第20話
エイダの容態は変わらず、これ以上は薬を飲ませるほかはすべがないと言われ、意識がないまま家に連れて帰って来た。
「エイダ……」
昼の営業をなんとかこなし、後片付けをしていた両親は、とぼとぼとエイダを抱いて帰ってきた娘を見て駆け寄った。
夕べ腹が痛いと言っていた時とのあまりの変わり様に、息を呑んだ。
下町では、小さな子供がちょっとしたきっかけで命を落とすのは日常茶飯事で、何人かの幼子の最後を看取っている。
エイダは健康で、風邪も引かない元気な子供であったから、自分の孫は大丈夫だと安心していたのだ。
「先生はなんて?」
「吐かせて薬を飲ませても、容態が安定しないから、様子を見るしかないって。後はエイダの体力が続くかどうかみたい」
「なんてこった……、昨日はあんなに元気だったってえのに」
父親は涙ぐんで、エイダの頭をなでた。
「さあ、ベッドは整えておいたから、寝かせてやんな」
母親が、そっとエイダの体に触れた。
ペラジーはゆっくり階段を上って、寝室に行った。夜中にそのままにして飛び出した部屋は、綺麗に掃除され、部屋の空気も入れ替えられ、夜具もきれいな物に取り換えられていた。
そっとベッドに寝かせた娘は、医師の所に行くときは重くて落としそうだったのに、たった一晩で軽くなってしまっていた。
「……っ」
喉元からあふれる声を手で押さえ、ペラジーは涙した。
「ペラジー……」
母親が声をひそめて呼んだ。
「なんだい?」
手で涙を拭って、振り向くと、母の後ろにレキュアが立っていた。
「どうして……?」
レキュアは静かに部屋に入って来て、物珍しそうにあたりを眺め、
「若様から、あなたの娘の治療をするようにと、言いつかって来たのですよ」
「リリアスは? 侯爵様のお屋敷に行ったはずだけど?」
「色々ありましてね。今もお屋敷にいます。医者はどんな薬を飲ませましたか?」
ペラジーは考えが追いつかず、医者からもらった薬の袋をそのまま差し出した。
レキュアは薬を取り出して、指でなめとって確かめた。
「ああ、下痢止めですね」
「分かるのかい?」
レキュアはうなずいて、持っていたカバンから袋を取出し、ペラジーに渡した。
「この草を煎じて、娘に飲ませなさい。ポット一杯を、飲めるだけ飲ませて構わない」
「こ、これを飲んだらエイダは治るのかい?」
レキュアは、安心させるように笑った。
「食べ物はとってないから、便はでないだろうが、尿と汗がでるからその用意はしておくといいだろう。二度ほど汗が出て着替えさせたら、落ち着くだろう」
「ありがたい!」
ペラジーの母親が叫んで、ペラジーの手から袋を奪い取り、勢いよく階段を駆け下りていった。
「すみません、かあちゃんもエイダの事が心配で、必死なんです」
いつもならペラジーの方が、不作法でマダムジラーに怒られているのだが、今は娘の命を助けてくれるレキュアに、母親の無礼をあやまっている。
「孫は子供より可愛いと言いますからね。構わないですよ」
「私やリリアスはそうでもなかったのに、エイダはどうしてこんなに苦しんでいるんだろう」
「このことは食あたりという事にしておいて下さいね。子供だから、症状が重くでたのでしょう。大人なら、吐き下しぐらいですむものなのです」
「やっぱりあの……?」
レキュアはそれ以上何も言わなかった。
いっしょに様子を見ていてくれたレキュアは、エイダが一度汗をかいて着替えをした時に、
「息も普通に戻ってきたし、顔色も良くなってきましたね。あと一度汗をかけば、もう大丈夫でしょう」
と、薬が効いてきたのを確認した。
その言葉を聞いて、母もペラジーも泣き出した。
「あ、ありがと……ございます。レキュア様、ほんとに恩にきます」
「私は若様のご命令で来ただけですから、お礼なら若様に仰って下さい。もっともあの方は、なんの事だと、気にも留めないでしょうけどね」
夜のとばりが下り始めたころ、レキュアは帰っていった。ペラジーも両親もその馬車が見えなくなるまで、見送っていた。
「おなかへった、おかち食べたい」
