第35話
夜更け、侯爵はオテロの案内で地下室に降りて行った。
「少しは綺麗に致しましたが、お眼汚しでございますよ」
「構わん」
侯爵の声は、感情がなかった。
木の厚いドアを開けると、淀んだ空気が鼻を突き、足を踏み入れると糞尿の臭いが、部屋中に満ちていた。
オテロは女に水をかけ、体を隠すのに布を巻き付けていたが、臭いだけはどうすることも出来なかった。
床は水で濡れ、オテロの持つ蝋燭の灯が反射して、揺らめいていた。
侯爵はオテロの用意した椅子には座らず、女の方に歩いて行った。
女は壁に手で吊るされ、頭を上げる力も無いのか俯いて、膝立ちし、腰を壁につけて体を支えていた。
「女、久しいな。お互いに年を取ったものだ」
平坦な侯爵の話し方は却って、その胸の中にある熱い感情を想像させて、オテロは緊張した。
「昔話を、してくれないか。お前が娘を連れて、家を出てからの話をな……」
女は、はっとして頭を上げ、侯爵の、感情が読み取れない顔を見ると、女の瞳には後悔の念が溢れ出てきた。
「あの頃は、花の盛りの十六、七か……。よく笑う、元気な娘だったな?」
そんな時も自分にはあったのかと、思い出そうとするが、頭に浮かぶのは、侯爵の家で働いていた時の事ばかりだった。
村娘の自分には、楽しい事などたいしてなく、村祭りか結婚式ぐらいしか行事はなかった。
唯一楽しい思い出は、侯爵の家に働きに行っていた時だけだった。
あの時は、随分と良くしてもらっていた。
「……どこかの豪族の、隠れ屋敷だと思ってたんだ。貴方はたまにしか来ないし、お金や食べ物を持ってくるのは、その人だし。乳母のスルヤと、お妾さんだねって話してたんだ」
侯爵は目を見開いた。
周りから見たら、そう思えるのだと今更気が付いた。
女は、たった一日でぼさぼさの頭になり、顔は鞭の端を受けみみず腫れになっているが、さっきまでの暗い目ではなく、懐かし気な温和な目つきになっていた。
思えば3年の間、この女とも多少は話をして、自分がいない間の、妻と子供の楽し気な様子を聞いたりもしたのだった。
あの田舎の屋敷から早くに移していれば、妻を亡くす事もなく、娘を行方不明にさせる事もなかったのだろうか。
こうしていれば、ああしていればと、ずっと考えていたが、終わってしまってからでは、どうしようもない。
後悔の痛みが心をえぐるのを、今まで以上に感じている。
これからの話を聞くのは、辛い事だ。
自分が知り得なかった娘の話を、聞かなければならないのだ。
戦場に向かう自分に、別れの言葉を掛けてくれた、娘の姿が今でも目に浮かぶのに、その娘がどの様な辛い目に遭ったか、聞かねばならないのだ。
「話せ! 女! 娘の……、リリアージュが、お前たちのせいで、どんな目に遭ったか、話すのだ!」
女は舌で唇を湿らせて、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「親や近所の連中をだまして、貴方の所にお嬢様を連れて行くと言って、荷物と一緒にお屋敷を出たのは、奥様が亡くなってから……三週間ほどしてからだったかな……」
「娘を連れて行ったのは、家具を持ち出す理由のためだったのだな?」
女はこくんと、うなずいた。
後から近所の住民に聞いた話と、一致する。
乳母は女の嘘の話で村から遠ざけられて、おかしいと思って帰ってみれば、屋敷はもぬけのからだったそうだ。
娘もおらず、聞けば女が下男と荷物を運び出し、旦那の所に持って行くと言って、出て行ったと言われて、飛び上がったのだ。
私からの連絡など来ていなかったし、私がどこに住んでいるかも知らなかったのだから。
戦争があともう少し早く終わっていれば、何もかも間に合っていたはずなのに……。
「娘には何と言って、連れて行ったのだ」
娘は乳母に懐いていたし、母が亡くなって心細いはずなのに、どうして皆に疑われず、連れていかれたのか、分からなかったのだ。
