第45話
その使者は朝やって来た。
女主人が居ない屋敷はどこか野暮で、華やかさが無いものだ。
屋敷は侯爵家に相応しく、大きく豪華だが何故か侘しさを感じさせるのは偏見だろうか。灰色の石で作られた屋敷は、広大な林を後ろにして風格を持って建っているのだが、夫人が居ないという事実が人にそういう印象を与えるのかもしれなかった。
馴染みの店だが、この頃は呼び立てる事もなく、執事もすっかり忘れていた店の名前だった。
――メゾン・ラベーエ――の支配人からの、屋敷への訪いを請う手紙だった。
執事は、従僕のオテロに手紙を持って行った。
従僕のオテロは、つい最近二週間程の外出を終えて帰って来たところで、そこからずっと元気がなく、日々の主人への勤めも覇気がなかった。
「洋服店? 旦那様の衣装を作る予定は無いが。誰が呼んだのだ?」
「いえ、そうではなくて、支配人がこちらに伺いたいと、言って来ているのです」
オテロは顔を不機嫌にして、手紙を執事に渡した。
「貴方が聞いておけばいい。どうせ新しい服を作れとでも言いに来たいのだろう」
執事は首を横に振って、それを否定した。
「オテロ殿を指名しているのです。貴方にお話があると……」
オテロは口を歪め嫌な顔をした。
「私を名指しでか……。何という奴だ?」
「サリム・マレと言って、クチュール業界では名前を知らぬ者はいない、遣り手の支配人ですよ。貴族男性のモードの発信は、この店からと言われていますからね、」
執事はさすがに貴族の嗜みについての情報は詳しく、着られれば良いというオテロなどとは趣味の良さが違っている。
オテロはため息をついて、諦めの顔をした。
「商売人の逞しさには驚かされるな。分かった今日の予定は無いから、いつでも来いと伝えてくれ」
執事は――そういう男では無い――と諫めようとしたが、オテロはさっさと歩いて行ってしまった。
使者に許可を与えると、伝言されていたのだろう、午後一番で伺いたいと伝えられた。
その男は静かにしかし確かな存在感を表しながら、オテロの仕事部屋に入って来た。
遣り手と執事が言っていたがその通りで、貴族の従僕をしているオテロより貴族の召使の様な男だった。
グレーの三つ揃いは、寸分の狂いもなくその細い体を包み、その人物の品格を上げている。
戦うのが仕事のオテロは、自分のセンスの無い服装を自覚し、心の中で笑った。
「オテロ様、お久しぶりでございます。長い時間がオテロ様を良いワインの様に、気品高く重厚な方になさった様でございますね」
腕を胸に付けて頭を下げ挨拶をしたマレという支配人は、起き上がって、きょとんとしているオテロを見て軽く微笑んだ。
「会った事があったか?」
マレは頷いて、上着の端を軽く両手で引っ張った。
「私は一度たりとも忘れた事はございませんよ。オテロ様が私共にご来店なされて、とあるお嬢様のお洋服をご注文なさった事は……」
オテロは真顔になって、マレを見た。
そうすると記憶の底から、この男というよりメゾン・ラエーベの店の中の様子が浮かんできた。
自分とは縁のない店で、使いで行かなければ一生出入りすることのない所だった。
勝手がわからなく、戦場よりおろおろしたのを思い出した。そこにこの男はいたのだろうか?
