第3話
朝から店のおもてが騒がしい。
普段は静かな女工たちも、浮ついてみえる。
「なにかあったの?」
しかめっつらをしているペラジーに聞くと、彼女は唇を突きだして不満げな顔をした。
「侯爵家の若様がくるらしい」
王妃のドレスを作る工房なのだから、侯爵家が客としてくるのも当たり前なのだろうが、ペラジーの機嫌の悪さは違う理由らしい。
「きっとドレスのデザインか何かの変更に来るんだろうさ」
――もうできあがるのに――
ため息をつきながらも手を止めない彼女は、頭を振った。
貴族の気まぐれにはいつも悩まされているようだ。
リリアスでさえ、上流階級の奥さまたちのデザインの変更には、困らされていた。
「侯爵夫人はいつも、若様を使いに来させるのよ。それがまあ、いい男でね。みんなひとめ見ようと、大騒ぎなんだ」
針子たちは店に出る事はないから、若様を見るのも隠れてで、なかなか機会はないらしく、そわそわしている。
リリアスは貴族の男とはどういうものかと、いつも判断に迷っている。
働かずに食べられるというのは、どういう事だろうと。
朝早くから夜遅くまで働かねば、食べていけぬ平民と、昼過ぎに起き、綺麗な服を着て美味しい物を食べる貴族と、どこに違いがあるのだろう。
女なら嫁いだ男の稼ぎが良いと、働かなくてよいし、子育てに専念できるだろうが、男の本分は働いて稼いで家族を食べさせるものなのではないか?
着飾って化粧して、夜会で朝まで騒ぐのが、男の仕事なのだろうか。
まったく信用ならない生き物だと思う。
人はそれが貴族なんだからと言うが、自分たちと何が違うのか。
ざわつく部屋で、リリアスは針を運ぶ。
「若様よ」
ドアの近くにいた女性が、声をひそめて皆にしらせた。足を忍ばせて皆ドアに身を寄せる。
――美しい……、いい男……――
などと、ため息のような声がもれ、憧れのような声音にリリアスは苦笑いだった。
「見にいかないのかい?」
ペラジーがつぶやくが、リリアスは頭をふった。
「お貴族様は、人ではないんでしょ? 私とは住む世界がちがうし、ご婦人ならまだ理解できるけど、男はねえ……」
「ペラジー。マダムが呼んでるよ」
――きたか――
と、ペラジーは重い腰をあげて出て行った。
あの時どうしてドアが開いていたのか、あの時どうしてその側を通ったのか、のちにリリアスはその運命の瞬間を何度も思い返した。
自分の未来の決定がなされた瞬間を。
天窓から差し込む陽の光を浴びてその男は、廊下に立っていた。
薄紫のジュストコールが陽で輝いていた。
折り返しの袖と襟元と広がった裾に、金糸銀糸のモールがうねるように飾られ、その周りに、見たことのないキラキラ光る宝石かと思わせる、小さな粒が模様として飾られていた。
――なんだろう――
こまかく光る模様は裾が動くたびに陽を反射させ、魔法のような色の乱舞を見せている。
――もっと近くで見たい――
細く開いたドアをリリアスは無意識に、押し開いていた。
音もなく開いたドアに男は驚いて、リリアスの方を見た。
そこにはほうけた顔をし、手に刺繍糸の束を手にした、化粧っ気のないリリアスが立っていた。
自分がこの店に来ると裏でなにかと騒がしいのは知っていたが、こうやって大っぴらに自分の前に、女が出て来たのは初めての事だと、男は思った。
平民の女たちに騒がれても、うっとうしいばかりだと、男は眉をひそめてリリアスを追い払うように手を振った。
しかしそれとは反対にリリアスは、ふらふらとおぼつかない足取りで、男のそばまで寄ってしまった。
「無礼ではないか、女!!」
自分への応対をする小綺麗な店主と違って、粗末な女中姿のリリアスを見て、平民の汚れた匂いをかぎたくなくて、男は一歩下がったが、リリアスはなおも近づいていった。
男は、抱きつかれでもしたら服が破れるかもしれないと、身体をひるがえそうとした時、リリアスの顔が見えて、その視線が自分ではなく体のほうに向けられているのに、気がついた。
「なにをする!」
男はリリアスの異常な行動にぎょっとした。
床にひざまずきふるえる指で、ジュストコールの表面を触ろうとしている。
男はつま先でリリアスをけり上げると、その細い体は軽く廊下の隅までころがっていった。
「平民の分際で、私に触れようなどと、不敬であるぞ!!」
男は大きな声で怒りをあらわにした。
その声に奥からマダムがあわててやって来た。
「若様!」
いつにない男の怒り顔にマダムも、床に転がるリリアスを見て、なにか粗相があったのだと、なだめるように声をかけた。
「縫い子が失礼をいたしました、お許しくださいませ」
「縫い子?……」
どこか打ったのかうずくまったまま、動かぬリリアスを見て、男は自分の体に触れようとした女の動機に思い至った。
陽に輝く自分の服のビーズの模様に、手を触れた。
