第18話
遠くで犬の遠吠えが聞こえる。
カツカツと木靴が、石畳に当たる音の中、――ハッハッハッ――と、荒い息が街の壁に響き、静かな夜の闇に消えていく。
「かぁ……ちゃ……、ぃた……」
さっきまで大きかった泣き声が、段々と小さくなっている。
抱いている身体の力も抜けていき、ぐったりと腕に重みがかかって、幼子ながら女の腕にもきついものがある。
「もうすぐ、お医者さんのとこだから、それまでの辛抱だよ」
ペラジーは泣きそうになるのをぐっとこらえて、エイダを抱えなおして走り出した。ベゾスがいたら、エイダの小さな身体など軽々と抱えて、走る振動も与えずに、一気に医者までの道を駆け抜けただろう。
両親は夜の仕事の疲れで、ばたばたと自分が動いていても、起きてこなかった。
今娘を助ける事ができるのは、自分しかいない。
医者の家の前にやっとたどり着いたペラジーは、
「先生! 先生! 起きて! エイダの具合が悪いんだ!」
深夜、人はぐっすりと深い眠りについている時間だった。声を限りに呼ばわっても、医師は起きてこない。
「くそっ! この……、藪医者! 起きろってんだよ! や、ぶ、い、しゃ!」
エイダを抱いたまま、ペラジーはドアを――ガンガン――と、蹴り上げた。
「まて、まて、静かにしろ。今開けるから……」
中から寝起きのくぐもった声が聞こえ、錠をガチャガチャさせてドアを開けると、慣れているのだろう、ランプを持った医者がペラジーに光を当てた。
まぶしさにペラジーが顔をしかめると、その間に医者は、その腕の中にいる子供を見た。
真っ青な顔に荒い息、それだけで熱が出る流行病ではないだろうと、判断する。
「いつからだ?」
ペラジーを奥の診察室に通し、ベッドに子供を寝かせる。
「晩飯を食べた後ぐらいから、腹が痛いっていいだして、ひまし油を飲ませて、寝かせていたんだけど、吐いて下して苦しみだしたんだ」
「夜は何を食べたのかね?」
「同じ物を、あたしも父ちゃん母ちゃんも食べたんだよ。何ともなってない」
「うん……。症状は食あたりだが、一人だけとは。他にこの子だけ食べた物はないか?」
「え?……。後は焼き菓子ぐらいだけど、これはあたしも昼間食べたよ」
「なんともなかったか?」
「あ、ああ……。少し胸やけみたいになって、お腹を下したけど、たいしたことはなかった。下町っ子の腹なんて、丈夫だからね」
医者がエイダを見ると、増々顔色は悪くなっており、唇はどす黒く息は荒い。
「腹の中の物を出して、整腸剤を飲ませてみるか」
くったりとなったエイダに浣腸をして、ぬるま湯を多く飲ませてから、薬を飲ませた。
その間も――腹が痛い――と訴えるが、そのうちに口も利けなくなった。
「エイダ! エイダ! しっかりしな。もうすぐ父ちゃんが帰ってくるからね」
母の声を聞くと薄目を開けて、何か言いたげにするが口は動かず、すぐ瞳は閉じられてしまう。
ペラジーはなすすべがない自分が腹立たしく、代われるものならば、代わってやりたいと思った。子供が苦しむ姿が、親としては一番辛い。
一人医者の家で、エイダの回復を祈って、付き添っているうちに朝を迎え、日の光の中で見るエイダの顔は、幽鬼の様だった。
人の顔が一晩で、頬がこんなに引っ込み、目の下が落ちくぼみ、肌色が生気のない物になるものだろうか。
初めてペラジーは死を身近に感じた。
しかし、父親がいない間に、子供に何かあったら、言い訳も償いもできるはずがない。
「エイダ……、エイダ。父ちゃんが帰って来る前に、元気になろうな?」
目をつぶったままのエイダは、荒い息を吐くだけだった。
ノックがして、静かにドアが開いた。
「ペラジー……」
リリアスは恐々と声をかけた。
カーテンを閉じて暗くした部屋は、汚物と吐しゃ物と汗の臭いがして、昔孤児院でよく嗅いだものだった。ペラジーは、エイダの手を握り優しく撫でていた。
