第38話
丘を下り、轍で畝のようになった道を村の入り口辺りまでやって来ると、野原で遊んでいた子供達が声を上げて近寄って来た。
日々変化のない田舎の村では、外からやって来る人や物は娯楽にさえなるのだ。
陽に焼けた健康そうな顔が、好奇心でキラキラしていた。
「ねえ、ねえ、小父さん! 行商の人? 母ちゃん呼んで来る?」
オテロは首を振り、
「行商ではない、旅をしているんだ。村の旅籠はまだやっているか?」
と、子供に聞いた。
「やってる! やってるよ!」
知っている事を教えられる事が嬉しくて、子供達は飛び上がって騒いでいる。
村の中に入っていくと、見える家は、知っている物と新しい物が混在していて、懐かしいのか珍しいのか不思議な感覚になった。
ただ自分が、ここに住んでいた若い頃に、戻った気がするのは確かだった。誰かに見とがめられないように俯いていたが、昼下がりの仕事の時間に、村の中を歩いている者はいなかった。
旅籠の主人はジャジャの知らない人で、よそからきて代替わりの時にここを引き継いだのかもしれない。
「旅をするには、いい時期ですなあ。奥さん連れとは、羨ましい。私なんぞこの商売を始めてから、一晩と家を空けた事はありませんよ」
――嘘を言うんじゃないよ――
と、奥から妻だろう人の声が聞こえた。
主人は肩をすくめ、笑って宿帳を開いた。
「明日には立たれますか?」
オテロは適当な名前を書き、
「そうだな、何も無ければな……。主、悪いが花束を用意できないだろうか」
宿帳を見て――偽名だな――と思っていた主人は、意外な顔でオテロを見た。
「花束ですか? どんな事に使うんですか?」
「ここで知り合いになった人の墓参りだ……」
主人は、オテロの心使いに嬉しそうに笑った。
「豪華な花束は用意できませんが、ちょうど季節も良いから綺麗な花は、見つかると思いますよ」
主人は奥にいる妻に花の用意を伝えていた。
「近所を回るんで、少し時間を頂きますよ」
オテロはうなずいて、疲れ切った顔のジャジャを部屋に連れて行った。
ジャジャはベッドに座り込み、痛む腰を撫でた。
墓地は村の入り口と反対の方向にあり、村を突っ切って行かなければならない。自分はあの道を、罪人の様に歩かないといけないのだと思ってから、本当に自分は罪人だったと口元を歪めて笑った。
村の陽の差し加減や匂いが、住んでいた時の記憶そのもので、自分が十四年もここに居なかった事が、嘘のように感じている。
四半時してからノックがあり女将が、花束を紙に包んで持って来た。花の名前にうといオテロには分からなかったが、白い花が多めで、ピンクと黄色と赤い花が所々に配置されていた。
「お待たせしました」
「綺麗なものだな」
オテロの言葉に女将がにこっと笑った。
「墓参の花と伺ってましたから、派手にはしませんでした」
「ありがとうよ。これ少ないが……」
オテロの出した硬貨に、女将は驚いた。
「こんなに頂けませんよ。みんな庭に咲いていた花なんですから」
「花をくれた人にも少しづつ分けてやってくれ、俺からの故人への供養だと思ってな」
女将はその言葉に、硬貨を持った手を押し上げ、頭を下げた。
「お気持ち頂きます」
女将が帰ってから
「少しは休めただろう。行くぞ」
と、オテロはジャジャを促した。
村を黙々と歩き、小さな林を過ぎてから開けた場所に出た。
その奥の数本の木が墓石に薄い影を落としている所まで、オテロは迷いも無く歩いていった。
墓の周りは綺麗に草が刈られ、手入れが行き届いているのが良く分かった
オテロは花束を墓石の上に添えて、額ずき頭を地面につけた。
ブリニャク侯爵の供回りの中では、一番偉いように思える男が、地に伏し見れば肩を震わせていた。
ジャジャは見てはいけないものを見ているのだと、視線を地面に向けたが、同じように祈る事はしなかった。
この墓に自分が額ずき祈ったとしても、故人もこの男も喜ぶはずがないと思ったからだ。
オテロは暫く動かず身内に暴れる感情を、抑えるために苦心した。
ここに眠っていた夫人の亡骸は、ブリニャク侯爵の領地にすでに運ばれ何も無いのだが、オテロはこの地が夫人が最初に埋葬された場所として、特別に思っているのだった。
