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祈る娘  作者: オーガ
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第32話



――ッツ――

 

 思わず体が強張って、指に痛みが走る。左手の人差し指の先に、赤く血がぷくっと溢れてきた。


「姫様、こちらをどうぞ」

 ジラーがハンカチを、姫に渡した。


「お姉さま方が、刺繍をなさっていらした時は、簡単に思えましたのに……」


 姫はハンカチで指をぬぐうと、残念そうな顔をした。

「彼女達は、小さい頃から刺繍をしているのですから、上手なのは当たり前ですのよ。姫様もたくさん練習なされば、上手くなりますわ」


 ジラーは微笑ましく、姫を見た。


「母上様は刺繍は、お得意ではないと仰っておいででしたが、他の趣味がございました?」


 姫は遠い故郷を思い出すように、窓の外を見た。

「母は、笛をよく吹いていました。とても上手で、私も習っていましたが、なかなか音が出ないので大変でした」


 刺繍枠を持って、不器用に針を刺していたラウーシュが、顔を上げて姫を見た。


「お母上様は、今はどうしていらっしゃるのですか?」


 姫は悲しげな顔になり、頭を振った。


「以前お姉さまにもお話しましたが、私は使者が来られるまで、陛下の血を引いているのを知りませんでした。突然家に迎えに来られて、母と引き離されそのままお城に連れて行かれたのです」



「では母上様が今どうしていらっしゃるかは、ご存知ないのですか?」

「はい……、何も無ければ乳母と家で、暮らしていると思います」

「お城に上がってからは、お会いになっていないのですか?」

「はい……、お城で少し礼儀作法を習って、そのままこの国にやって来ました」


 ジラーも、入り口に立っている騎士も、そしてラウーシュも、姫へのイーザロー国の理不尽な対応に、静かな怒りがこみ上げた。

 人質のようなものと聞いていたが、庶子であり市井に育っていた子供ならば、この対応はありそうな気がする。しかしと、ラウーシュは疑問に思う。市井に育っていながら、この品の良さと礼儀正しさが、不思議なのだ。


「姫様は、行儀作法などはどなたに習ったのですか?」

「それは、母と乳母にです。いずれ私の役に立つものだからと言って、二人とも厳しく躾けて下さいました」


 不思議な事だらけだ。


 姫の母は平民だと聞いているが、乳母がいるという事だけで、財産がある富裕層の出だと分かる。躾けに厳しく音楽を嗜み、針仕事をしたことがない。

 姫を見れば、貴族出身と言われても納得がいく。それならば、母も貴族と言われても不思議ではないという事だ。

 

 姫の母はいったい何者なのだろうか。




「何か、おかしくはありませんか?」

 

 夜会から帰った父の部屋に来て、今日の一件を話した。

 

 酒とタバコと香水の入り混じった匂いがする、デフレイタス侯爵の服は、執事がさっさと脱がせ紫色のガウンを着せ掛けていた。


「初めから、何もかもおかしい話なのだ」


 執事が渡してくるグラスを受け取って一口飲み、侯爵はため息をついた。寝酒には少しきつい酒だった。


「この春イーザロー国は、我国には軍事的にも経済的にも敵わないのに、何故か小競り合いを仕掛けてきて、当然の如くに負けて、ご機嫌伺のように姫を差し出して来た」


 侯爵はもう一口酒を飲んだ。


「庶子だが、一応第六王女だ」

「捨て駒のようではないですか……。姫様を、送り込んで来る理由は?」


「それを分かっている者が居るとしたら、彼奴だけだろうな」


 面白くなさそうに侯爵は、顔をしかめた。頭を使う細かい事は、昔からオルタンシア公爵の分野だったのだ。


「姫様が庶子で第六王女だったとしても、出自におかしい所が満載ですよ」


「ほう……、如何なる所がだ」

「姫様と話をして、不思議に思いませんでしたか? 我が国の言葉が完璧なのです。連れてきた侍女達は、ほとんど話せませんよ。何故姫様だけが話せるのか、おかしいではありませんか」


「ほんとうだ……」

 

 侯爵が間の抜けた顔をして、ラウーシュを見た。初めから普通に話していたから、何とも思っていなかったが、確かに姫の侍女達は、侯爵が話しかけても言葉は通じなかった。

 かろうじて侍女長だけが、会話ができるのだった。


 王族等は隣国の言葉も幼い頃から習うから、ある程度は話せて理解できる。ラウーシュも小さい頃から、数か国の言葉を習っていて、他国に行っても苦労はしない。

 姫がその環境に居なかったのは分かっているが、では――何故――と疑問は募るばかりだ。


「これは一度宰相閣下に、お会いしなければならないようですね」

「私は行かんぞ」


 侯爵は、瞬時に拒否した。息子の婚儀の対策を聞きに来たと、思われるのが嫌なのだ。


「明日にでも、宰相閣下に面会を申し込んでみます。宜しいですね?」


 侯爵は渋い顔で承知した。息子が、彼に会いに行くだけでも嫌なのだが、今はそうも言っていられないのは分かっている。



 宰相への面会は、忙しいという理由から断られた。

 それも個室で婉曲にという貴族的な物ではなく、宰相の秘書官に宮廷の廊下で、人が大勢いる中での面会の断りであった。

 

