉に力強く頷き、当たり前だという顔をした。
「分かった、今日の所は帰ろう。しかし私の娘と分かった以上、もう一人で置いておく訳にはいかんのだ。従僕のオテロを、傍に置いていく。それでなければ、ここに居る事は承知できないぞ?」
リリアスは部屋の入り口にいる、オテロという人物を見た。父と同じぐらいの体で、とても洋装店にいそうな人には見えない。
酒場の用心棒と言われれば納得する、容貌である。
「マダムに、お話ししてもいいですか?」
「そこは私から今話そう。済まないがお前の事は、まだ秘密にしなければならないのだ」
「それは、私の名前にも関係する事なのですね?」
勘の良い娘に、――あの舞踏会でも頭の良い所を披露していたな――と、嬉しそうに笑いながら頷いた。
「ジラー、少し話がしたい」
と、廊下に居るジラーを呼んだ。
ジラーもこの展開に興味深々で、いそいそと部屋に入って来た。
「この娘は、我が家と縁の深い者と分かったのだ。今まで世話になって、感謝している。しばらくはまだ世話になるだろうが、我が家の縁者と知れれば色々とやっかいな事が起きるやもしれん。それで傍に私の従僕を置いていく。そちらの迷惑にならないようにするから、宜しくな」
貴族は平民に対して一方的に、この話し方で構わないようで、リリアスは聞いていて冷や汗が出た。
ジラーからすれば、迷惑な話だろう。
「承知致しました」
ジラーは頭を下げて、礼を取った。
侯爵はリリアスの耳元に口を近づけて、
「これからは、気を付けておくれ。お前は大切な……私の宝物なのだからな」
と、少し顔を赤らめて、聞いていているこちらも恥ずかしくなる言葉を言った。
「はい……、お父さん」
リリアスは誰にも聞こえないように答えたが、人が居る前で侯爵を父と呼ぶのが何故か恥ずかしかった。
「オテロお前の命に代えても、この娘御を守るのだぞ」
侯爵の声は公人の声と態度で、威厳溢れる堂々とした物だった。
「はっ! 閣下、承りましてございます。このオテロ命に代えても、お嬢様をお守り致します」
従僕らしく背中を真っすぐに倒し礼を取ったオテロは、侯爵を店の玄関までリリアス、ジラー、と共に送って行った。
馬車に乗り込んだ侯爵に、リリアスは近づき
「お体に気を付けて、またすぐに会えますよね?」
と声を掛けると、侯爵は顔を崩して笑った。
「ああ、直ぐに会いに来る」
名残惜しそうに動き出す馬車から顔を出して、侯爵は帰って行った。
オテロも去っていく主人の馬車を見送り、馬車が見えなくなると振り返り、
「お嬢様、どうぞ宜しくお願い致します」
と直角に頭を下げ硬い挨拶をしたのだが、侯爵からリリアスの事は、内密にすると言う事を聞いていないのかと、突っ込みを入れたくなるほどの態度であった。




