第41話
夜明けが早くなっている。
リリアスは、朝日の端のほの明るさが、空に現れる頃起きだして身支度を済ませる。
朝食はスープとパンとチーズの、この町ではごく普通の物だ。
仕事場と住居が近いのはとても便利で、誰よりも早く仕事に取り掛かる事が出来る。
シーンとした作業場で、今日使う道具を取り出して定位置に置き、隣の部屋の棚から刺繍糸を持ってくる。
椅子に腰かけ、段々と窓の外が白くなり、部屋の中の物がはっきりと見えるようになると、手慰みの布に余った刺繍糸で花を刺していく。
これは仕事をするようになってからの、自分の決まり事だ。心を落ち着け指を慣らし、先に待っている仕事への準備をしていく。
ぺラジーの様に、誰かと大きな声で話しながら店にやってきて、そのまま作業机に向かうという、器用な事ができない。
こういう神経質な所が嫌なのだが、持って生まれた性分だから仕方がないが、いつもフラットな精神のぺラジーが羨ましいと思う。
しばらく夏の花のなでしこを刺して、今日の自分の調子を窺っていく。
そうしているうちに、同じ寮で暮らす人達や通いの人がやってきて、作業場が賑やかになってくるのだ。
しかし今日はいつにもまして賑やかで、布を置いて皆が居る部屋に行ってみると、一人の女性を取り巻いて、皆が笑っていた。
「おはよう、リリアス。いつもながら早いね」
ぺラジーが笑って肩を抱いていた女性から離れて、リリアスの所に来た。
「おはよう、ぺラジー。どうしたの? 皆嬉しそうだわ」
「ああ、あの子の結婚が決まったんだ。それで皆が祝福してるんだ。これからまた忙しくなるってのにさ」
「また仕事が入ったの?」
今は新しい仕事は断っているはずだ。
「いいや、あの子のウエディングドレスを皆で縫うんだ。皆自分のドレスは凝った刺繍の物にしたいけど、結婚が決まってもいないのに、作る訳にもいかないだろ? だから決まった瞬間から、ドレス製作にまっしぐらなのさ」
同僚のウエディングドレスを、皆で縫う! リリアスの胸はときめいた。
「私も手伝いたいわ!」
ぺラジーはきょとんとした顔をした。
「何言ってんだい、あんたが刺繍の責任者になるんだよ。製図から起こしてもらうからね」
リリアスは嬉しさで、頬を赤くして口を覆った。
「マダムジラー・メゾンの縫子が結婚するんだよ。お仕着せのウエディングドレスなんか着た日にゃ、なんて言われるか分かったもんじゃない。完璧なドレスで、嫁に出してやるんだ。マダムが部屋を一つ空けてくれて、デザインもしてくれるんだよ」
仕事も楽しいが、同僚のドレスを縫うのはもう仕事ではない。頭の中に模様が次々に浮かんで来る。
「分かっていると思うが。期限があるんだからね。間に合わないのは駄目だからね」
リリアスはうんうんとうなずくが、ぺラジーから見ても理解していない様に思えた。
午前の仕事は、どこか浮ついたそれでいて楽しい空気で終わった。
リリアスは落ち着いた気持ちで仕事をしたい方だが、この楽しい空気の中で仕事をするのも嫌ではない。
昼食はもっと楽しく、結婚の事情を知る人は男性の事を話し、知らない人は馴れ初めなどを聞きたがり、女性の職場独特のおしゃべりと話の移り変わりで、めちゃくちゃだったが、それでも皆内容は把握していた。
「お姉さん……」
下働きの女の子がけたたましい騒ぎの食堂の入り口で、目の合ったリリアスを手招きした。
「どうしたの?」
普段から大人しい子が珍しいと思って聞いてみると、
「お姉さんに、お客さん」
と、小さな声で伝えてきた。
今頃自分に客とはと、不思議に思って裏口に行くと、そこには見知った老人が立っていた。
自分がいた孤児院の母体である教会で、働いている鐘突きの老人だった。
「タパス小父さん!」
「やあリリーちゃん。しばらく会わないうちに、すっかり綺麗になったなあ」
目を細めてタパスは笑った。
「すっかり、ご無沙汰してしまってごめんなさい。この店まで足を運ばせてしまって、申し訳ありません」
教会には、現在マダムジラーの所で働いているとは伝えていなかったので、老人はモローの店でここの事を聞いて来たのだろう。
「リリー・コルトレって言っても、分からなかったから店を間違えたと思ったよ。リリアスって名乗ってたんだな」
「ええ、ここではリリーって名前は誰も知らないから、初めからリリアスって名乗ってたの。でもどうしたの? ここまで来るって、よっぽどでしょ?」
もう七十過ぎの老人に、教会からここまでは遠かっただろう。
タパスは言いにくそうにして、被っていた帽子を脱いだ。
「シスターデュプイが具合が悪くてな、寝付いているんだ」
「えっ!」
新年に挨拶に行ったきり、教会にも孤児院にも顔を出していなかったから、知らなかった。
「いつから?」
「うん……、ここひと月前ぐらいからかな。段々動けなくなってきてな、とうとう起き上がれなくなってしまった。そしたら、リリーちゃんに会いたがって、わしが伝えに来たんだよ」