微かな風が墓地を通り抜け、暖かい日差しは心地よく、梢では鳥が囀っている。平穏な田舎の風景だった。
静かにオテロは立ち上がり、膝の土を払って名残惜し気に墓石を見てからゆっくりと歩き出した。
ジャジャは何も言わず、振り返りもしないオテロを追って行った。
小道にでてから、オテロが進んでいく道筋はジャジャが通い慣れた道だった。
足の運びが遅く小さくなると、オテロが
「どうなっているか知りたいだろう?」
と、言ってきた。
この坂道を上ると、そこには旧領主の冬の避寒所だった屋敷がある。ブリニャク侯爵の夫人と娘は、そこに住んでいたのだ。
オテロの背中越しに見えた風景に、ジャジャは目を見張った。
もう寂れているだろうと思っていたのに、屋敷は壁に這う蔦が青々として、赤い屋根が陽に輝き雨戸が閉められているが、人が住んでいるかのように建っていた。
「この屋敷は思い出深い。旦那様は村長に手入れを任せているのだ。いつ来ても美しいようにな」
という事は村長は、この屋敷の主が誰だか知っているのだろう。そしてジャジャの仕出かした事も。
――いや――
今まで自分の事しか考えて来なかったが、乳母のスルヤがここに居るのだから、全てを知っている彼女が、人に話さない訳がない。下手をすれば自分が共犯だと、思われてしまうのだから。
両親や兄弟は狭い村で、皆の冷たい視線の中で生きて来なければならなかったのだと、改めて気が付いた。ようやく自分の罪の重さが、身に染みてきた。
これだけの年月が経ってさえ、今頃やっと自分の罪を理解するのは、それだけ自分が屑だったのだと知った。
自分を捨てて逃げた男をずっと恨んで、手にできたはずの金を惜しみ、客を馬鹿にしてきた。
この屋敷には、若い自分と乳母のスルヤと夫人と幼子だけで住んでいた。平穏で静かで楽しい日々だった。あの時の自分はまともで、子供を可愛がり、夫人を尊敬し乳母に従っていた。
どこで自分は間違ったのか、どこで道を踏み外したのか、あの時の自分に尋ねたかった。
「畜生!! 馬鹿野郎!!」
ジャジャは道端に倒れこみ、大声で泣き叫んだ。
悲痛な声だった。
細く高い玄関のドアを開けて中に入ると、薄暗いホールの先に階段が見えて、そこから夫人が下りてくるような気がする。
いつも侯爵がここに来るときは、自分が先触れとしてやってきて、夫人が夫の帰りを喜ぶ笑顔を、真っ先に見る事が出来たのだった。
その後には乳母に抱かれた息女のリリアージュが、あどけない顔で下りてくるのだ。
夫婦の両方の似た所を持つ息女は、可愛らしくも成長が楽しみな容貌をしていた。
短いほんのひと時に語らいと安らぎを求めて、侯爵は悲惨な戦場から足を向けていた。
戦況が勝利を賭けた状況になると、侯爵は戦いに明け暮れるようになり、この屋敷にも来ることが出来なくなっていた。
妻子の為にも侯爵は早く戦争を終わらせたかった。
自分の屋敷に、妻と子供だと堂々と二人を迎えるためには、どうしても戦争を終わらせるしかなかったのだ。
その侯爵の願いを傍にいてオテロは、痛いほど感じていた。己の為の戦争ではないが、侯爵はあの戦争を勝利で終わらさねばならなかったのだ。
それが――――戦争の後処理を終わらせて、意気揚々と屋敷に帰ってみれば、夫人は病で亡くなっており、息女は召使の娘と下男に連れ去られ行方不明となっていたのだった。
あまりの事に茫然とする侯爵の顔を、未だに忘れる事が出来ない。
主人の手前泣く事が出来なかったオテロは、昼間案内された夫人が眠る墓場に夜出かけ、そこで泣いたものだった。
片田舎の村の小さな屋敷で、ひっそりと子供を産み落とし、傅く召使もおらず不便な生活に文句も言わず、耐えて暮らしていた夫人の最後が、夫にも臣下にも看取られないものだったのが、余りにも不憫でオテロは男泣きに泣いたのだった。
誰も家名を知らなかったから、墓石にはただ名前だけが刻まれていた。
――セルウィリア――
本当の名前は、セルウィリア・ブノトワ・ノエミ・ティルクアーズである。
その身分は、戦争の相手だった隣国イズトゥーリスの第一王女殿下であった。