新鮮な空気を感じてペラジーは、振り向いた。
リリアスの顔を見て、小さくうなずいた。
「工房に来ないから、家に行ったら、エイダちゃんが病気でここにいるって……」
「昨日から腹が痛くなって、様子見していたら、急に容態が悪くなってね、慌てて連れて来たんだ」
「ご両親も心配していたわ。朝お医者様がわざわざ、こと付けに来て下さったって」
エイダの顔を見てリリアスも、息を呑んだ。健康的で、丸々とした頬がこけて、肌色も黒ずんでいるようだ。幼子のこういう顔を見るのは、久しぶりだが、いつ見ても心が押しつぶされる。
「先生は食中毒じゃないと、言っていたけど、私も夜お腹が痛くなって、吐き気がしたわ。酷い症状ではなかったけど、確かにお腹は下したの。あなたもですって?」
「ああ、でもどうしてだい? エイダだけがなるのは、おかしいよ。父ちゃん達は大丈夫だったんだから」
「ペラジー……、ご両親は、焼き菓子を食べた?」
勢いよくペラジーは振り返って、顔を横に振った。
「食べてない。一枚も食べてない。母ちゃんのお土産なんだから、エイダが全部食べなって、エイダ一人に食べさせて、美味しそうにしているのを笑って見てた」
エイダが大きい焼き菓子を両手で持って、リスの様にほほ一杯にほお張って――おいちいねぇ――と、ニコニコ笑っているご機嫌だった顔が浮かぶ。
「侍女さん達は、食べ飽きているからって、食べなかったわよね?」
「なに言ってんだい。あそこはお城だよ……」
王宮だから、どうだというのだ。平民の世界よりよっぽど、目に見えないが悪い物があるのではないか。
「焼き菓子まだ残っている?」
「ああ……。どうするつもりだい?」
「ペラジー……、エイダちゃんをこんな目にあわせた物を知りたいと思わないの? ただの食中毒なら、しかたがないけど、違ったら……」
「私たちは虫けら同然の平民だよ。潰されたって、文句は言えないさ」
――違う! 違う! ――
――平民だって生きている、日々生活して人間らしく生きているのだと、何故思わない。何故簡単にあきらめてしまうが――
リリアスは、悔しさから涙がでそうになった。
「それに、私達だけじゃないわ。あの焼き菓子は、姫様と同じ物だと言っていたのよ」
ペラジーも驚いて固まった。強くうなずいている。
あの時は何ともなかったが、なにか症状が出たかもしれない。自国の優しくもしてくれない侍女達が、具合の悪くなった姫を、看病するだろうか?
それに誰が、あの焼き菓子に……。
リリアスはいてもたっても居られなくなり、
「焼き菓子は頂いていくわ」
そう言って、部屋を出て行った。
初めて工房に来たときのリリアスは、おとなしい顔をして、人の好奇心や好意の視線を跳ね返し、無表情に立っていた。
飾れば美しいのに、紅を少しさしただけの控えめな化粧とは反対に、着ている洋服だけが圧倒的な存在感を出していた。
あの洋服だけが、彼女の武器だった。
あとはどうでも良かったのだろう。
縫い子なら、誰もが憧れる『マダムジラーメゾン』に居ながら、嬉しいという気持ちが針の先ほどもなかった。
それが、かえってペラジーの興味を引いたのかもしれない。
――陽気な――、で通っているペラジーは案外、積極的な人は苦手で、おとなしい子の埋もれた特色を引き出すのが好きだった。
おとなしそうだが、きっと何かあると思っていたリリアスが、あんなに熱い女だったとは思わなかったが、そのおかげで毎日が刺激的になってきた。
工房と自宅との往復の生活が、嫌ではなかったが、この年で老後の生活まで見通せてしまうのは、なんだかつまらなかったのだ。
旦那が地方に修行中という事だけでも、もう十分刺激的な毎日だ。
「み……、みじゅ……」