「お嬢様は、奥様が亡くなった事を分かっていなかった。どこかに出かけていると思っていたんだ。だから、お母さんの所に行こうと言って、荷造りをしていったんだ」
侯爵は拳を握った。
嬉々として、母に会うために拙くも、荷造りを手伝ったであろう三歳の娘の姿を想像しただけで、辛くて体が震える。
これ以上聞く事が出来ない。
侯爵は、部屋を急いで出た。
娘の話を最後まで聞くには、今はまだ辛すぎる。
庭を歩く侯爵の後を、オテロが追って来た。胸が塞がれて、二人とも言葉もなかった。
可愛い盛りの娘と、戦争や出産で弱っていた妻を置いて、何度も戦場に出かけて行った。それが武人としての自分の勤めであったし、妻の為にも早く戦争を終わらせたかったからだ。
それが仇となって、二人とも失ってしまった。
「教会の前に置いてきたと言ったのだな?」
「……はい、下男が一日かかって帰って来たと言っておりましたから、それは嘘ではないと思います」
それが嘘でない事を祈っている。教会ならば捨て子も世話をしてくれるだろう。娘は生きて大きくなって、何処かで生活していると信じよう。
「旦那様……、お嬢様はきっと生きておいでです。生まれた時から……、いえ、生まれる前からお嬢様を存じ上げている、――オチェロ――はあきらめておりませんから」
うっかり、息女が自分を呼んでいた名前を、口にしてしまってから、その声も顔も表情も思い出してしまい、オテロは涙を流した。
「鬼の腰巾着が、涙を流すなど聞いた事がないぞ」
「その呼び名をご存知で?」
「当たり前だ。何年傍に付いているのだ」
――頼りにしているぞ――
侯爵の吐息の様なつぶやきが、オテロの耳に届いて、彼はもう一度涙した。
「豪儀なもんだよなあ……」
モットは侯爵に貰った革袋を手に、リリアス達に自慢げに見せた。
「どうしたの、それ」
そう聞いて欲しかったモットは、もったいぶって――ううん――と咳払いをした。
「この間しょうか……、ええと、酒場で飲んでたら……」
「いやだあ、モットさん」
女達が皆一斉に笑った。彼がどこに行っていたのか、分かったからだ。
「まあまあ、そこの店の前で――赤鬼――こと、ブリニャク侯爵様と会ったんだが……」
「まあ! 赤鬼ってブリニャク侯爵様の事だったの?」
「なんだよ、リリアスは侯爵様を知っているのか?」
モットは話が逸れてしまった事より、リリアスの言葉が気になった。
「以前若様に、お城の舞踏会に連れて行って頂いた時にたまたまお会いして、少しお話したの。大きな方だったわ」
うんうんと、モットは嬉しそうにうなずいて、
「そうなんだ、でかいんだよ体も気持ちもなあ。これを、――怪我をして困っている兵士がいたら、使ってやれ――って、ぽんと俺にくれるんだよう」
泣き笑いのようなモットの表情は、侯爵を尊敬しているのが表れていて、皆微笑ましく見ていた。
「そういえば、気前が良いっていったら、前にモットが、若様を助けた場所の近くの娼館で、凄いお客がいたんだってさあ」
ぺラジーが――知っている?――と、話してきた。
モットは少し挙動不審になって、
「な、なんだよ。俺が知るわけないだろう……」
と、慌てて否定した。
ぺラジーは笑いながら、
「足抜けした女の人がいてね、若い衆が血眼になって探してたら、その日の内に女の人を助けたって人の使いが来て、金を払って身受けしたんだってさあ。全然客なんかじゃないのにだって」
「そりゃあおかしいだろう。贔屓の女でもないのに、身受けするってのはなあ。今時借金はどんな女だって、金貨10枚はあるだろうに。よっぽどいい女だったんだな」
皆が、――良く知っているわよねえ――と、ひそひそと話している。
「う~ん……それが全然人気のない人で、たしか……ジャジャとかっていう名前だったかな」
「なんだって~!」
モットは、あの細い、癇癪持ちの年増女を、気に入る男が居るということに驚愕した。
首をかしげて、考え込むモットに、
「なんだ、モットの馴染みの女の人かい?」
と、ぺラジーがからかうが、モットはただ、不思議な顔をするだけだった。




