第46話
ブリニャク侯爵は執務室で、何かの気配に気が付いた。
耳は良い方だが、声というより振動のようで段々近づいてくる。
殴られているような強いノックの後、返事も待たずオテロが飛び込んで来た。
「旦那様!!」
息を切らせて、オテロは机の前に走り寄った。
侯爵は慌てている彼を見るのは久しぶりで、いつ以来だったかと考えた。このようなオテロの時は大抵、彼にとって大変な時で、自分にはあまり関係ないのが常なる事だった。
「落ち着いて、そこの水でも飲め」
――わあわあ――と煩くなるのは分かっているので、取り合えず機先を制して一言放っておいた。
オテロは侯爵の言う事は素直に聞くので、一瞬間が空いてから飾り棚の上にあった水差しを取って一口飲んだ。
「そんな勢いで、良く衛兵に止められなかったな」
椅子の背に体を預け、もう仕事にならないだろうとオテロの話を聞く体制になった。
「そんな事はどうでもいいのです!! お、お、お嬢様が……み、見つかったのです!!」
水を飲んで一息付けたはずのオテロは、また動き出して足を踏み鳴らした。
侯爵はオテロの放った言葉の意味が分からず、不思議な顔をしている。そしてその言葉を噛みしめる様に、頭の中で繰り返した。
しかしオテロが娘を探して、ジャジャという女と村から記憶を頼りに歩いてみたが、結局逗留していた街が分かっただけで、その先には辿り着けなかったのだ。
名前も存在も知られていない娘が、この王都に居て見つかるはずがない。侯爵はオテロの早合点に、ため息をついた。
「いくら地方を回って手掛かりを見つけられなかったと言って、何処から出てきたか分からない偽情報に踊らされるなど、お前らしくもないぞ」
侯爵は、急いで走ってきて汗を垂らしているオテロを、笑ってやった。
オテロも侯爵の冷静さに落ち着きを取り戻し、ハンカチで汗を拭きそっと体を寄せて来た。
「申し訳ございません。あまりの事に我を忘れました。ですが、本当に……、本当に、本当に、お嬢様が見つかったのです。間違いありません!!」
今度は誰にも聞かれぬように、こっそりと侯爵の耳元で囁いた。
荒いオテロの息が耳に勢いよくかかり、――くすぐったいものだな――と侯爵は思い、まともにこの言葉を信じてしまっては、いけないのだと心で強く拒否した。
侯爵が黙ったままなので、オテロは先を急いだ。
「先ほど、メゾン・ラベーエの支配人が参りました。お嬢様の情報はその男が持って来たのです」
「なんだその店は?」
オテロはじれったく体を揺らし、
「昔旦那様のご命令で、お嬢様のお衣装を作らせた店でありますよ!」
侯爵は思い当たったのか、はっとしてオテロを見た。
「我が家で、贔屓にしていた店か?」
「はい! 私が一人で店に行き、お嬢様の物を何点か依頼したのです。あの支配人は、その事を良く覚えておりました。一昨日その昔の服を持って、若い娘が訪ねて来たのですが、その娘がお嬢様かと……」
オテロは、後ろにひっくり返った。
侯爵が勢いよく立ち上がったせいで、頭が顎に当たったのだ。衝撃で目の前に火花が散って、尻もちをついたまま、痛さと眩暈で顔を押さえた。
「すぐ店に行くぞ!!」
侯爵は頭がぶつかったのも気づかず、
「誰かある!!」
と、召使を呼んだ。
「……だ、旦那様、支配人から、お嬢様が持ってこられた紹介状は貰っております。どこにお嬢様がおられるかは、分かっております。まず……私がお嬢様に」
オテロは顎を撫でながら立ち上がり、侯爵に向き合った。
「馬鹿を言うな!! 何故私が待たねばならん! 時は金なりだ、行くぞ!!」
慌てて控えの間から出て来た召使が、侯爵の外出の支度を整えて、二人は争う様に部屋を出た。
「マダム・ジラー・メゾンという所で、針子をしているそうです……」
「針子……」
本来ならば、領地で姫と呼ばれて、何不自由なく過ごしているはずの娘が、平民として針子をしている。
「針子か……」
まだ顔も見ない娘だが、どんな苦労をしてきたかと、想像するだに息苦しくなってくる。
「大層美しくおなりだと、支配人は言っていました」
