第42話
ベッドの上の壁にはクルスが張り付けられて、シスターの信仰を感じさせるのはそれだけだったが、部屋の中は机が置かれただけの、何の飾りも無い殺風景なものだった。
たった一言話すだけで力を使ったシスターは、目を閉じてじっと声が出るのを待っているようだ。
「あの日……、貴女を見た時……、迷子だと思いました」
シスターの瞳は、十四年前の初春の寒い午後の日を見つめていた。
リリアスは彼女がどんなに息苦しく声を震わせても、胸を大きく動かしても、話が終わるまで聞かなければならないのだと思った。
それが彼女の最後の願いだろうと、感じていたから。
「質の良い羊毛のコートを着て、ビロードのボンネットを被っていたわ……」
リリアスは声を聞こうと近づけていた体を、起こした。急に出てきた言葉に不安な気持ちになり、首を振ってそれを否定した。
「いいえ、粗末な洋服を着ていたと聞いています」
その服ももうどこかにいってしまい、手元には残っていない。唯一自分の物と言い切れて、両親への手掛かりになる物だったのにだ。幼かった子供には、持ちづづける術がなかった。
「コートを脱がすと、私には見たことも……ない、誂らえたビロードの服を着ていたの……」
シスターは病床で夢を見ているのだろう。
「シスター……もうお休み下さいな。私がしばらく横にいますから」
シスターは手を出して、リリアスを見ながら床を指した。リリアスは床を見るが、ハッとしてベッドの下を覗いて見た。
ベッドの壁際に大工道具が入っているような、荒く作られた木箱があった。
潜って箱を取り出すと、埃も被っておらず綺麗な状態で、それはシスターが大切にしていた物だと思えた。
抱えても軽い箱で、シスターの机の上に置いた。
「開けて見てちょうだい……」
今度ははっきりとした言葉で、何かを決意するような毅然とした声だった。
リリアスにとって重要な物が入っていると、分かるのだがそれを見るのは怖かった。
今まで自分が考えてきた両親の事や生まれた場所などが、分かるのだろうかと期待してしまう。
この木の小さな箱に、自分の全てが入っているのかと怖くなった。
そっと蓋を取ると、中には布に巻かれた何かが入っていた。その布を開くと、色で言えば茜色の綺麗なビロードの幼児服があった。袖と襟と腰の幅のある切り替えしの所に細いが繊細なレースが付けられ、子供服とは思えない贅沢な作りだった。
「これが……?」
「ええ、貴女の……服です」
布もデザインも縫製も今のリリアスならば分かるが、どれも超一流の物ばかりだった。本当に自分が着ていたならば、十四年経ったのに今でも色あせていない染めの技術が素晴らしかった。
裏を見ると、身頃とスカートの縫い合わせの所の、折り伏せ縫いの糸が解かれていた。
洋服を解いて、他の物を作ろうとしたにしては、半端なやり方だった。
「その洋服の中には……宝石が入っていたのです。私は貴方の財産を盗んだ、泥棒なのです」
机の所に立つリリアスの顔をシスターは、しっかりとした顔で見ていた。リリアスの非難も怒りもすべて受けるつもりの、決意の顔のようだった。
「意味がわかりません、どうして洋服の中に宝石が縫い込まれていたのでしょう」
「貴方が教会に置いて行かれた事と、関係が有るのかもしれません。偶然見つけた私は……それを盗んで売り払ったのです」
シスターの告白に怒りよりも、驚きがあった。神に仕え清廉な心を持っているシスターが、人の物を盗むなどとは信じられない。
「何か理由があったのでしょう?」
「……理由など関係ありません。私が人の物を盗んだ事に変わりはないのです。……その罪を隠す為に私は貴方の本当の名前も、苗字も隠してしまったのです。貴方に着ていた服が粗末な物だったと、教えたのも私なのですから……」
そう言われてリリアスは洋服の裏を丹念に調べると、スカートの後身頃の裾に小さく素人が刺したと見える
――リリアージュ・コンスタンス・サレイユ・ティルクアーズ――という文字があった。
幼心に決して忘れてはいけないと思った名前が、突然目の前に現れた。
リリアスは洋服をそっと抱きしめた。
それは小さな物だが、これにこそ両親の愛情があるように思えるのだった。
戦時中に高級品を作らせ、そしてきっと母だろうが、子供の名前を刻み込んだ事で、決して自分はいらない子供ではなかったのだと思う事ができる。
