第43話
目の前には炭酸で割られた果実水と、指で摘まめる砂糖菓子が置かれている。
歩いてきて喉が渇いているリリアスは、じっとそれを見ていた。
「どうぞお飲みください、気が抜けてしまいますから」
そう言われて、やっとグラスを取って口にしたが、冷えているのでどうやったのか驚いてしまった。
執事服の男は、店の支配人で――サリム・マレ――と名乗った。
年は四十代後半の細くて品のある顔立ちで、いかにも老舗の支配人という姿だった。
リリアスの持って来た服のタグを見て、いつの頃の品かすぐ理解する知識を持っていて、それだけで顧客と認めてくれたのだ。
「店ではデザイナーが変わった時か、縫製の主任が変わった時にタグを新しくしております。ですからお嬢様がお持ちになったお品が、いつの主任の物か分かります。お嬢様の物は我が店最高と言われました、主任が手ずから縫製致した物でございます」
何故そこまで分かるのかという顔をしたのだろう、支配人はタグを指さし、
「彼が縫製した物には、彼特有のサインをタグに施します。白糸で三日月がそうなのございます」
「マレーさん、でも私がこの服の持ち主だというのを、嘘だとは思わないのですか?」
支配人は僅かにほほ笑んだ。
「少し席を外させて頂いた時に、確認してまいりました。十数年前、私は副支配人になりたてで、仕事に前向きでありました」
支配人は懐かし気に洋服を見た。
「戦時中で物資もなかなか手に入らぬ時に、三歳児のお子様のお洋服をと注文が入りました。採寸をしたりお母様とデザインや色の選択等に、普通はお伺いして製作いたしますが、その時はサイズとお子様の瞳と髪の色を教えて頂くだけでした。……それで、良く覚えているのでございますよ」
支配人はリリアスを見つめた。
「イイギリの木のような赤い髪の毛であり、新緑の様な瞳……と、お使いの方はそれはもう、我が子の様に、愛情溢れるお顔で仰られておいででした」
まるでどこかの姫様の姿を映しているようで、それが自分の事なのだろうかと、不思議な気分になってしまう。ここまでの話では、注文主はある程度地位のある人の様に思えるが、まさかという気持ちのほうが大きい。
段々と明かされてくる自分の事に、リリアスは正直ついていけていない。
「ですが、マダムジラーから、こちらでは貴族の方でも注文を断る事があると、お聞きしましたが?」
「そのお客様は、以前からの古いお馴染みの方でございますので。多少の無理はお聞き致します」
「その方のお名前を教えて下さい!!」
リリアスは興奮して、叫ぶように言った。
その名前が服に刺されている名前と同じなら、自分の両親が誰なのかが分かるのだ。
支配人は残念そうな顔をして、首を横にふった。
「申し訳ありませんが、顧客の方の情報はお伝え出来ません。その方とご一緒か、ご紹介のお手紙が無ければ、お教えできるのはここまででございます」
リリアスは思わず立ち上がって、支配人を見下ろした。洋服の持ち主本人と認めて、丁寧な扱いをするのに、注文した客の名前を言わないとは理不尽ではないか。
ただ顧客名簿の名前を言うだけで良いのにと、支配人の態度に腹が立った。
怒りの顔に支配人は、冷静な態度で背筋を正している。
我が儘で利己的で傍若無人な貴族を相手にしてきた彼は、このような時はいつも冷静に毅然とした姿勢を崩さない。
一流店の看板を背負っている自負を持つ彼は、貴族のどんな脅しにも屈しなかったのだ。
「お嬢様、それがお客様の信頼を得ている店の、方針という物でございます」
そう言いながら、支配人は黙ったままリリアスを見つめ、指を洋服の裾の刺繍の文字に当てている。
首をかしげながら、そこを見ると指は――ティルクアーズ――の所を指していた。
「この街の通りには、紋章店がございます」
とだけ支配人は言った。
