第39話
早朝、旅籠の裏口に一人の女が訪ねて来た。
旅籠の朝は早く、女将は昨日の客の為にパンを焼いたり、スープを作ったりしていた。
近所を回って花を集めただけで、客は駄賃を弾んでくれた。小さな村では現金収入などあまりないから、花をくれた家に、お金を分けるとたいそう喜ばれた。
村の人の墓参りにお金まで使ってくれて、貧しい人もいる村が少しでも潤えばいいと思っている女将は、男の気持ちが嬉しかった。
だからというわけではないのだが、美味しい物を食べて旅立って欲しいとパンを焼いていた。
「ごめん下さい……朝早くからすみません」
裏口に振り返ると、村の奥に住む滅多に顔を合わせない奥さんだった。
雑貨屋であっても、人目を避けるように買い物をし、他の人もこの奥さんにはよそよそしかった。
女将と主人は他の土地から来たよそ者で、旅籠をやっているから村人も、心を開いて付き合ってくれている。
彼女は自分の母親と同じくらいの年配で、髪には白髪がかなり混じっていて、身体も痩せて顔は疲れていてやつれていた。着ている物も質素で、継ぎあてが所々にしてあって、被っている帽子も年季が入った物だった。
「おはようございます。奥さんどうしました? こんな朝早くから」
女は困ったような顔をして、俯き加減で
「昨日こちらに、三十代の女性が泊まったと聞いたんですが……」
「あらっ、お知り合いですか? まだ眠ってらっしゃるみたいですけど、お起こししますか?」
女はどうしようと迷ったみたいで、
「男の方が一緒なんでしょうから、起きてくるまで待ってみます」
と、外に出ようとしたので、女将は呼び止めた。
「台所でよければ、ここでお待ちになったら? 朝はまだ少し冷えますから」
女は頭を下げ、女将の言葉に従って、台所の隅の丸椅子に腰かけた。
女将はちょうどできたてのスープを、皿によそい女に差し出した。
「今日は急いで作ったので、味に自信がないんです。よかったら、味見してくれますか?」
女は目を見張って驚いた顔をして、お辞儀をして皿を受け取った。
「私ここの女将をやっている、テレーズです」
「私は、モニクです。すみませんお忙しい所にお邪魔して」
女将は、遠慮してスープを飲まないモニクに寄って行って、
「冷めてしまうから、飲んでみて下さい。少ししょっぱいかしら」
心配そうにしてみた。
モニクは慌てて暖かいスープを飲み、身体の中に染みわたるのを目を瞑って感じていた。
彼女の頬に赤みが戻ってきたので、テレーズはほっとしてお皿を受け取った。
「どうでした? もう一杯どうかしら……」
モニクは頭を振って、断った。
「とてもよく出来ています。出汁が出ていて、量を多く作るとコクがあって美味しいです。昔は子供達もいたので、大鍋でスープを作ったものですが、今は夫婦二人では味気ないものです……」
話が少ししみじみとしてしまった時、二階から人が下りてくる音がした。
テレーズが廊下に出て、下りてきた人と話をしに行った。少しして、テレーズとオテロが台所に入って来た。
モニクはオテロを見ると慌てて立ち上がり、勢いよく頭を下げた。
その姿にテレーズは驚いて、思わずモニクの傍に寄った。
「このように顔など出す事など、出来ない者ですが……」
モニクの声は震えて、今にも消え入りそうだった。
「誰かに聞いたのか?」
オテロは静かに言った。
「こんな狭い村ですから……」
モニクは頭を上げず、細い体がいっそう小さく見えた。テレーズはモニクの体を支え、椅子に座らせようとしたが、かがみこんだままモニクは床に体を投げ出した。
「旦那様……、こんなお願いをするのは筋違いだと思いますが、どうか一目だけでも……」
それ以上は言葉にならず、モニクは泣き出したようだった。
テレーズはこの様子についていけず、立ち尽くしていたが、
「二階に行ってジャジャを、呼んできてくれないか?」
と、オテロに頼まれ急いで、二階に駆け上がっていった。
テレーズが、部屋で着替えてベッドに腰かけていたジャジャを、連れて台所に戻ってくると、オテロはおらずモニクが立って待っていた。
ジャジャは台所に立っている女性が、記憶にあった顔とすっかり変わっていたのに驚き、声を掛けられなかった。