「これが気になったのか?」
返事をするでもなく、リリアスはゆっくりと起き上がり、乱れた髪を顔に付けながら、男に近づいていった。
指先で触ろうとして、はっとしてとどめ無表情で男を見た。
二人は無言で見つめ合い、時が止まったようだった。
「しばらく南の国に旅に出ていたのだが、そこで最近作られるようになった、ビーズという物だ」
ソファーに腰掛けた男は、絹で織られたストッキングをはいた足を組んで、ぶらぶらとゆらしている。さきほど怒りでゆがんだ顔も、今は機嫌がもどっていた。
自慢げに、着ているジュストコールを、細く白い指で優雅になでる。
リリアスの視線はずっと、ビーズの模様にそそがれていた。
「若様申し訳ございません。私の所で働いている者は皆、洋裁の技術や材料には、目のない者ばかりなのでございます」
マダムはにこにこと、男に自慢げに話すが、マダムも先ほど男から渡されたビーズには、目を奪われていたのだった。
男の訪問はペラジーが言っていたように、侯爵夫人のドレスの変更だったが、それはこの男が土産に買ってきた、ビーズをドレスに縫い付けるというものだった。
「この女中は若く見えるが、腕はたしかなのか?」
マダムは自信ありげな顔で、うなづいた。
「この者の主人が手放さないので、借り受けております。王妃様のお召し物の、刺繍をする予定でございますよ」
男はやんごとなき方の尊称がでて、淡いブルーの瞳を見開いた。先ほどまでリリアスを見る目には、無機質な物しか感じられなかったが、突然湧いたかのように感情が現れた。
それだけ王妃という立場が、彼ら貴族には重い存在なのだろう。
「このような女中が、妃殿下のお召し物をなあ……」
信じられないという顔で、頭を振った男は突然、
「南の国で仕立てた服を、見せてやろうか」
と、突拍子もない事を、言い出した。
「よろしいのですか?」
マダムは男の気まぐれを知っている。
貴族とは思いつきで生きているような者だ。今日良しとしたものが、次の日には否と言い出す。
彼女はその気まぐれと戦っているようなものだ。
貴族相手の商売ではお金も、名声も手に入るが、気の使いようは並大抵ではなく、依頼があってから納品するまで、気の抜けるひまがない。
特にこの男の母親である侯爵夫人は、妃殿下よりも神経を使う。なまじセンスがあるだけに、こちらにいい加減な仕事を許してはくれない。
マダムはにこやかにほほ笑みながら、母親似の着道楽の男の言葉を待った。
「明日でも来るがいい。家令にことづけておいてやろう。母上のドレスの参考になれば、なおいいだろう?」
黙ってマダムと、男の会話を聞いていたリリアスは、ビーズとやらがふんだんに使われているであろう、洋服を思い浮かべて、興奮したのか顔を赤らめた。
白い肌の美しい娘が頬を染めているのは、ずいぶんとなまめかしい。
男は自分の言葉が、リリアスにもたらした反応に、少し驚いて表情を動かした。
自分の顔にはいっさい興味をもたず、洋服の装飾にしか目が行かない女中に、好奇心がわいた。
「あの……、もう一人いっしょに行ってもいいでしょうか」
貴族の屋敷に来るのに、気おくれしたかと思い、男は鷹揚にうなずいた。
「かまわん、その方が色々相談もできるだろうしな」
リリアスはぜひペラジーにも、ビーズの付いた洋服を見せたかった。
きっとペラジーとの付き合いは、これからも長く続くだろう。
縫製に自分の力を注ぎこむ彼女は、リリアスにとって、良いライバルとなるだろうから、新しい技術や材料は彼女にも知って欲しかった。
男は気取った足取りで、店を出て行った。
白に近い銀髪と、薄青い瞳はたしかに綺麗な色だが、リリアスにとってはどうでもよい。
「ペラジー!!」
リリアスは作業場に飛び込み、ペラジーに抱きついた。
今まで過度の接触をしてこなかったリリアスの態度に驚いて、ペラジーは痛そうに大げさに顔をゆがめた。
「あんた、おとなしいとばっかり思ってたけど、やるときゃやるもんだ」
ふらふらと作業場から出て行ったリリアスが、若様の服にすがり付かんばかりに手を伸ばした時には、縫い子一同胆を冷やしたが、まさか蹴られても立ち上がるとは、思ってもみなかった。
「自分でもどうしてだか、説明が付かない……」
ペラジーが噴き出した。
「マダムの目は確かだけど、あんたは本当に裁縫に、取りつかれているんだろうさ」
涙をにじませながら腹の底から笑うペラジーは、リリアスから見ると、何の心配もない陽気で、明るい女性に見えた。
明日侯爵家に行く事を約束して、ペラジーは帰って行った。
いつもと同じ朝がくると、リリアスは思っていた。
しかし、リリアスにとって喜びに満ちる日であるその日に、ペラジーは店に出てこなかった。
誤字報告ありがとうございます。
訂正いたしました。