支配人とドアマンの丁寧なお辞儀を受けながら、リリアスは店を後にした。
支配人の対応はとても親切な物だと感じたが、それでも名前ぐらい教えてくれても良いのではないかと、落胆した気持ちでとぼとぼと歩き出した。
目の前にぶら下げられた獲物を、突然取り上げられた犬の気持ちが良く分かる。そんな馬鹿な事を考えながら、それでも最後の支配人の仕草と言葉に何かの暗示が有るのかと思い返し、一応その店を探してみようとした。
数軒先にある店の上の看板に、盾を挟んで馬が二頭立っている絵が描いてあった。
字が読めない人にも分かるように店の看板には、その店特有の物が描いてあるが、この店がそうなのだろうかと、リリアスは店の窓を覗いて見た。
中は狭く大きな机があるだけで、頭が真っ白な老人が一人大きな本を見ていた。どうしようかとじっと見ていると、老人が気が付きリリアスに手招きをした。
戸惑って動かないでいると、老人は立って入り口のドアを開けた。
「お嬢ちゃん、どうしたね?」
自分の店を若い娘が訪ねてくるのが珍しいのか、それとも客自体がやって来るのが珍しいのか、老人はニコニコ笑っている。
「あの……、紋章店って探しているのですが、ここですか?」
老人は破顔して、リリアスを招き入れた。
「さあさあ、そこに座った」
机の前の椅子を勧め老人は奥の部屋に入っていったが、中から食器の音がしたので、飲み物でも用意しているのだろうと思った。
「ちょうどお茶にしようと思っていたんだよ、お嬢ちゃんは良い時に来てくれた。一人でお茶は寂しいからね」
机の上にカップを並べ、老人は丁寧にお茶を入れてくれた。
二人でお茶をすすると、――ほお――とため息が上がった。
緊張しながらクチュールに出掛け、とうとう自分の素性が分かると思っていたのに、中途半端な状態で話は終わってしまった。
支配人の話ではどうやら自分は貴族の出のような気がするが、まだ信じられない気持ちの方が強い。
お茶をほぼ飲み終えると、老人がやっと口を利いた。
「私の店にどんな用事があるのかな?」
老人は緊張した顔で、自分の店を覗く若い娘をほおっておけなくて、招いたのだった。お茶を飲んだ後は穏やかな顔に戻って、店の中を見る余裕もできたように見えた。
「ご主人は、――ティルクアーズ――という家名に心当たりはありませんか?」
店の中の壁には色とりどりの盾の絵が張られていて、リリアスはようやく紋章店の意味が分かった気がした。きっと貴族の家の事に詳しい人がいるのが、紋章店なのではないかと。
老人はその質問に、驚きと意外という顔をした。
「お嬢ちゃんがその名前を知っているのに驚くし、その名前の正体を知らないのが意外だね」
老人は意味不明な事を言った。
「皆さんが、知っている名前なのですか?」
もしや事件を起こした家の名前なのかと心臓が跳ねた。
「ティルクアーズというのは、先の戦争相手の国の、王族の家名ではないか」
老人は、当然という顔でそう語った。
リリアスは言葉もない。
「知っているだろうが、イズトゥーリス国は我が国に滅ぼされて、王位継承者はほぼ捕らえられ処刑された。もうその名を名乗る者は、傍系に僅かに残っているだけだろうね」
体が震えるのが分かる。
「……リリアージュ・コンスタンス・サレイユ・ティルクアーズという名前は、知っていますか?」
老人は――フム――と顎髭を摘まみながら、考え込んだ。老人が黙り込んでいる間、リリアスは生きた心地がしなかった。
「コンスタンスは今回の戦争で亡くなった王妃の名前、サレイユは先代の王妃の名前の一つだが、儂が知る限りではリリアージュという名の王族はいないはずだがなあ……」
老人は後ろの棚から皮で装丁された大判の本を取り出し、中に書かれている家系図を確かめている。
リリアスは椅子に座ったまま、静かに気絶した。




