第26話
ワイングラスを微かに触れ合せ、乾杯をした。
「何にだ?」
「フルイエ殿に……」
「フルイエ殿?」
「お前は気が付かなかったか? この間の舞踏会の日にちに」
「6月7日だったかな?」
「そうだ、6月7日だ……フルイエ殿の命日だよ」
デフレイタス侯爵は、驚きに目を見開いた。舞踏会の日にちを決めたのが、誰だか分かったからだ。そしてその日をすっかり忘れていた事にもだ。
「思えば、あの日から始まったのかもしれんな」
ブリニャク侯爵は頭を横に振った。
「違う、あの人が陛下の元に嫁いできてから始まったのだ」
ブリニャク侯爵は舞踏会の朝早くに、王宮の庭園に出向いて行った。
薔薇の花は朝露を付けて、香しい匂いを放ち彼の身体を包んでくるようだった。その奥に進んで行くと1本のくちなしの木が大きくなって立っていた。
30数年前その木の下で、オルタンシア公爵嫡男フルイエが、死に絶えていたのだった。
腹には刺し傷があり、それが致命傷だったのだが、絶命するまでに時間があったのだろう、そこまで這って来た跡が薔薇園から続いていた。
夜の庭園の騒動の中、宮廷に伺候し始めたばかりの自分は、ついさっきまで話していた人があっけなく死んでしまう事に、呆然としていたものだった。
その木の下には一輪の薔薇の花が、まるで偶然落ちていたかのように置かれていた。
それを見て、今日が舞踏会の日に決まったのは、宰相の意志だったのだと気づいたのだ。
現在、今日がフルイエ殿の命日だと誰が覚えているかと考えてみたが、公爵家の身内と自分ぐらいだろうと思った。
それほどの長い年月が過ぎ、昔を知る人々は亡くなり、そして全ての元凶だった女性が生きて宮廷に戻って来たのだ。
時というのは恐ろしい。
有った事が無くなったように思ってしまえるのだ。
しかしここにはまだ昔の事を忘れたくても、忘れられない人がいるのだと、はっきり知る事となった。
「陛下があの人を、王都に戻すと仰せになられた時、反対したのは?」
「勿論、私と、あやつだけだ」
ブリニャク侯爵は、デフレイタス候の言い方が、変わらないのがおかしくて笑った。
「他の老人達は何か言わなかったのか?」
「年寄どもはとっくにもうろくしていて、陛下の言いなりだった。あいつらはさっさと隠居して、息子に家督を譲れば良いのに」
デフレイタス候は不機嫌に鼻を行儀悪くならして、散々老人達をこき下ろした。
「オルタンシア公は何と言って陛下を説得しようとしたんだ?」
「……それが、反対と言っておきながらそれ以上の言葉はなかった。ただ最後まで首を縦に振らなかったのだ」
大勢の貴族の中で最も権力を持ち、敬意を払われていた宰相が怒るでもなくただ黙って机の上を見つめ一言も発しなかった。
王さえその姿に遠慮して、その他の者の説得の発言を許さなかった。
会議はそのまま終了となり、王太后の王都帰還は決定したのだった。
オルタンシア公の気持ちも分からないではない。兄の殺害を指示したであろう人を、恩赦のような形でそれも陛下からの申し出ゆえに、絶対的に了承せねばならないのはやるせなかったのだろう。
「陛下の犬とまで言われた宰相が、最後まで『うん』と言わなかったのだ……。さすがの私も、少し同情した」
「お前は、なんと言って反対したのだ」
デフレイタス侯爵は当然という顔で、
「若い頃ずっといじめられていたので、顔を合わせるのは嫌です……と、言っておいた」
――あはははは――
深夜の侯爵の部屋に大きな笑い声が響き、廊下に居た執事が慌ててドアを開けて、中の様子を窺いに来る程だった。
「お前の人を嫌う執拗さは生まれつきの様だな。そして……的外れで、愚かしい」
「愚かしいか……、しょうがないであろう? 自分でも抑えが効かないのだから」
ブリニャク候がにやけた顔で、
「お前の息子が舞踏会でずっと私を見ていた」
「ああ、英雄のお前に憧れているからな。我が国の男子は皆そうであろう?」
ブリニャク候は首を横に振った。
「赤毛の令嬢と宰相と話している間、ずっとこちらを睨んでいた」
「お前達を? おかしいな。あれは私と違って中立派だから、オルタンシア公の事は別に嫌ってはいないぞ?」
子供の頃からデフレイタス候は人や物事を斜に見る性格で、そのせいで損をしたりしているのだが、それは息子にも受け継がれているようで、傍から見ていると分かる事も本人には気付かない事が多々あるのだった。
「親子は似るというのは、本当だな」
そろそろ帰ろうと立ち上がると、
「おお、似ていると言えばあの赤毛の縫い子も、お前に似ていると言えば似ているかな? お前にしばらく会わなかったから、気が付かなかったが久しぶりに会って比較すると少し似ている気がする」
「赤毛の縫い子? あの令嬢がか?」
「そうだ、王妃殿下のドレスの製作にかかわっている。まあまあ美しいだろう? ああ……だからお前には似ていないか」
今度はデフレイタス候が、笑った。
「そうだ娘がいたとしても、私に似ていたら不幸だろう、こんな強面ではな……」
横を向いたブリニャク侯爵の顔はもう酔ってはいなかった。
馬車で送らせるという厚意を、馬を置いて行くと寂しがるからという理由で、騎乗で帰る事にした。
下弦の月の夜で明るくはなかったが、帰るには困らない光だった。
侯爵の屋敷を出て少ししてから供の者が側に寄って来た。
「跡を追ってきている者がいます。徒歩です」
「何人だ?」
「5人ほどでしょうか」
騎乗の戦いに慣れている自分を、徒歩の者が5人でなんとかできると思われたのが片腹痛い。
こちらが気づいたのを知って、バタバタと後方から走る音が迫って来た。
「ここは私が」
従者が残ると言ったが、フルイエ殿の事などを思い出した夜なので、殺生はしたくなかった。
「馬には敵わないであろう。走って帰るぞ」
「しかし逃げたとなると、お名前に傷が……」
「誰かが私を、弱腰と呼ぶなら呼ばせてみよ。誰が信じるというのだ」
侯爵は後ろに振り返り声を上げた。
「私を、赤鬼のブリニャクと知っての狼藉か? それでも来るというなら、お相手いたそう」
バタバタとしていた足音が止まって、ひそひそと話し声がした。
暗い建物の影から黒くしか見えない男が現れ。
「失礼いたしました。ブリニャク侯爵閣下とは存ぜず、跡をつけました。お許し下され」
ペコリと頭を下げて、暗闇の中に消えていった。
王都に来て10日あまり、あの人が戻って来てから5日ほどしか経っていない。
それなのに、もう物騒な王都になっている。
しばらく気が抜けなくなると思うと、陛下を恨みたくなってきた。