意識を取り戻したエイダの声で、我に返って水に浸した布をエイダの口元に持っていった。
今はこの大切な娘を助ける事に集中しようと、ペラジーは思った。
「若様はご在宅ではないわ。ましてや、平民ごときが当日屋敷にやって来て、若様にお会いできると思うのが無礼な事でしょう!」
急ぐあまりマダムジラーも通さず、直接侯爵邸に来てしまったが、良く考えれば当たり前だった。
「失礼しました」
肩を下げてとぼとぼと、引きさがっていくリリアスの背に、
「若様の手が付いたからって、調子に乗るんじゃないわよ!」
と、声がかかった。
思わず振り返ると、対応した侍女の後ろのドアに、数人の侍女がいて、憎々しげにリリアスを睨んでいた。
――誤解です――
と、言えればいいのだが、あの状況が状況だったので、何もなかったというのも無理な話だったろう。
これからも、姫のドレスの事で侯爵邸に出入りするので、侍女達の印象が悪い事で、仕事をしていくのに差し障りがなければいいがと、ため息をつきたくなった。
見上げれば日は頭の上にあって、朝ペラジーの家から連絡があって、朝食も食べず飛び出してから、水の一杯も飲んでいなかった。
急にお腹が鳴った。
夕べも吐き気と、腹痛とで夕食は抜いていたから、だんだん力が入らなくなってきた。
門を出たところで、石段に腰掛け少し休憩をとろうとした。
これから工房に戻ってマダムに事情を話し、侯爵家に伺いを立てて、それで若君の在宅の時に話ができるのだろう。
そんな事をしている間に、姫になにかあったら後悔してもしきれない。
――はあ―――
と、声を上げて座り込んだ膝に顔をうずめた。
少しの間、うとうとしたのだろう、肩を揺さぶられて、目が覚めた。
見上げれば、レキュアが心配そうにのぞきこんでいた。
「こんな所でどうしたのです? 具合でもわるいのですか?」
寝ていたせいでぼーっとして、反応ができなかった。首を振ったが、くらくらして、後ろにひっくり返りそうになった。
慌てて押さえたレキュアに、
「レキュア、その女を馬車に乗せろ」
と、ラウーシュの声がかかった。
――若様だ……――
と、思った瞬間に、リリアスは気を失った。
――グルグルグルグル――
犬がうなっている。犬は苦手だ。子供の頃、野犬に追われて転んで痛い目にあった。
それから、大人しいと言われる犬でも、側に行けなくなった。
「あっち行け」
手を振ると犬に当たって、大きな音がした。
「痛っ!」
――犬がしゃべった――
リリアスは驚いて、目を開いた。
それは見たことのある、天井だった。
横を見ると、若君が頬を押さえてしゃがんでいる。
「女、お前起きていただろう!」
頬をさすりながら、立ち上がって向かいのソファーに腰掛けた。
「違います。犬のうなり声がしたから、追い払ったんです」
部屋の中を見渡したが、どこにも犬はいなかった。レキュアが、腹を抱えて笑っている。
部屋の中は、いい匂いがしていて、リリアスの腹が――グググッ――となった。
「あれ? 犬は?」
「お前の腹の中に逃げ込んだんだろうさ」
ラウーシュが顎をしゃくると、レキュアがリリアスの目の前に、料理が乗った皿を差し出した。
「お腹が減っているんでしょう? お好きな物をお取りなさい」
思わず唾が溢れて、飲み込んだ。見たこともない肉料理が湯気を上げている。
レキュアを見ると、――さあどうぞ――と、ばかりにうなずく。
手を伸ばそうとして、リリアスは、ハッとして持っていたはずの自分のバッグを探し、足元にあったバッグから、ハンカチを取り出した。
「行儀がいいが、ナプキンならここにあるのを使うがいい、貴族的には、失礼な行為だぞ」
ラウーシュが文句を言ったが、リリアスは構わず、膝の上でハンカチを広げた。
そこには昨日王宮で貰った、焼き菓子があった。