二人の女は台所の作業台を挟んで立ち尽くして、顔を見たままじっとしていた。
テレーズが気を利かせて台所を出ようとすると、
「長居はしません、どうかお仕事をして下さい」
モニクは端にある暖炉の前に歩いて行き、ジャジャも顔を青くしてそろそろと傍に行った。
二人は暖炉の前で頭を下げて、神に祈るように手を組んでいた。
「お前がこの村に戻って来たという事は、お嬢様も見つかったって事なんだね?」
後ろにいるテレーズに聞こえないように、囁く声だった。
久しぶりに聞く母の声は、しゃがれて老婆のようだった。
ジャジャは答えられなかった。
皆が自分と息女が、一緒に居るものだと思っている事に驚いた。
黙っているジャジャに、母は詰め寄った。
「まさか……お前! お嬢様を……!!」
ジャジャは首を振った。
「あの男に騙されたんだ……。お屋敷の家具を売ってお金にしたら、お嬢様はどこかに連れて行かれて、捨てられてしまった」
「ひっ……」
母は思わずジャジャの腕を掴み、それが細いのに驚いて娘の顔を見た。
娘盛りの時に居なくなった娘は、三十過ぎの中年になって戻ってきたが、どんな苦労をしたのか顔色の悪い年より老けて見える、蓮っ葉な女になっていた。
服装はちゃんとした物を着ているが、立ち姿や雰囲気や顔つきが、田舎では見ない女の空気を振りまいている。
あの頃の娘に、そんな悪の種が芽生えていたのだろうか、それとも元から心の奥にあったのだろうか。
何度も何度も娘の言動を思い出してみたが、自分には見つける事はできなかった。
目の前にいる女の中に、昔の娘を見つけようとしたが、顔つきと声が少し似ているように思えただけだった。
「あの下男だった男が、全部悪いのかい?」
母の声は低く感情がなかった。この質問を母は何回自分や、逃げていなくなった娘に問いかけたのだろうか。
ジャジャは首を振った。
「あたしが悪いのさ。あの男の言う事を真に受けて、考えちゃあいけない事を考えてしまった。こうなったのは、自業自得なんだ……。ただ父ちゃん母ちゃんには済まなかったって思ってる。この村で娘が、あんな事をしちまったら、どんな目にあうかなんて、あの頃のあたしには思いもつかなかったんだ」
母は娘が泣いていると思ったが、ジャジャは吹っ切れたような顔をしていた。
「姉ちゃんや、兄ちゃんはここに居られなくて、他の町に出稼ぎに行ってしまった。私たちは先祖が残した土地があるから、何処にも行けなかったが。お前の罪を償うためには、ここに居なくちゃならないと思ったのさ。父ちゃんは毎日、奥様のお墓の草むしりに行っている。私はお屋敷の掃除をさせて下さいとお願いしたが、断られてしまった。当り前さね……」
母は無念さを顔に出していた。
ジャジャは自分の罪が決して許されない事は分かっている、しかし両親がここまで自分の罪のせいで、肩身を狭くして生きていかなければならない事に、疑問を持った。
「母ちゃん達が悪い事をしたんじゃない。あたしが悪いんだろ?」
「お前を育てたのは私だ……。お前が楽しけりゃ私も楽しい、苦しめばもっと苦しい、じゃあお前が罪を犯したら? 私もその罪を受け取らないとね……」
「母ちゃん……」
ジャジャはそれ以上何も言えなかった。
ここで泣いて母に、自分が罪を償って、まともな人間になると言えれば簡単だろう。だが泣けば済むものではないし、そんなに軽い罪でもない。
ジャジャはスカートのポケットから、布の袋を取り出した。筋張った関節が太くなって黒い母の手を取り、その袋を握らせた。
「働いて貯めたお金だけど、そんなにはないんだ。父ちゃんに美味いものでも、食べさせてあげてよ」
母は首を振り、ジャジャに返そうとしたが、ジャジャはじっと母の顔を見ていた。
「そのお金は、もうあたしには必要のない物なんだよ……」
母の目には、涙が溢れて来た。娘の言った意味が分かったからだ。
「父ちゃんにも会いたかったけど、どの面下げて会えるかってね……」
照れた様にジャジャは笑い、
「これからオテロ様と、お嬢様を探す旅に出るんだ。もし……お嬢様が見つかったら、きっと母ちゃん達にも知らせるからね」
ジャジャはそっと、母の手に触れて台所を出て行った。