元気になったとたんに、我が儘し放題になったエイダに、ペラジーはパン粥を与え、
「たーんと食べられようになったら、うんと美味しいお菓子を作ってやろう」
「わーい! かあちゃんだいちゅき」
エイダはベッドからペラジーの腕に抱きつき、甘えてきた。
「ほらほら、こぼれるじゃないか。大人しく寝ていないと、良くならないよ」
「うん、はやーくよくなって、おいちいおかち食べて、とうちゃんが帰ってくるのまってる」
ペラジーは子供の小さい願い事に胸が塞がれ、言葉につまった。
自分の幸せはちょっとした事でなくしてしまう。それを肝に銘じなければと思う。
口元を拭いて、髪を撫でてやれば、気持ちよさ気に首をすくめ頭を寄せてくるこの子を、亡くさなくて本当に良かったと、神に感謝した。
この部屋に来るのは何度目だろうと、デフレイタス侯爵は思った。
王宮の奥近くの裏庭に面した、日の当たらない部屋である。
フレイユ国事務方トップの宰相の部屋が、賓客を招く事を躊躇せざるを得ない薄汚れた粗末な物なのが、到底許せない。無駄に金を使えと言っているのではなく、身分に合った設えをすべきだと言っているのである。
勿論口に出しては言わず、すべて胸の内でだけ思っているのだが。
イズトゥーリスとの戦争を王と共に勝ちきった宰相に、抗議ができる者などいない。
戦場で必要な物資を際限なく送り出し人員を確保し、その上戦場にまで出て軍と共に戦略にも力を貸したのだ。
ましてその時は軍費に制限は付けなかったから、軍のお偉方も彼には一目置いていた。
戦後宰相が吝嗇家に戻ったのは、性格もあっただろうが、軍費のせいで赤字になったからではないかと、もっぱらの噂だった。
だからなお、宰相は軍からは評判が良いのかもしれない。
色あせた壁紙に、古くなった板の床、リストアされたソファーにテーブルが宰相の信条を物語っているようだ。
――このような貧乏たらしい執務室になど、半刻も居たくないものだ――
宰相の執務机の上には、侯爵が持って来た焼き菓子が乗っている。
この役目は息子のラウーシュにさせようと思ったのだが、宰相に嫌味の一つも言えるかと思い、侯爵自身がやってきたのだった。
「という訳で……、姫様を娘のように思っておられる、貴方にこの一件はお任せしましょう」
青白い顔が、じっと机の上の焼き菓子を見ている、宰相は視線を上げて侯爵を見た。
「姫様があの後体調がすぐれないとお聞きしましたが、この焼き菓子にそんな物が入っているとは……。
侯爵お手柄ですね」
上から目線で言われて、侯爵は顔色を変えたが、口を引き結んで何も言わなかった。
自分より2、3才年上の宰相は、若い頃から侯爵の苛立ちの対象だった。人の好悪はあまりないほうだが、この男だけはどうしても気が合わないのだ。
「姫様に何かあれば、自国の責任問題になりましょう。あなたも、目を光らせて頂きたいものですな」
決め台詞とばかりに立ち上がって、執務椅子に腰掛ける宰相を見下ろした。
頭を下げる代わりに、顎を上げて胸を張った。
いつも通りの侯爵の姿だった。
にぎやかに侯爵が部屋を出ていくと、急に空気は静かに落ち着いたものになった。
「相変わらずですね……、あの人は年をとってもちっとも変わらない」
デフレイタス侯爵が白銀の巻き毛に、立派な口髭を生やし、派手ではあってもその細身の体に似合う服装をしているのに対し、宰相のオルタンシア公爵は真っ黒で直毛の髪を首筋で結んで背中に垂らしていて、瞳も真っ黒でこの国では珍しい色彩だ。
男性にしては小柄できゃしゃで、侯爵に比べると影が薄い人である。
ひと目では宰相という重役を担う人には見えないが、この人がいたおかげで、フレイユ国は内外とも安定した国に成り得たのである。
そのオルタンシア公爵は、おもむろに机の上の文鎮を持ち上げ、目の前の焼き菓子を砕き始めた。
白いハンカチは茶色に染まり、焼き菓子は粉々になった。
ゆっくりと立ち上がったオルタンシア公爵は、そのハンカチごと暖炉に捨て火を点けた。
火のオレンジ色がオルタンシア公爵の顔に映り、閉じられた口元が少し笑みを浮かべているようであった。




