第15話
勢いをつけてキスをしようと顔を近づけた若君は、力を抜き手の平で、自分の上着をなでているリリアスを思わず見てしまった。
「何をしている?」
リリアスは困惑気味の若君に、
「手触りの良い生地だなあと……」
「お前は、おぼこなのではないのか?」
「そうですよ」
若君の身体が上がり、じっと見つめる顔が不審な表情になった。急にリリアスの言葉使いが変わったからだ。
「お前は私に惚れていたのか? 抵抗しないという事は、私とこうなるのを望んでいたんだな?」
屋敷にいる女中達は、表立ってはいないが、自分や父親の手が付くのを待っているようで、かえって興ざめだった。
リリアスのような平民の働く女は、自分に貴族の手が伸びるとは思っていないだろうと思っていたのだが、反応が意外であった。
「……」
黙るリリアスの瞳は、貴族の若君に手を出されて興奮しているようには見えない。
深い緑の目は冷静で、最初の動揺を押さえこんで、ひどく冷徹でさえあった。
「何か言え!」
「若様が本気で手を出すつもりなら、私がいくら嫌がっても、無理なんでしょう? 抵抗するだけ、無駄ってものです」
「嫌なのか?」
「はっきりとは言えません。不敬になりますからね」
「何が嫌だ? 女中達は喜ぶはずだ」
リリアスの蔑むような視線に、
「実際にはやっていない。だが皆それを望んでいるはずだ」
「若様……。平民の私が、貴方とそういう関係になると、いったいどうなりますか?」
「それは……、お前は私に囲われて、宮廷に出入りするとしても、箔がついて仕事をするにも、色々都合がいいのではないか?」
「……、違いますよ。平民からは――貴族の慰み者になった――、貴族様からは――平民のくせに、侯爵家の若君をたぶらかした――と、言われるのです。出世したなんて、誰がいうものですか。まして子供でもできようものなら、正室様には睨まれ、後継者にもなれない子供は、変なプライドだけ付いて、扱いに困るんです」
若君は呆れた顔をして、ソファーの上に座り込んだ。
「それはお前の妄想だろう?」
「本当に平民に手を出した事がないのですか? 貴族でなくても、大商人の手が付いて、幼子を抱いて苦労している女の人は、一杯います。まして孤児の私に子供ができたら、仕事もできずに、野垂れ死にですよ」
ソファーに寝そべったままのリリアスは、天井の飾りに陽光が反射して、キラキラ光っているのを見ていた。
「そんな事、坊ちゃんには、関係ない事ですからね。お好きなようにどうぞ」
リリアスのぐったりと力を抜いて、あきらめたような姿に若君は憮然とした。
「私は子ができたら、粗略には扱わないぞ」
「あの母上の前で、そう言えるんですね?」
「お前……、今までの態度と、違いすぎないか?」
「窮鼠猫をかむっていうでしょう? 生きていくのに必死な平民は、土壇場になったら度胸がすわるんですよ」
「平民がそんなに物を考えているとは、思わなかった」
リリアスはゆっくりと起き上がり、乱れた胸の紐を直し髪に手をやった。
「若様は平民の事など考えた事もないでしょう? 同じ人間で泣いたり笑ったりする者なんです」
若君に、その気がすっかり消えてしまったのを見て立ち上がった。
「若様は私を、どうするつもりなのですか?」
「別に……、ちょっと戯れてみようと思っただけだ……レキュア! レキュア!」
表のドアがすぐに開き、従者のレキュアが入って来て、立っているリリアスとソファーに座っている若君を視線に入れてから頭を下げ、
「お帰りでございますか?」
と、少し口元に微笑を浮かべて、聞いた。
「ああ、送ってやれ」
レキュアの物言いたげな目から、顔をそむけて若君は立ち上がった。
レキュアは、後ろを歩く娘の落ち着いた態度に驚いていた。
自分が部屋を辞してから、呼ばれるまですぐだったので、若君は欲望を満たす事はなかったのだろう。
