第30話
「婚約ですか?」
リリアスは手を止めて、ジラーを見た。
この間の茶会の時、侯爵夫妻が姫をとても気に入っている様に見えて、このまま姫の周りの雰囲気が穏やかになればと思っていた。
貴族の事は良く分からないが、侯爵家の跡取りに他国の姫が嫁ぐのは、変ではないのだろう。
母と引き離されて一人でこの国に来たのだから、いづれは誰かと結婚しなければならないのだろうが、自分の意思も考慮されずに姫は、結婚させられてしまうのだ。
「王様にも聞かずに、そんな事を決めてしまって良いのですか?」
「勿論陛下に言上して、許されてからの事よ」
――そうなれば、また衣装の注文で忙しくなるわね――
ジラーは、笑いながらリリアスの肩をポンポンと叩いて、部屋を出て行った。
「気になるかい?」
ぺラジーが少し笑いながら聞いてきた。
「うん……、姫様が幸せになるならいいんだけど、結婚さえ自分で決められないのね」
「そこじゃないよ。若様が結婚するって事なんだよ」
リリアスはきょとんとした顔で、ぺラジーを見た。
「そりゃあ侯爵家の跡取りが、いい年していつまでも独身ってわけにもいかないでしょう」
「若様も自分じゃ結婚を決められないんだね」
ぺラジーはそう言って、刺繍に目を戻した。
何を今さらだろう、貴族の結婚は家同士の繋がりと聞いている。侯爵家が身分の高い嫁を欲しがるのは当たり前で、その人物には限りがあるのだから機会があれば掴み取るだろう。
当主となるラウーシュも、それは分かっているだろうし可愛らしい姫が奥方になるのは嬉しい事だろう。
あの姫に文句を言うのは罰当たりだ。
「幸せにしなければ、怒鳴り込んでやるんだから」
「本決まりですか?」
レキュアが侍女から貰った茶器で茶を入れている。
段々と暑くなってきた日差しの中で、紅茶の落ち着いた匂いが部屋の中に溢れていく。
差し出されたカップを取り、一口飲んでから庭を眺めた。
そろそろ夏物の服を用意する頃だなと思うと、ふと細く白い指が頭に浮かんだ。
働いた事のないような手は、貴族の女性を彷彿とさせるが性格は峻烈だ。
幼いと思えるが考えは世慣れしていて、冷めていてそして現実的だ。自分がどんな立場にいるか、客観的に見ている感じは理知的だが、感情が爆発すると容貌からは想像もつかないほど情熱的だ。
戯れに手にしてみようとも思ったが、自分には手に負えない気がした。いつか他人のものになった時、惜しかったと思うのかもしれない。
「父上が陛下にお願いして許可が下りたならだな。だが実際に結婚するのは、2、3年先だろう」
それまで姫に家風に慣れてもらうという名分で、この屋敷に滞在してもらえれば命を狙われる心配はないだろう。
姫を狙う原因が分かれば、自由にしていてもらえるのだが、さっぱり見当がつかないらしい。
父も親戚筋もそういうあくどい計画とは縁がないから、想像もつかないのだろう。
ラウーシュは――フフフッ――
と笑って、いままで自分の家は随分と呑気に続いて来たのだと思った。
オルタンシア公爵家は、嫡男が暗殺され僧籍にいた次男が還俗し、父親が亡き後は、その次男が跡を継ぎ、そのうえ一人娘は他国の王家に嫁いで行って、あの屋敷にはもう誰もいないのだ。
「王家に近い公爵家とは、大変なものだな」
ぬるくなった紅茶を飲んで、ラウーシュは呟いたが、
「何を呑気な事を言っておられるのですか。他国とは言え王族を家にお迎えするのですよ、これから他家からの嫉妬が酷くなりますよ。公私混同したと言われかねませんからね」
レキュアの言い分も最もだなと、気を引き締めた。
頭を下げたままの姿勢でじっとしていると、ほのかに王がつけられている花の香水の匂いが漂ってきた。
嗅いだことのない香水は、最近輸入された物だろう。王の自分に似合う物を選ぶ能力は、いつもながら侯爵をはっとさせる。
「頭を上げてもらおう、デフレイタス侯爵」
大きくはないのに、良く通る声は心地よい。
頭を上げると王の美しい顔を見る事ができたが、その横に見たくもない姿もあった。
今日は黒とも茶とも赤とも言えない色の服装で、王と並ぶとその貧相な衣装はなおぼろ布の様に見え、侯爵の苛立ちを募った。
「貴方の願いは宰相から聞いた、大変良い話だと思う……」
期待を込めて笑おうとすると、宰相が口を開いた。
「しかし姫様の接待係である侯爵が、侯爵家の嫁に姫様をと言うのは少し僭越ではありませんか?」
侯爵はムッとするが、宰相の言い分ももっともなので、言い返せず黙ったままだった。
「姫様の婚家となれば、侯爵のところでなくてもいいのではと思いますが。陛下いかがでございましょうか」
王は少し考えて、
「デフレイタス侯爵の申し出は我国にとっても良い案ではある。しかし宰相の言う通り姫を臣下に嫁がせるとなれば、吟味するのも一考であるな。二人で話し合ってはどうだ?」
宰相が――はっ――と、頭を下げると王は、終わったとばかりに席を立った。
侯爵は王が部屋を出るまで、頭を下げ手を握りしめじっと我慢していた。
側近も部屋を出てドアが閉まり、声が聞こえない距離になったとたん侯爵は口を開いた。
「どういう事だ!! 私の申し出が通るのではなかったのか?」
口から泡を吹かんばかりに声を荒げて、宰相に怒鳴った。
宰相は涼し気な顔で、それを聞き流していた。
「我が家以外に姫様を嫁す事ができる所があると、仰るのか!!」
宰相は歩き出し、侯爵が付いてくるのを促し部屋を出た。無言の催促に侯爵は顔を赤くして、速足で傍に寄って行った。
長い廊下を二人きりで歩くのは滅多にない事で、すれ違う人が驚いて慌てて離れていく。侯爵が一方的に嫌っているのだが、一応犬猿の仲と言われる二人が一緒にいるのは、とても珍しいのだ。
「姫様を貴方の家に嫁がせるのならば、どんな傷もないようにしたいのです。公私混同……。これ程言い掛かりのつけやすい事がありますか?」
侯爵もぐっと言葉を飲み込んだ。
「他家から文句の言いようのない理由を見つけなければ、姫様を嫁がせる事はできませんよ」
「それは貴方が反対だという事だろうか?」
日頃の宰相への嫌がらせや、反抗的な態度に思い当たる侯爵は下手に出て聞いてみた。
「とんでもありません。この話ほど王家にも貴方の家にも良い事はありません。だからこそ実現して欲しいと思っているのです。良く良く考えてみて下さい」
軽い会釈をして、宰相は曲がり角を行ってしまった。
残された侯爵は、こういう細かい気配りというものが苦手で、秘書を一人連れて廊下を去っていく宰相の背中を、途方に暮れて見つめているしかなかった。




