第37話
風がなく日差しが良い日は、暑く感じて少し汗ばむ。
馬車の御者台に座っていると、少しは風を感じるが、日の暑さは変わらない。
王都を出て、真っすぐ南に向かう街道に入り、ひたすら馬を進める。
王都を離れると平坦な道も整備されておらず、でこぼこな街道になる。古びた材木で作られた馬車は、年季があって行商をしている男の、長年の旅の厳しさを表しているようだった。
行商人風な姿をして、馬車の手綱を握っている男の隣には、女房と言ってもおかしくない年回りの女が座っており、夫婦かと思えるのだが二人の間には会話などなかった。
オテロと、ジャジャと呼ばれていた娼婦の女だった。
ジャジャはしばらく地下室に繋がれていて、それから身ぎれいにされてから、オテロに馬車で屋敷を連れ出されたのである。彼女は訳が分からず、このままどこかの山の中で殺されるのだろうと、覚悟していた。
オテロは街道に入ってから、一切の休憩を取らず、ひたすら南下している。ずっと娼館で働いて、体を動かす事をしていなかったジャジャには、鞭うたれた体での悪路の馬車の御者台は拷問のようだった。
昼に着いた街で質素な食事をとり、直ぐに出発し、ひたすら馬車は走り続け、夕方暗くなったころに小さな町にたどり着いた。
その頃にはジャジャは、全身が痛く物も言えない状態だった。無理やり御者台から降ろされても、立っておられず座り込んでしまった。
「奥さん、大丈夫ですか?」
泊まる旅籠の主人が、心配げに覗き込んできた。
「ああ、今回初めて俺の行商に付いてきたんだが、慣れないと馬車はきついからな」
――無謀な事をなさる――
と、主人は呟いた。
筋肉の付いた身体の大きい、いかにも鍛えているというオテロと、細く肉も付いていない、顔色の悪いジャジャを見て、仕事柄訳がある二人なのだと推測しているようだ。
夕食は部屋でとるというオテロに、主人はうなずいて――酒はどうか――と尋ねてきたが、オテロは首を振って断った。この仕事の間で自分が寛ぐ事はないし、気を許すこともないと思っている。
食事が来ても、ジャジャはベッドから起き上がる事もできず、目をつぶったまま荒い息をしていた。
オテロはゆっくり食事をとり、食べ終わってからジャジャに声をかけた。
「スープだけでも、飲んでおかんと身がもたないぞ」
ジャジャの体を心配している声音ではなく、生かしておこうという思惑が見える声掛けだった。
体が痛くて動けない。どうやって御者台に座っていられたかも分からない。ただ、座っていられなくなったら、殺されるかもしれないという恐怖で、必死で揺れる馬車から落とされまいと、つかまっていただけだった。
「これからどうするんだい?」
何も言わないオテロに、恐怖を感じてジャジャは聞いてしまった。
オテロは食事の空の皿を前にして、じっと座っていてジャジャの問いにも、応える様子がない。
ジャジャは、十四年分一気に年を取ってしまったように見えるオテロを見ていた。自分もオテロから見たら、娘からいきなり三十半ばの年増女になっているのだろうが、時が経つのは早く残酷だ。
今まで自分が連れ出して、何処かの地に置き去りにしてしまった子供の事を、考えなかったと言えば嘘になるが、男に裏切られて売られてしまった自分が可哀想で、子供の事まで思いが至る事がなかった。
「本当は自分達の子供として、育てようと思っていたんだ……」
オテロは、こちらを見た。
「三年も傍にいてあたしにも懐いていたし、情が移っていないわけじゃあなかった。お嬢様は可愛かったし、素直で優しい子だったしね……」
あのまま育てていれば、本当の母親の事やあの屋敷の事も忘れてしまって、自分を母親だと思ってくれるのではないかと考えていたのだ。
「馬鹿な事を言うな!!」
オテロの怒号が部屋に響いた。
オテロは立ち上がって、顔を真っ赤にし拳を握りしめていた。
ジャジャは、この男の怒りの顔を初めて見た。地下室で自分を鞭打ちにしていた時も、表情は変わっていなかったし、声も冷徹ではあったが感情的でもなかった。
それが今は人がこれ程恐ろしい顔になれるのかと思う程、目は吊り上がり口元は歯が剥き出しになり、こちらを睨んでいる。
「お前ごときが!!……」
オテロが怒りの為に言葉がでず、ただ歯を食いしばっているだけだった。
ジャジャは恐怖で体が強張り、肌には鳥肌がたった。
「お前は……お嬢様をさらった時から、もう命はないと同じなのだ!!」
オテロは息を思い切り吸い込んで、
「奥様も、お嬢様も……、お前ごとき女が常なら、傍にも寄れないお方達なのだぞ!! そのお方をさらった上に捨てておきながら、自分で育てようだなどと……」
オテロはベッドのそばにやってきて拳を振り上げた。この腕で今、殴られたら命はないと思い、目をつぶり肩をすくめたが、オテロの拳は振り下ろされず、ただベッドが足で勢いよく蹴られた。
――ガタン!!――
ベッドが壁まで動いて、当たった衝撃が部屋に響いた。
――ダンダン――
と、急いで階段を上がる音がして、部屋のドアがノックされた。
「お客さん! どうしたんですか? 大丈夫ですか? 開けますよ」
旅籠の主人がそっとドアを開けて、顔を覗かせた。
「すまんな、うるさくして」
オテロは革袋から硬貨を一枚出して、主人に握らせた。
「奥さん、大丈夫なんですか?」
部屋の中を窺って、ジャジャがベッドの上でこちらを見ているのに安心して、やっと表情が明るくなった。
「喧嘩なさるのは結構ですが、音や声は下や隣に聞こえますんで、抑えて下さいよ」
貰った硬貨が効いたのか、主人はそのまま引き下がって行った。
オテロは食器を廊下に出して、もう一つのベッドに横になった。
吹き消された蝋燭の芯が燃えた臭いが漂い、真っ暗になった部屋にはまだ荒いオテロの息が聞こえる。
「逃げようと思っても無駄だ。もっともその身体では、身動き出来ないだろうがな」
冷たいオテロの声が、ジャジャには悲し気に聞こえたのは気のせいだっただろうか。
翌日からオテロは一切ジャジャに口を利かず、身体を心配する様子も見せず黙々と馬車を走らせた。
王都を出て六日目に、馬車が辿り着いたのはジャジャの故郷であり、ブリニャク侯爵の妻子が住んでいた村だった。
ジャジャは、二度と戻る事はないと思っていた、故郷の山々と家並みを見て、懐かしさより苦々しさを感じていた。
親も村の人々も、自分がやってしまった事を知っていると思うと、故郷に足を踏み入れる事の恐ろしさがじわじわと、襲い掛かってきた。