「分かったわ。今度のお休みに行くから、宜しくと伝えて下さい」
タパスは帰ろうとしたが、リリアスはその手をとった。
「小父さん、昼ごはんまだでしょ? これ少しだけど、何処かでご飯を食べてから帰ってね」
と、リリアスはタパスにお金を握らせた。
「リリーちゃん……、済まないなあ」
タパスは何度も頭を下げて、帰って行った。これから教会に帰っても、食事が残っているか分からない。
お腹を空かせたまま、遠い道のりを帰らせるのは気の毒だった。
小さい時から皆に、祖父の様な気持ちで接してくれて、リリアスには牧師と共に、唯一親しみの持てる男性だった。
シスターデュプイはタパスよりも少し若いが、それでももう七十才に手が届こうという年のはずだった。
新年に会った時はまだ元気で、リリアスの仕事が順調なのを喜んでくれていた。
リリアスが孤児院で針仕事に専念できたのは、シスターのお陰だった。早くから才能を認めてくれて、励ましてくれたのだ。
孤児院を出てからも、リリアスは子供達の服や下着を作って、持って行っていた。
それぐらいしか自分が恩返しできる事が、なかったからだが孤児院ではとても喜ばれた。
色々な生地で縫い合わされた洋服だったり下着だったが、それでも新品の物を着る事が出来て、子供達は惨めな気持ちになる事なく、生活できていたからだった。
ここの店に移ってからはなかなか時間がとれず、マダムジラーの所で、子供たちの服の生地を調達するのも憚られて、孤児院に持って行く服が作れなかったのも、足が遠のいていた理由だったかもしれない。
休日まで少ししか時間はないが、なにか子供達が喜ぶ物を、作っていこうと思った。
リリアスが安い生地を買って、空いた時間で洋服を作ろうとすると、ぺラジーが皆に声をかけて手伝ってくれた。
子供達の年を聞き、大きさを考えながらズボンやスカートブラウスと、リリアスがエイダの人形の着替えを作った時の様に、皆は面白がって作ってくれたのだった。
人数が多いから、一人が二三枚作るだけで、凄い数の物が出来上がった。生地も切り落としなどを使ったので、布代もそれ程かかる事がなかった。
リリアスはウエディングドレスの製作は、半端な物にはしないと決意したのだった。
休日に教会に行こうとしたのだが、作った洋服が多すぎて、リリアス一人では持てなかった。
男手はモットしかいないので、お願いすることになってしまった。
「モット……せっかくの休日を、ごめんなさいね。この埋め合わせは必ずするわ」
「良いってことさ。暇なんだから、これぐらいは何時だって構わないよ」
二人とも両手に包みを持って、汗ばむ陽気の中孤児院まで馬鹿話をしながら歩いて行った。
久しぶりの孤児院は変わりもせず、子供達の賑やかな声が聞こえていた。
「リリーお姉ちゃんだ!!」
その声に、中から皆が出てきた。
今は孤児院の子供達も戦後の時のように多くはなく、ここに居るのは三十人ほどだった。リリアスが小さい時は、百人近くいたはずだ。
食べ物着る物は取り合いだった。よく皆飢えもせず、大きくなったと思う。
「シスターに先に会って来るから、皆はこの小父さんと遊んでいてくれる?」
リリアスの提案に皆が声を上げて、喜んだ。
大人の男の人との関わりがあまりないから、遊んでくれる男の人は子供達は大歓迎なのだ。
「おいおい……」
困り顔のモットに、リリアスは肩をすくめて笑った。
「だから、この埋め合わせはするって言ったでしょ?」
モットはリリアスの狙いが分かって、ため息をついた。リリアスが戻って来るまで、この大勢の子供の相手をするのかと思うと、遊ぶ前からどっと疲れが襲ってくるのだった。
急ぐように教会の方に行くリリアスを、恨めし気に見るモットだった。
ドアを静かにノックすると、微かに返事が聞こえた。
リリアスがドアを開けると、小さな部屋のベッドにシスターデュプイが横たわっていた。
目を瞑ったシスターの顔は青ざめていて、リリアスにも、シスターに残された時間は少ないのだと分かった。
「シスター、リリアスです」
ベッドのそばに膝立ちして、そっと声を掛けると、重たげに瞼が上げられた。
茶色の瞳がじっとリリアスを見るが、その焦点はどこか遠い所を見ているようだった。
頬はこけ皺が多く刻まれた顔には感情がなく、新年に会った時とは、別人のようでたった半年で人はこれほど変わるのかと驚いた。
「タパス小父さんに聞いて、お見舞いに来ました。ずっと来なくて、ごめんなさい」
シスターはゆっくりと顔を横に振った。
「貴方に会うまでは生きていなければと、思っていたのだけど……。もう、時間が無いの……」
リリアスを見る目から、ポロリと涙が零れ落ちた。
「私は……神の御許には、行けない……」
善行を積み人望厚きシスターデュプイの言葉は、意外な物だった。




