第2話
「モロー工房の、リリアス・コルトレさんよ、しばらくうちで働いてもらうことになったの。この方の技術を、工房にいる間に盗んでちょうだいね」
マダムジラーは、冗談のように縫い子たちに言ったが、それが本気である事は皆が知っていた。
自尊心の強いマダムジラーが、頭を下げてでも借り受けた縫い子が、自分達より技術が劣るはずがない。彼女のもてうる技術を、引き出して頭に、手に記憶しろと言われたのだ。
他工房の縫い子に対する嫉妬など、どうでもよい。感情を押し殺してマダムの隣に立つ美少女を、工房の女たちは静かに見た。
「おねえちゃん、おねえちゃん! こっち、こっち!」
窓際の奥から、市場のせりのような、威勢の良い声がかかった。
――困ったものねえ――
とマダムジラーがつぶやくが、怒ったようでもなく、周りにいる縫い子も苦笑いで頭を振っている。
「ペラジー、静かにやってね」
マダムジラーはそっと、リリアスの背に手を当てて押した。
「悪い子じゃないから、仲よくしてあげて」
と、言いおいて部屋を出て行った。
リリアスは手に持ったバッグを、縫製の仕事をしている人達に当てないように間を縫って、窓際のひときわ大きな机に陣取っている、ペラジーという女性の前に立った。
「よろしくね。ペラジーだよ。好きなように呼んで」
にっこり笑った顔は幼く見えるが、その手にある布は、綺麗なギャザーがよせられている。
わらのような明るい金髪で、瞳は茶色でその下にそばかすが点々と見えるが、それが飾らない彼女の性格をあらわしているようだ。
「さあさあ、そこに座って。様子見してから、刺繍してもらうから。図案はこれで……、これあんたが編んだの? ひゃー! すごいレースだね。マリーアンでも、できないかも。なんの模様かなあ……」
静かな部屋にペラジーの返事を待たないおしゃべりが響き、誰もそれに反応しない。きっといつもの事なのだろう。
リリアスは職人にしては、じっとしていない彼女が珍しくて、ぼおっとしていた。
「……、それで、レイモンドが手を離さないで引っ張るもんだから、頭から肥溜めに飛び込んじゃって、一週間は臭いがとれなくて、お店を出禁になっちゃったんだって。まーったくバカに、つける薬はないって、ほんとだよねー」
どこかで、噴き出す音が聞こえた。
聞いていないようで、耳には入っているようだ。
すずめのさえずりのような、ペラジーのおしゃべりは止まらないが、その手は同じ間隔で布に針を通し、綺麗なシャーリングを作り上げていく。
口と手の動きは別人のようだ。
モローの工房では静寂を好んでいたリリアスだが、唾を飛ばす勢いで話すペラジーを、不快とは思わなかった。
腕に自信を持った鼻につく、気取った女たちの集まりかとかまえてやってきたが、どうやら責任者のペラジーが、おしゃべり好きで陽気な性格なので、下についている者たちもこだわりのない集団のようだった。
リリアスは、手元にある刺繍の図案を見つめている。
外国風の模様が不規則に描かれているようだが、観察するとある点をもとに無限に広がるような動きを見せている。
これをドレスのどの位置にどう刺すのか、頭の中に色が乱舞しリリアスの鼓動を高める。
色番が細かく指定され、ステッチの名前が書き込まれている。
どんな色のドレスに、この模様が浮き出すのか、早く見たくて頬が熱くなる。
「気にいった? もう悩んじゃってねー。東の方から来た絨毯の模様を参考にして、半年ぐらいかけたんだよ。あんたには少し練習してもらって、よしとなったら刺繍してもらうよ。王妃様に気にいってもらった生地だから、やりがいはあるよ」
「王妃様に会ったことが?」
ペラジーは、頭をぶんぶん振った。
「王妃様の部屋の隅っこからちらっとしか見てないよ。私はガラッパチだから、王妃様の前では話せないんだよ。マダムが意見を聞いているのを、聞いているだけさ。それでも、仮縫いの様子は分かるからね、直しはばっちりさ」
そうだろうなと思う。
息つくひまなく話しても、彼女の指先は正確に針を運んでいる。
年の頃は25,6才。
しかし話し方からもっと若いかもしれない。だがこけた頬や、薄い肩などが彼女の本当の性格が、繊細なものだと教えてくれている。
手元に陽の光が当たらなくなった頃、やっと工房の作業は終わった。
40人はいる女工たちの大半は通いだが、数人はこの建物の裏手にある住宅で集団生活をしているらしい。
リリアスもこの仕事が終わるまでは、そこに住み込むことになっている。
驚いたことにペラジーは結婚していて、子供もいるようだ。
「両親で居酒屋をやっていてね、旦那はそこで料理を作っているんだ。こどもはおっかさんが、みていてくれている」
本当はその店を手伝ったほうがいいのだが、ペラジーの腕にほれ込んだマダムが仕事をやめさせなかったらしい。
リリアスと同じで、洋服づくりが天職のようだ。
それに店を手伝うより、お針子のほうが収入が良い。
好きな仕事をし、両親と夫と子供までいるペラジーを、リリアスはうらやましく思った。
結婚したいわけではないが、望みうるすべてを持つというのは、自分の選択肢にはなかった。
両親……と、顔も浮かばぬ親を思った。
リリアスと名乗ったのは、幼い口ではそうとしか言えなかったからだ。
「リリアージュ……」
少し考えても訳ありそうな名前だ。
着ていた服も粗末なもので、身元がわかる物は何も身に着けてはいなかったらしい。
名前だけが自分の生まれを、証明するものだった。
忘れないように頭の中でくりかえし、くりかえし、となえていた。
「なんか言った?」
リリアスは頭を振り、立ちあがった。
「もう真っ暗よ、気を付けて帰ってね」
慣れた道だと、ペラジーは大きな口で笑って、帰って行った。
リリアスの長い一日はやっと終わった。