それより、今非常に重要な言葉をこの男は口にしたと、気持ちを引き締めた。
老舗の品のある支配人だとしても、高々平民の男にこの場所での主導権を渡すわけにはいかない。
「マレと言ったな? 今日は昔話をするためにやって来たのか? それに貴族から受けた仕事の内容を、軽々しく口にするのは感心せんぞ」
マレは軽く頭を振り、微笑んだ。まるで自分には、敵対する気持ちなどないと言わんばかりに。
「今日はここでオテロ様に、一つ私にお約束して頂けなければならない事がございます」
と、穏やかに切り出した。
貴族の従僕の自分に、約束などとは片腹痛いとオテロは鼻で笑った。
「どんな要件なのだ。お前のほうから約束などと、言える立場であると思っているのか?」
「だから……、でございます」
マレは背筋を伸ばし、オテロを真正面から見た。
「しがない、洋品店の支配人の私ですから、オテロ様のお約束が必要なのでございます。これから私がオテロ様にお伝えする事で、私と店になんら攻撃を仕掛けないというお約束が無ければ、このまま帰らせて頂きます」
平民の男が貴族にこれだけの啖呵を切るのは、普段あり得なかった。よほど重要な事案でなければならない。
急にオテロの心臓が跳ねた。
先ほどからマレは、自分に暗示を与えてくれていた。
メゾン・ラエーベの名と、二人が面識があるという事、そしてとあるお嬢様という言葉だ。
マレは真摯にオテロを見て辛抱強く待っている。わざわざ身の安全を確認しなければならないほどの、話という訳なのだ。
「分かった、我が主の名と剣に賭けて、お前と店への安全を必ず保障しよう」
鬼神と呼ばれた男の傍に片時も離れず居る男の誓いは、どんな貴族の保証書よりも、信じられる物であった。
マレは、頭を床に付くほどに下げ、しばらく動かなかった。
「平民の私の願いをお聞き下されて、心の底から感謝申し上げます」
ほっとした声で、礼を言った。
「構わない。済まなかったな、座ってくれ」
椅子も勧めず、二人は部屋の真ん中で立ったまま話していたのだった。
「昨日我が店に一人のお若い女性が、いらっしゃいました。あるメゾンの紹介状を持っておりましたので、仕事に就きたいのかと思いましたが、彼女は一枚の子供服を持ってまいりました。……それがどういう物かは、もうお分かりでございますね?」
いかに頭の鈍いオテロでも、その服が誰の物かは分かった。
ぐっと体を椅子から乗り出して、マレの方に顔を寄せた。まるで謀を企てる時のように。
「その服がどなたの依頼で製作されたかはすぐ、分かりましたが。スカートの裾に後から刺繍された名前がございました。それがどなたの名前かお分かりでございますね?」
マレはまた聞いた。
オテロは頭を横に振った。誰の名前なのか、聞くのが怖かった。
マレも顔をオテロに寄せ、鼻付き合わせるほどの近さになった。
「リリアージュ・コンスタンス・サレイユ・ティルクアーズ……と、ございました」
オテロは立ち上がり、拳を握りマレを睨みつけた。
「お前がぁ……嘘を言っているなら、その首を胴体と切り離してやるぞ!!」
顔を真っ赤にし、筋を額に立てているオテロは、さすが赤鬼と呼ばれた主人の従僕をやっているだけあって、普通の男なら尻尾を巻いて逃げ出すほどの迫力だった。
マレは少しも怯む事無く笑い声さえ上げた。
「攻撃をしないと仰った舌の根も乾かぬ内に、そう仰るのでございますか?」
オテロはあまりの衝撃に、部屋の中を行ったり来たりしだした。
「お前はその女を知っているのだな?」
「はい、紹介状を持って参りましたから、良く知ったメゾンのお針子でございます」
「針子? 平民の働いている女なのだな?」
「はい、年は十六・七のそれはお美しい娘さんで、イイギリの赤い髪と新緑の瞳をなさっておいででございましたよ」
いかにも楽しそうな顔で、オテロに告げた。
突然オテロはマレの腕を掴んで立ち上がらせ、走って部屋を飛び出した。引きずられるように、マレは侯爵家の馬車に乗せられ、何も言えないまま馬車は動き出した。
「オテロ様、流石に私はメゾンには行けません」
「何故だ?」
馬車を全速力で走らせるように命令したオテロは、冷静なマレの言葉にイラついた顔をした。
「この情報源が我が店と知られると、信用が落ちます。それにあの家名でございますよ? 貴族同士ならばまだしも、国の話となれば我々は首を入れる訳にはまいりません。……僭越でございますが、閣下にお話もされぬまま、メゾンに出掛けても宜しいのですか?」
オテロはぐっと詰まって、体を固めた。しばし考えてから、御者に行き先を宮殿に変えるように言った。
「私はここで降ろして頂きます。きっと乗ってきた馬車が、慌てて追いかけてくると思いますので」
まだ侯爵家の敷地内なので、マレは慌てず優雅に馬車を下りて、オテロが宮殿に普段着の様な服で行くのかと内心で驚きながら、土埃を上げて去っていく馬車を見送った。




