第44話
強い刺激臭でリリアスは咳き込みながら、飛び起きた。
目の前に老人が手に瓶を持って、心配そうに立っている。
「おお、気が付いたか。急に気を失ったから、驚いたよ」
老人は瓶を置いて、リリアスの顔色を見ている。
目の焦点が合わず視線をさ迷わせていると、冷たくなったリリアスの手の甲を、老人がさすってくれた。
その後お茶を入れなおしてくれて、持ってきてくれた。
「さあさあ、ゆっくり飲んでな」
「ありがとうございます。ご心配かけてすみません」
「いやいや、お嬢ちゃんとお茶が飲めて楽しかったが、休んでいる間に家に使いをやって、迎えに来てもらった方が良いのじゃないかな?」
「いいえ……家族はいないんです。それにもう大丈夫です、お世話になりました」
リリアスはゆっくり立ち上がった。ぼおっとしていた頭もはっきりとしたし、とにかく一人になって考えたかった。
老人は店の入り口まで付いて来てくれて、
「また何か知りたい事ができたら、お茶を飲みがてら来るといいさ」
と言って、心配気な顔をまだしていた。
「はい、きっとまた寄せて頂きます。今日はありがとうございました」
頭を下げて、日が高くなった街を歩きだした。
あまりの衝撃に貧血を起こしたようだ。
自分の名前が隣の国の王族の名前などと、おとぎ話のようで信じられなかった。
きっとどこか地方の小さな貴族の生まれで、それなら行方不明になっていた親戚の子が、戻って来たという程度の騒ぎで済む話なんじゃないかと思っていたのだ。
両親が生きているにせよ亡くなっているにせよ、自分がどうして王都の教会の前に、捨てられていたのかも分かって、小説のように家に帰るか王都で針子を続けるかとかでひと悶着あって、やっと自分の生活に日常が戻ってくる……と、想像を広げて思い悩んでいたのに、真実はそれらを軽く飛び越えた物だった。
自分の名前に、処刑された王妃と先々代の王妃の名前が付けられている?
では父や母の名前は?
一体この名前は誰が付けたのか――。
ぶんぶんと頭を振った。考えても考えても、何も分かりはしなかった。
先の戦争の事も知らない上に、隣の国がどうなっているのかも、王達が処刑された事も何も知らないのだ。
リリアスはすっかりしょげ返り、とぼとぼと寮に戻って行った。
帰ってからリリアスは熱を出して、寝込んだ。
ひとり部屋で横になって、久しぶりの熱の浮遊感と辛さを感じていると、ノックがあった。
「リリアス……ご飯は食べられそうかい?」
寮での食事や昼ご飯の賄を作ってくれている、ヤニクだった。
丸々と肥えた体で大勢の食事を作る姿は圧巻で、料理を作ったことが無いリリアスには、理想のお母さんだった。
首を横に振ると、――やっぱりね――と言って、スープ皿をテーブルに置いた。
「冷めたスープだから、喉越しは良いと思うんだ。飲めそうと思ったら一口でも飲んでみなよ。あと、モットが来てるけど、会うかい?」
熱で辛いけれど、一人でどうしようもない事を、あれこれ考えていても、碌な考えにはならない。誰かに傍にいて欲しかったから、うなずいた。
「モットは悪い人じゃないが、弱った女の子の部屋に一緒にしておくには、まだ若いから私が傍にいるけど、良いかい?」
「ありがとう。ヤニクさんは忙しくない?」
「ああ、今日は晩御飯はいらないから暇さ。気にすんじゃないよ。病人は寝てればいいんだよ」
ヤニクは部屋の椅子に腰かけて、昼寝でもするつもりか窓枠に肘をついて目を瞑った。
開いたドアからこっそりと、モットが顔を覗かせた。
「いいのか?」
猛獣の檻にでも入るかのように、恐々と体を入れてきた。
「おかしいわ、モット。変な物はないわよ」
リリアスがくすりと笑うと、
「若い女の子の部屋なんて、入った事ないからな。ちっとは遠慮してんだよ」
「へヘン……、この頃――花園――って娼館に出入りしてるって、聞いてるよ。若い子なんだってね」
ヤニクが目を瞑ったまま、声を出した。
「ば、ばっか……。そんな事ないよ」
モットは頭を掻きながら、ベッドの傍に来てしゃがんだ。
「足大丈夫?」
モットは頷いた。
「それよりそっちはどうなんだい? 健康そうだったのに、熱出すなんて大丈夫なのか?」
心配そうなモットの顔を見て、病気の時に心配されるのは嬉しい事だと思う。少し笑って大丈夫だと頭を振った。
「戦争の事聞きたいんだけど、良い?」
モットにとっては、懐かしい話かもしれないが、そればかりでないのは分かる。
「なんだ急に。俺が知ってるのは、前線の戦いの事だけだぞ?」
「うん……。どうして隣の国と戦争が起こったの?」
モットは意外な顔をしてから、どっかりと床に座り込んで、腕を組んだ。
「俺ら一兵卒から見た戦争は、イズトゥーリス国が欲をかいた事から、始まったもんだと思っている」
「国が欲をかくの?」
「ああ、俺らの国は資源もあるし富んでいるし、平和で文化も発達してる、よそから見たら欲しいと思うんだろうなあ」
当時イズトゥーリス国の国境と隣り合っていた、ブリニャク伯爵の領地に、突然隣国の兵が攻め込んで来たのが始まりだった。
伯爵は歴戦の猛者だったから、兵を引きながらも敵兵を領土の奥に誘い込んで、少しづつ敵兵を潰してその時は隣国に兵を引かせたのだった。
しかし隣国は散発的に国境を越えてくるので、ついに王が兵を挙げブリニャク伯の領地の国境で兵同士がぶつかったのだった。
「それでイズトゥーリス国は負けて、我が国と停戦条約を結ぶ事になったんだ」
「えっ? それじゃあどうして、その後も戦争が続いたの?」
「それがな、国境で停戦条約を結ぶために、宰相がブリニャク伯と出て行ったんだが、イズトゥーリス国は宰相を人質に取って、領土の分割を申し込んで来たんだ」
「宰相が人質になっても、陛下が領土を差し出すわけないじゃない?」
「そう思うだろう? 俺たちにはそこの事情が分からないが、陛下はブリニャク伯に宰相の救出をお命じになり、伯爵は見事宰相を助け出し、また両国は戦争状態になった……ってのが、終戦前の状況だった。宰相閣下は陛下の親戚にも当たるから、見捨てられなかったんだろうなあ」
その一年後にイズトゥーリス国は内乱も起き、戦争を維持することが出来なくなり、自国に攻め込まれ王族が捕まり、とうとう終戦になったのだった。
「俺達はすぐ帰る事ができたけど、上の人達はイズトゥーリス国に行って戦後処理なんかで、大変だったらしいな。一つの国を潰して、自国に併合するなんて、上手くいかないんじゃないかと思ったもんだぜ」
その頃の事をまた思い出していたモットがベッドを見ると、リリアスが頬を赤くして熱が上がったような顔をして眠っていた。
「おい、ヤニク。リリアスの熱が上がったみたいだ」
慌てて立ち上がり、眠っていたヤニクを起こした。