オテロが、気落ちした侯爵に、これから会う息女の美しさを強調すれば、
「三歳の時から娘は可愛かった! 私はともかくも、姫様にそっくりだったのだからな」
と亡き妻を思い出して、少し気分が良くなったようだった。
大きく豪華な馬車が店の前に止まると、中からすぐにドアマンが飛び出してきて、オテロが扉を開ける前に馬車の扉を開け、持ってきていた足台を置いた。
馬車の中から降りて来た人物を見て、ドアマンは驚いて後ろに下がった。大きな体で、自分の店にやって来る他の華奢な貴族とは、違っていたからだ。しかしその顔や立ち姿が、威風堂々としていて、並みの家柄ではないのが平民の男にも分かった。
「ようこそおいで下さいました、旦那様」
ドアマンが挨拶をして、中に案内しようとした時に店の裏手から、急ぎ足でやって来たモットが侯爵を見た。
「閣下!!」
その声に侯爵もモットを見て、――おお――と声を上げた。
「お前が勤めている店か? どうりで聞いた事がある名前だったはずだ」
一緒に降りていたオテロも、納得の顔をしていた。洋服店の名前など、聞いたこともないはずなのに、何故か聞いたような気がしていたのだ。
「おいでなさいませ」
まさか自分の職場に、英雄が表れようとは思ってもいなかったモットは、満面の笑みで客として現れた侯爵を迎えた。
モットは頭を下げてから、御者の方に歩いて行き馬車を裏手に案内していった。
その慣れた働き具合を見て、侯爵はあの日彼に声を掛けられた時から、自分に運が向いて来ていたのだと分かった。
娘が働く場所に、同じ戦場で戦った兵士がいたなどと、ただの偶然とは思えなかった。
すべて神の采配としか、考えられなかった。
苦しんで……苦しみぬいた自分に、やはり神はその試練に耐えた自分に、最後は褒美を与えてくれたのだと思えた。
ドアマンから、支配人に引き継がれ店としてはまあまあ広いホールを抜け、応接室に案内された。
「只今主人が参りますので、少々お待ち下さいませ」
この店の支配人は、背の低い小柄な男で四十代位の年なのに、随分と愛嬌があった。貴族相手の商売人は、どこか気取った風を装っているが、この男はニコニコとしてこちらの身分を気にしていないような、飾らない感じがした。
しかし侯爵はもう、居ても立ってもおられず、支配人が居ようが構わず部屋の中を行ったり来たりしている。
支配人はそれでも変わる事なく、にこにこと侯爵の様子を見ているだけだった。オテロは、主人が貴族らしくない姿で評判を落としかねないのに止めもしなかったが、こちらもこれからの事を考えて上の空だったのだ。
「お待たせいたしました」
ジラーが部屋に入って来た時は、侯爵は部屋を歩き回り従者はぼおっと立ち尽くし、支配人はその様子を見守っているという状況だった。
「私がこの店の主人の、ジラーでございます。ブリニャク侯爵閣下に、おいで頂いて光栄でございます」
ジラーが挨拶すると、侯爵も顎を少し引いてうなずいた。
「お茶が……」
と、ジラーが話そうとすると、
「マダム……、貴女がメゾン・ラベーエに紹介状を持って行かせた娘を、連れてきて欲しい。私の名を出さず、密かにな」
前触れもなく突然現れた一見の客だが、断るなど考えられない程の有名人である。
ジラーは、噂に聞く赤鬼ことブリニャク侯爵が、リリアスを名指して呼びつける事が不思議だった。
「閣下はリリアスをご存知なのでしょうか?」
「リリアス?」
侯爵はオテロを見た。
オテロは頷いて、
「リリアス・コルトレと仰るそうです」
と、答えた。
侯爵の心臓は跳ね上がり、どっと体中に汗が出た。このような偶然が本当に、あっていいのだろうか。
――まさか、まさか――
「リリアス嬢は、この間陛下主催の舞踏会に、デフレイタス侯爵の付き添いで出席しなかったか?」
ジラーは笑った。
「さようでございます。閣下はその時リリアスを見知ったのでございますか?」
侯爵は動けなくなった。
自分はすでに娘に会っていたのだ。
オルタンシア公爵に紹介されて、美しいお嬢さんだと褒めたのではなかったか?
