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祈る娘  作者: オーガ
34/151

第34話

*ご注意*


本編には暴力的な表現があります。

苦手な方は、ご覧にならないようにして下さい。



 モットが叫んだ声は、開けた窓から外に響き、馬上のブリニャク侯爵に届いた。


 ――赤鬼!――

 と、聞こえた侯爵は、顔を振り上げた。

 

 茶色いレンガ張りの古びた建物の二階には、昼には目のやり場に困る、薄物を胸を露わに着ている女達が、鈴なりに覗き込んでいた。


「キャー!! こっち見たよ!!」

「将軍さまぁ~!!」

「あたしにも、その大きな剣を刺して~!!」


 この商売の女達の怖い物知らずな所は、誰にでも向けられるようで、からかいの声に冷や汗をかきながら、モットが窓から見下ろすと、侯爵は厳つい顔をにんまりと笑いで崩した。


「久しぶりに聞いたぞ、私を赤鬼と呼ぶ声を」


「お元気そうでなによりです。最後の地、サンヴォルトでご一緒でした!」


 侯爵は――おお!――と、声を上げ、モットに降りてくるようにと合図した。

 モットは興奮でわくわくしながら、侯爵を待たせてはいけないと、足を叱咤して階段を下りた。


 足を引きずって娼館から出てきたモットを見て、侯爵は厳しい顔になった。


「怪我をして、退役したのか?」

「はい。閣下が夕暮れ時の丘で、勝鬨を上げられた時は、負傷者用の馬車に乗っていて、お姿を拝見しておりました」


 侯爵は笑って、傍にいた従者を呼んだ。

 従者は下馬して、モットの方に歩いてきて、懐から革袋を取り出した。


「とんでもありません。頂くいわれがありません」

「まあ、そうよな。昼間からここで遊ぶ金があるのだからな」


 赤鬼が居る事を知って、集まってきた住民が声を上げて笑った。自分達と同じ平民が、赤鬼と呼ばれた将軍と、話しているのが羨ましくも、誇らしくもあったからだ。


「今はどうしているのだ?」

「マダムジラー・メゾンという、洋裁店で下男をしています」

「周りは女だらけだな?」


 モットは赤面して、頭を掻いた。

「施しではない。終戦の時、退役した兵の手当てが少なかったのは知っている。お前に預けるから、困っている兵がいたら、僅かな金だがそれで助けてやってくれ」


 モットは、はっとして侯爵を見た。この人は、下々の痛みや苦しさを知っているのだ。 


「分かりました。ありがたく頂戴いたします。必ず、仲間の助けになるように使わせていただきます」


 革袋を押し頂いて、礼を言ったモットに、侯爵はうなずいて馬の腹をけった。

 住民の歓声を受けながら、侯爵一行は馬を進めた。

 

 住民の姿が見えなくなると、侯爵は青白くなった顔を、正面に向けたまま、


「オテロ!! 見たな?」


 と、抑えた声を上げた。


 革袋をモットに渡した従者が、傍に寄って来て、


「見ました!! 確かに!!」


 と、こちらは興奮で顔を赤らめて、主の心境を思い誰にも聞こえぬように答えた。


 ブリニャク侯爵は、小刻みに震える体を抑えようとしても抑えきれず、青白い顔のまま笑ったが、戦場で誰かが見たら、背中を見せて逃げるほどの残虐な微笑みだった。



「今すぐ、見張りを付けて、決して逃がすな」

「畏まりました。命に代えましても……」


 従者は馬の頭を返し、一行から外れ近くの小路に入って行った。


「……、兵よ。それは施しではなく、お前があそこに居て、私を呼び止めてくれた事への、心からの礼だ」


 誰にも聞かれず、ブリニャク侯爵の呟きは蹄の音の中に消え、馬は速足で屋敷に戻って行った。


 



 いつもは犬の声が聞こえる真夜中が、今夜は静まり返っている。


 帰りの客はとっくに居なくなり、泊りの客ももう寝てしまっている。

 今晩は腹が痛いと言って、客は取らなかった。

 馴染みの客が居るわけでもなく、一晩だけの客もそうそうつかないから、いつもと変わらない晩だった。


 玄関の鍵はかかっているから、建物の裏側のベランダの窓から出て、壁沿いに爪先立ちしながら端にたどり着いた。

 この店は待遇もいいし、男衆も乱暴ではないから、借金を踏み倒して逃げようとする女は、そういないので、その気になったら案外外に出る事は簡単だった。


 端から雨樋を伝って屋根に上がり、そこからまた雨樋を下りて、建物の裏側に立った。

 ここから逃げても、行く当てもなく故郷にも帰れない。どこかの町まで行って、また同じような商売をするしかないのだろうか?

