第144話
オテロとレキュアは、逃げ出したかった。
これ程無粋な事が、あるだろうか。
互いの主人と主人の息女が、愛の告白である。
二人とも大きな体を壁にねじ込む様に下がり、息をするのも細く静かにしていた。
もっとも今の二人には、他の人は目に付かないかもしれなかったが。
突然のリリアスの告白に、ラウーシュは体が固まり目だけが彼女を見ていた。
リリアスはラウーシュの手を取ると、それが少し荒れているのに気が付いた。
侯爵邸で洋服だけを触っているだけだったら、こうはならないはずだった。
「手が……」
リリアスがラウーシュの手を見ながらそっと撫でると、反対にラウーシュが握り返してきた。
「この頃書類ばかり触っているから手の油を取られて、乾いているのです。遊んでばかりいた頃には、考えられない事ですね」
二人とも救護所で受け渡しをした、クリームを思い出していた。
あの頃は必死で、いつ終わるともしれない疫病との戦いに疲弊していたはずなのに、気力があったのは互いに頑張っていると、分かっていたからなのかもしれない。
「貴女が並みの貴族の令嬢だとは思っていませんでしたけれど、まさか執務室で――好きだ――と言われるとは思っていませんでしたよ」
そう言うラウーシュの顔は、とろける様な満面の笑みで、見ていたレキュアが顔を覆ってしまいたくなるほどの甘い物だった。人は恋をすると、こんなに変わる物かと身をもって知るのだった。
リリアスは破顔して、
「ぺラジーと話していて、どうして貴方の善行は素直に受け入れられるのに、好意が胸に響かないのかと考えていたら、私が貴方に不公平な気持ちを持っていた事に気付いたのです」
ラウーシュの顔は一瞬曇ったが、リリアスの神の様なお告げの言葉は効力を失っていない。
「それで、貴女は……私を……」
ラウーシュが覗き込むようにリリアスの顔に近づくと、リリアスはなんの疑問も持たず、
「は、はい、ラウーシュ様がずっと私に示して下さっていた行為や言葉が、本当に私の事を考えて下さっていたのだと、分かってしまってそれで……私……」
見上げていると、段々ラウーシュの顔が覆いかぶさって来て、ラウーシュの鼻が高いなと思っていると、
「目を閉じるのですよ……」
ラウーシュの暖かい息が頬にかかり、薄青い瞳を見ているうちにリリアスは目を閉じた。
唇にラウーシュの柔らかい唇が押し付けられると同時に、優しい動きの腕がリリアスの背中に添えられ、キュッと体が密着すると体は力を失って、全てがラウーシュの体に抱き留められた。
森の様な香水の匂いと、手が触れている絹の柔らかさと、いつまでも離れない唇の熱さが、リリアスを別の世界に連れて行く。
リリアスの足が自分の体を支えきれなくなった頃、ラウーシュがやっと唇を離し背中に当てていた手を腰に置き、動けないリリアスの体を抱き上げクルクルとダンスを踊るように執務室の中を回った。
恥ずかしさから顔を見られなかったリリアスも、ラウーシュの子供の様な行動に声を上げた。
「ラウーシュ様! 危ないですわ!」
執務室の中を、広がるリリアスのドレスを足で捌きながら、ラウーシュは鼻歌を歌っているのではないかと思う程、陽気に笑って踊り回った。
秋の陽が傾き部屋の中は暗くなっている。
部屋の真ん中でリリアスを下ろしたラウーシュは、片膝を付いて白い手袋をした手を取り両手で握った。
「リリアージュ、私と結婚して下さい。私には戦う剣は有りませんが、それに代わる……まあ、何かはあるでしょう。貴女となら楽しい人生を、見つける事ができるのです。貴女以外の女性では、決してそれは望めません。貴女と出会ってから、私はそれまでの人生が、灰色だったと言い切れます。どうか、どうか、私の妻になって下さい」
心から乞い願うラウーシュの言葉は、聞いているオテロとレキュアの心を揺さぶった。
大貴族の御曹司が膝を付き頭を下げ、愛する娘と幸せになりたいと願っている姿は、家同士の立場や政略を持って決まる婚姻が当たり前なこの世に、一石を投じる程の衝撃的で魅力ある物であった。
秋の気配の部屋で、二人のシルエットは動くことなく絵の様に映し出され、その行方を見守るオテロ達の緊張は頂点に達していた。
ごくりと喉がなったのは、どちらの方か。
暗い部屋の中でもラウーシュの白い顔は、はっきりと見る事が出来た。
綺麗な青い瞳は灰色にしか見えず、緊張した顔には全てをリリアスに投げ打っている気持ちが浮かんでいた。
自分が王女でも、平民として育った貴族の娘でも、裁縫師でも、ラウーシュは全力で自分に向き合ってくれた。そんな人に、これから出会えるとは思えなかった。
表向きは笑顔で、狙っているのは自分の王女としての肩書や、侯爵令嬢という地位だけの貴族の男達の煩かった事。
リリアスは膝を付いて、真剣な顔を見上げた。
「私の考え方が平民の物でも、構いませんか? 行動も、きっと侯爵夫人には相応しくないと思いますが、それを許して下さいますか? それに、私を裏切ったら、それ相応の事をされると覚悟して頂けますね?」
この段階で何を言われても、ラウーシュは要求を呑むしかなかった。
「貴女になら、何をされても構いませんよ」
ニコニコ笑うラウーシュは、リリアスを抱き寄せた。
「ラウーシュ様、まだ返事をしていません!」
「では、して下さい」
リリアスを抱き締めたまま、ラウーシュが待っている。
ラウーシュの顎が、リリアスの肩に乗って少し痛い。
「ラウーシュ様……私は、貴方と結婚したいです」
ギュッと力強く抱き締められ、頭の天辺に口づけされた。
「では、これからブリニャク侯爵閣下に、許可を頂きに参りましょう」
リリアスは頭を振って、それを断わった。
「父には、今晩話します。突然ラウーシュ様がいらしたら、父も驚きますわ」
誰もがそうとは思っていなかったが、婚姻の流れから言えばそれが正当な物なので、ラウーシュは残念ながら日を改めて申し込みに行くと言う事になった。
急に執務室の扉が開き、秘書のカノーが、火を持った侍女と共に入って来た。
「失礼致します、申し訳ございません。灯りをお持ち致しました」
二人を遠回りして、執務机の上に書類を置いた。
現実に戻った二人は立ち上がり、服の埃を払い互いの心を確認し合った。
「では、また明日」
「はい、お待ちしております」
名残惜し気に手を離し、扉を開けてくれているオテロの横を通りリリアスは、執務室を出て行った。
その後ろ姿を見ていたラウーシュは、はっとして後を付いて行こうとして、
「見送りはここで大丈夫です。オテロ殿が付いているのですから。それより仕事を終わらせないと、明日の時間が取れませんが?」
厳しい現実に、夢心地だったラウーシュは、仄かに体に残るリリアスの残り香を感じ、仕事の頭に切り替えるのが大変だった。