自分の望むことがなされなかったのに、部屋に入った時、若君は不満気であったが怒ってはいなかった。
我が儘に育った若君が、思い通りにならなかった娘に寛容だったのが、不思議であった。
真っ赤な髪に深い緑の目の娘は、見た目と違いおとなしく従順だと思っていたのだが、実際は違ったようだ。
始めから終わりまで、怒鳴り声や叫び声は聞こえなかった。
ただぼそぼそと、会話が続いていた。
この娘は、貴族の嫡男に向かって話をし、そして自分の身を守ったのだ。
レキュアはこの館の不遜で気位が高く、自分本位の女達が嫌いだった。
そして、そういう女ばかり見て育ってきたせいで、女には不信感しかなかった。
急にこの屋敷に出入りするようになった娘は、平民でありながら貴族の女達よりずっと良い意味で誇り高く、自分の足で立っている。
なんと小気味良い娘だろう。
馬車まで連れて歩く間の、楽しい気持ちは今までにないものであった。
馬車に乗り込んだ娘に、
「娘……、お前の名誉は私が守ってやろう」
と、言わなくても良い事を口走ってしまった。
――え?――
と、口に上った声はすぐに、馬車と共に消えていった。
マダムジラーとペラジーと一緒に歩く大理石の廊下は、いつ滑って転んでもおかしくないほどつるつるしていた。
侯爵の屋敷に行くのなど、今思えば楽なほうだった。
執事の先導で王宮の建物の前の方の部屋に、案内されている。
さすがに、後宮の奥の離宮までは行けなかったようで、姫君が王宮まで出てくる事になったらしい。
――うっ――
何もない床で、つま先がひっかかり、前のめりになってしまい、慌ててペラジーの腕につかまった。
「大丈夫かい?」
小さな声でペラジーが確かめてきた。
「うん」
喉の奥からくぐもった声が出て、冷や汗がどっと出た。
高い、見上げても体を反らさなければならないほど高い天井は、教会のように天国の絵が描かれていて、貴族はいつも天使に見守られているのだと感心した。
王宮は、この世の場所とは思えなかった。
平民の縫い子が通れる廊下でさえこの豪華さなのだ、王族がいる奥にある部屋は、見たらきっと目が潰れてしまうのだろう。
その部屋の隅には大きな机が置かれ、その上に山のように反物が積まれていた。本当はそのような扱いなどできない布なのだが、それが無造作に置かれているのは王宮だからなのだろう。
商人はこれだけの生地を、どこから集めてきたのだろう。自分達同様に、部屋の壁に沿って立っている。
部屋の真ん中にはソファーと、小テーブルとフットマンが置かれ、これからやって来る主が、子供なのだと知らされる。
この日に備えて、ペラジーとリリアスは、下女を王女に見立て、素早く採寸する練習をしてきた。
子供の上に高貴な方なので、なるべく負担をかけたくなかったからだ。
いつもはペラジーにいいようにからかわれ、扱われている下女は、――姫様――呼ばわりに、とても気持ち良さげだった。
ペラジーもリリアスも、のりのりで下女をしばらく、お姫様あつかいしたので、他の娘達も採寸のお姫様役をやりたいと、言い出したものだった。
十三歳の姫君の代役に、二十歳を過ぎた娘がなれる訳がないと、ペラジーにげんこつをくらっていた。
ここまでくる大騒動を思い出していると、音もなく扉が開き、――姫君か――と思いきや、かなり背の高い、細身の年配の男性が入って来た。
銀色の細身のジュストコールは、背の高さに合わせ一般の丈より長めで、後ろを振り返った時にフワッとひるがえった裾は、多目にフレアーがとられていて、優雅な動きだった。
その男性の後ろから、侯爵夫人が息子のラウーシュの腕につかまり、エスコートされて入ってきた。
「皆の者良く集まった」
大きくはなくがさついてはいるが、室内がシンとしているので、良く通る威厳のある声だった。
一斉に皆の頭が下げられた。