 父ならば、無礼だと秘書官を殴っていただろう。

 もっとも現侯爵の父へ、この応対はありえないはずだ。

 しかし無官で若く爵位のないラウーシュでも、いづれは侯爵を継ぐ者なのだから、これはないだろうと思えたが、秘書官が大きな声で断りを入れてから、誰にも分らないように目くばせをしてきた。


 目くばせ、咳払い、頭の振り方と、貴族の会話は言葉だけではない。

 宰相の秘書官も宮廷で働く以上、この仕草には精通しているはずで、ラウーシュの見間違えではない。


 つまり面会はするが、非公式にという事なのだろう。今自分が大っぴらに、宰相と会うのはまずいのだ。


「申し訳ありません」

 頭を下げて謝る秘書官は、――今夜御迎えに――

 と、囁いた。


 ラウーシュは、面会を公衆の面前で断られ茫然としているていで、秘書官の背中を見ながらたたずんでいたが、実際は可笑しくて、顔が笑いで引くつくのを抑えるのに必死だった。


 侯爵家を継ぐのになんの問題もなく、うるさい親戚もおらず、衣装と旅行に金を使い放題だった自分に、なんと政治という厄介な事が絡んできた。

 

 今まで充実して満足だった人生が、突如、退屈な物だったのだと、気付いたのだ。


 興奮で赤くなった顔を、周りにいた人々は、怒りのせいだと誤解していた。

 デフレイタス侯爵と、宰相のいきさつが分かっている者達には、宴会の席での話題に事欠かないだろう。

 

 ラウーシュは、大股で廊下を歩きだした。




 吝嗇家というのが、オルタンシア公爵の陰口であるが、実際に公爵家に来てみれば、一言もそんな言葉は出てこなかった。

 自分の屋敷は贅を尽くしていると思っていたが、公爵家はやはり公爵家であった。

 不敬だが、王宮の内部と言われれば信じてしまうほどの豪華さだった。


 廊下に敷かれた絨毯、壁に掛けられた幾種類もの人物画、風景画、至る所に置かれている彫像が、外国を旅行して見てきているからこそ分かる、素晴らしい国宝級の物だった。

 蝋燭の灯しか無かったが、日の光の中で見れば感動で、体が震えただろう。

 子供の様にキョロキョロと頭を巡らしながら、公爵邸の奥深くに案内されて行った。


 父が公爵の服装をいつも、ボロと称していたが、やはり家でも質素な物を着ていた。

 黒いローブを羽織り、編んだ紐で腰のあたりを結んでいた。

 まるで僧服の様に見えた。


「お呼びたてして申し訳ありませんでしたね。あのような無礼な真似をして、お父上がお怒りではなかったでしょうかね」


 丁寧な詫びを言いながら、宰相はラウーシュへソファーを勧めた。


「ご想像の通り、怒っておりましたが、本当の事は言っておりません。父は腹芸が出来ませんから、知らない方が良いかと思いまして」


 宰相は微かに笑い、ラウーシュの向かいに座った。


「貴方のお家は、小細工無しに存続されてきたのですから、立派な物ですよ……」


 言下に宰相の苦労が分かり、気の毒に思えた。


「姫様の事では、貴方にもお手数をおかけしています。ですが、姫との婚姻をお考えならば、色々と厄介な事を解決せねばならないのです。それにお気づきだから、私に面会を求められたのですよね?」


 宰相の目は感情を表さず、酷く無機質に見えた。先ほどまでの父についての話の時とは、人が変わったようだった。


「婚姻の事は両親が乗り気でしたので、私も承知していますが、我が家で構わないのですか?」


 宰相の目は僅かに下を向き何かを考えているようだが、それがどういう意味なのかラウーシュには知る由もない。


「姫様を第二王子殿下のお妃にと考えておりましたが、姫様がお幸せになるならば、どちらでも構わないと思っているのです」


 随分な言いようだが、姫を嫁して頂くこちらには、どのような意見も反論もできない。


「率直に言わせていただければ、王家とデフレイタス侯爵家とを秤にかけているのです。王家との婚姻を発表してしまえば、後戻りできません。しかし侯爵家とならば、公表さえしておかなければ、取り消すこともできるでしょう?」


 そう言った宰相の顔は、人間味のない顔をしていた。




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