 それでも、もうここにはいられない。暖かい季節になったのに、肌は恐怖から泡だっている。

 

 建物の陰から出て、裸足のまま店から離れようと歩き出した時、目の前に男の大きな姿があった。

 月もない夜の中、無言で立つ男の黒い体は、女を怯えさすのに充分だった。


「逃げられないと、分かっているな?」


 ――ひっ――


 女は首をすくめ、絶望が針の様に、体を突き刺すのを感じた。


 馬車はゆっくりと町を進んでいく。女にとっては、死刑執行を受けに行くようなものだ。

 向かいに座っている男の顔は、覚えている。


 この男が自分の顔を覚えていたのに、驚いていた。もしかして、もう分からなくなっているのではないかと、思っていたのだが決してそうではなかったのだ。

 今日見た赤髪の男が、ブリニャク侯爵と分かった瞬間に、自分の命は終わったと覚悟したのだが、一縷の望みにかけてみたのだ。



 ――赤鬼――


 戦争が終わって、もうだいぶたっているのに、国の英雄を人々は忘れていない。自分も赤鬼のブリニャクは知っていた。名前だけならばだ。あの頃は、まだ伯爵だった。

 戦争が終わって、続々帰って来る村の男たちが、口々に赤鬼のブリニャク伯と言っていた。

 自分はブリニャク伯爵の名前も、顔も知っていた。だがそれが同じ人だとは、知らなかった。

 知っていたなら、あんな事は決してしなかっただろうに……。


 後悔しても遅すぎる、時は過ぎもう戻る事は出来ないのだから。

 

 体がガタガタと震えだした女に、男は冷たい声で、


「今更怖くなったか? 自分のやった行いを考えて」

 と、言ってきた。


 この男はあの頃まだ若くて、時々会うのを楽しみにしていたのを覚えている。

 村娘の自分には、外の育ちのいい男は憧れの的だった。

 訛りもなく、地味だが一目で高級な服だと分かる物を着て、自分にも優しい声で接してくれていた。


 3年もの間この男とは、顔を合わせ徐々に親しくなって、互いに気心が知れていたのだ。

 今は物を見るような……、憎い動物を見るような目をしている。





 相手に体力があるうちは、強い刺激を与える。

 今は鞭を使い、壁に貼り付けた女の背中を打っている。

 

 屋敷の地下の一番奥の部屋は、空気穴もなく、かび臭く湿っていて、少し居るだけで汗ばんでくる。

 細い蝋燭の灯だけが光源で、ゆらゆらと影が壁に動くのが見えるだけだった。


 腕まくりして、細めの鞭を振っているオテロは、自分が感情的になるのを抑えるのに必死だった。

 声が漏れる恐れもないが、それだけに女が死なぬよう力を加減するのが難しい。


 裸に剥いた白く痩せた背中に、傷が増える度に女は暴れ声を上げ叫ぶが、肝心な事は言わなかった。

 口を効くだけの余力は残しているのに、女は知りたい事を言わなかった。


「勘弁して……。あたしは……何も知らないんだ。あの男が全部やって……逃げちまったんだよう……」


「と、言う言い訳が通ると思ってはいまい?」


 オテロは鞭を振った。

 

 ――ひぃ!!――

 絹を裂くような声が上がり、女は気を失い鎖に繋がったまま、くずおれた。




 ドアが開き、オテロが入って来た。

 彼は軍人だ。

 どんな時も顔色も変えず、侯爵の命令を聞いて遂行してきた。その男が興奮で顔を赤くし、額に汗をかいていた。


 ブリニャク侯爵は、彼のその瞳が暗く沈んでいるのを見て、絶望に顔をゆがめた。


「閣下! お間違いなきよう。あの女は、何も知らないようであります」

 

 オテロが冷静になろうとしても、そうなれないのは、軍隊の時の言葉使いに戻っている事からも分かった。


「何と言っているのだ」


「村から一緒に逃げた男が、家財道具を全て売り払って金にして、最後にあの女を地方の町の娼館に売って、逃げたそうです」


 侯爵は、それ以上は尋ねる事が出来なかった。

 オテロも、女から聞いた事が何を意味するのか、推測したくない気持ちで、口を開く事が出来ない。


 夜中の空気はもう春から初夏に移り、生暖かくなって、侯爵の部屋に入り込んで来る。

 恐ろしい緊張感の中で主従は、今までも命がけの戦場から、逃げた事はなかったと思い起した。


 侯爵はオテロの目の中に、絶対の信頼と忠心と無垢な心を見て、うなずいた。


「あの男が女に説明した話では、逃げた場所に数日滞在している間に、家具を売り払い……お嬢様を遠くの町に捨ててきたようです」


「……殺したのではないのか?」


「いいえ、赤子ならともかくも、3歳になられておられたお嬢様を、殺すことは躊躇われたようで、どこかの教会の前に、置いてきたと言っていたそうであります」


「逃げた町はどこなのだ?」

「昔の事で、それも数日しかいなかったので、分からないそうです」


 侯爵は茫然と立ち尽くしている。


 さらわれた娘は必ず生きて、自分の事を待っていると、この十四年地方を巡って来たのに、犯人は王都に居たのだ。


 この年月は長い。

 

 心のどこかで、もう見つけられないと思う気持ちをねじ伏せて、記憶にあった娘の肖像画を描かせ、探し歩いていたのだ。


 それなのに、女は知らないと言う。


 娘を見つけられると、希望が持てた時間は短かった。


 侯爵の武骨な手が、顔を覆った。




 

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