「おお……おお…」
思わず声が出て、喉元に熱いものがこみ上げてくる。
侯爵は顔を逸らし、ジラーに潤んだ目を見られない様に外を見た。
工房のドアが開き、支配人が入って来た。彼がここに来るのはとても珍しい。
女性ばかりの仕事場に支配人とは言え、足を踏み入れるのは戸惑われるのだろう。よっぽどの事がない限り、下女に用を言いつけて来させているのだ。
大体接客と帳簿付けが仕事だから、工房の女性とは関係がない。
「リリアスさん、ちょっと……」
リリアスは、――え?――と思いながら、針を針山に戻して立ち上がった。席を離れる時に必ず針を針山に戻すのは、もう無意識の行動になっている。子供の頃から仕込まれた事だ。
もうそれを教えてくれた人の顔も、忘れてしまった。
「貴方にお客様だが、貴族の方だから粗相のないようにね」
良く言われる言葉だが、そういえば若君はこの頃工房に顔を出さないなとふと思った。自分を呼び出す貴族と言えば、若君ぐらいだがわざわざ呼ばれるという事は違う人なのだろう。
頷いて支配人に付いていけば、応接室にはジラーと見知った人が、扉を開けて入って来たリリアスを、食い入るように見つめていた。
若君が国の英雄と言った、ブリニャク侯爵だった。宰相に紹介されて少しの間一緒にいたが、自分を訪ねてくるような用があるのかと思った。
「いらっしゃいませ、コルトレでございます」
スカートの脇を両手で摘まみ、少しは習った作法で足を引いて頭を下げた。
貴族の前に出られる服装ではないが、急いでいるようだったのでそのまま来たが、侯爵とは舞踏会で着飾った時に会っているから、今の粗末な服装で会うのはとても恥ずかしかった。
だが侯爵はあの時の娘が、自分だと分かっているのだろうか。
「マダムジラー、済まないがこの娘だけと話がしたい」
侯爵は視線を逸らさず、口を利いたが随分と急いているようだった。
ジラーも貴族がここで無体な事もしないだろうと、
「外にいるから、何かあったら声を上げてね」
と、リリアスにこっそりと声をかけて支配人と出て行った。
しばし静寂が訪れた。
誰も話さないから、リリアスも何も言えなかった。
この間の舞踏会の話でもすればいいのかなと思っていると、近くに居た大きな男の人が動いた。
「お嬢様……どうぞこちらにお座りください」
と、手をソファーに向けた。
リリアスは、――お嬢様なんて――と思い、おかしくなって少し笑った。
「侯爵様の前で腰かける事はできません。どうかこのままでお話し下さい」
侯爵は横に頭を振り、よろよろとリリアスに近寄って来た。
突然の事にリリアスは身を引いたが、大きな侯爵の体は目の前にあって、そろそろと手を差し伸べてくる。貴族の大きな体の男の人が、自分の手を握ろうとしているのに怖くないと思うのは、侯爵の顔が歪んで泣いていたからだった。
「侯爵様?」
リリアスが声を掛けると、侯爵はそっと真綿でくるむ様に手を包み込んだ。
そしてかがんでリリアスの目を覗き込み、
「私の娘の名前は……リリアージュ・コンスタンス・サレイユ・ティルクアーズ・ルヴロワというのだ。
ルヴロワは、私の家の名前だよ。……お姫様」
と、告げたのだった。