静かな寝息が聞こえ、シスターを見ると疲れてしまったのだろう、顔に隈ができていた。
包まれていた布で洋服をくるみ、シスターの額に口づけし部屋を出た。
喜びと驚きと悲しさが心の中を巡り、リリアスは疲れを感じ、教会の聖堂で椅子に腰かけた。
外では子供達の笑い声が響いていて、ときおりモットの野太い声も聞こえる。
リリアスは自分の両親が誰であっても、何処で生まれたとしても、仮の名前ではない本当の自分を知る事が出来て、これから強く生きていけるのだと思えるのだった。
心を落ち着けたあと、孤児院に向かった。
庭で子供達と鬼ごっこをしていたモットは、足の不自由さを感じさせず、逃げながら軽くいなしていた。
リリアスの姿を見て立ち止まると、子供達に一斉に縋りつかれて芝生の上に引き倒されてしまった。
「おーい! いい加減に勘弁してくれー!」
情けない声を上げていたが、顔は笑っていた。
「さあ、皆! 今日はお姉ちゃんのお店の女の人達が、縫ってくれた洋服を一杯持って来たから、着てみてちょうだいね」
歓声を上げてリリアスに寄って来る子供達は、少しも疲れているようには見えなかった。
モットは芝生に座ったまま、子供の恐ろしさを感じていた。
「お疲れ様、中でお茶を入れるから行きましょう」
リリアスは、モットの手を引っ張って、孤児院の中に入って行った。
ジラーの店に初めて来たときに着ていた服を着て、髪の毛も綺麗に結ってリリアスは、今日老舗のクチュールを訪れた。
店の入り口にはドアマンがおり、リリアスの姿が決して店の顧客に見えなくとも、失礼な態度ではなくゆっくりとドアを開けてくれた。
ジラーの店も侯爵家を顧客に持つほどだから、内装は庶民には想像もつかない素晴らしさだが、この店は貴族相手に八十年以上経営してきた、老舗中の老舗だった。
店に使われている大理石の柱や床や磨かれたシャンデリアは、リリアスにはお城を思い出させた。
黒の執事服を着た男性が小机の所から立ち上がり、リリアスの傍までゆっくりとやって来た。その間にリリアスの服装や髪形や立ち姿などから、どこの階級の出身か吟味しているようだった
「いらしゃいませ、ご予約はなさっておいででしょうか? お嬢様……」
言下に――君は予約などしていないのだから、帰った方が良いのではないかな?――という意味が感じとれる。リリアスもそうは思っているのだが、今日はそう簡単に尻尾を巻いて帰るわけにはいかないのだ。
バッグから封筒を取り出して、男に渡した。
「マダムジラーからの紹介状です」
男は意外な名前が出てきて、不意を突かれた顔をした。目の前で開くと、リリアスの事が書いてあると思うのだが、男は二度読み返した。
顎に手を当てて考える素振りを見せてから、
「奥の部屋にどうぞ」
と、リリアスを招いた。
それ程広い部屋ではないが、女性受けするような部屋で、飾られた絵やマントルピースに置かれた小さな彫像も、花や動物の物だった。
「マダムジラーからは、貴女は彼女の店のお針子だとありますが、こちらの店に勤めたいのですか?」
「いいえ、そうではありません。是非見て頂きたい物があるのです」
リリアスはそう言って、大きめのバッグから布包みを取り出して、テーブルに置いた。
男性は
――開けても?――
という顔をしてから、布を開いた。
そこにはリリアスの子供服があった。
男性にもそれが高級品だと分かったのだろう、感心した顔をしてポケットから白い手袋を取り出し、嵌めてから手に取った。
「こちらで作られた、洋服だと思うのです」
男性は服の裏側を見て、店の印の細いタグを見つけた。
そしてタグのデザインから、いつ頃作られたかも分かるのだった。
「確かにこちらの店のタグが付いておりますね。どなたのお衣装でございますか?」
男性の言葉が段々と丁寧になってきている。
この店はただお金があるというだけでは、仕事は引き受けない。
店が客を選んでいるのだ。
そうするだけの、技術があると自負している。
そして一度でも仕事を引き受けたら、その客は店の大事な顧客となり、どれほど落ちぶれても依頼をうけたなら、洋服を作るのだ。
「それは、私の着ていた物です。……嘘では、ありません」
男性はリリアスに、心からの笑顔を見せた。
「ようこそ、おいで下さいました。お嬢様」
その言葉は、リリアスには信じられない物だった。




