第143話
王宮の門に馬車が止まり、中から大きな男が降りてきたので、新米の衛兵はぎょっとして体を固くした。
男はどんどん近づいて衛兵の前に立った。
新米衛兵の後ろに居るベテラン衛兵はその男が誰なのか知っていて、わざと対応を新米に任せた。
何事も経験である。
「ブリニャク侯爵令嬢が、宰相閣下に面会を申し込みたい。お取次ぎを願いたい」
太く大きな声に新米がびくびくしながら、
「え? ブリニャク侯爵?」
と口で名前を反芻するが、侯爵という地位がちらついて名前が頭に入ってこない。
「ブリニャク侯爵令嬢です、宜しく」
オテロはそう言ったきり、黙って立っている。衛兵はいつもの手順を思い出し、
「少々お待ちを、只今連絡致します……」
紙に名前を書き面会先に持って行くようにと、使いの者に手渡した。
使いの者がすっ飛んで行くと、オテロは馬車を移動させて王宮の入り口に移動できるようにしたが、馬車の扉が開いた。
「お嬢様、お待ち下さい。ここでは降りられません」
中で何か話してから、馬車から黄色の絹で出来た靴が現れてその上には白い足がドレスの裾から見えた。
オテロが慌てて踏み台を出して置き、リリアスの手を取って降ろした。
「まだ許可の連絡が来ておりませんよ」
「中で待っているのは、落ち着かないの。ここで待ってます」
侯爵令嬢が、衛兵の詰所前で立って待っているなど前代未聞だが、奥に居た古参の衛兵が出て来てオテロに敬礼した。
「オテロ殿にお会いできるとは光栄であります。むさ苦しい所でありますが、中でお待ち頂けますか?」
リリアスをこのまま立たせているのは体裁が悪いので、中に入って貰おうとした時、王宮の入り口から走ってくる人物が見えた。
でこぼこしている石畳の上をヒールがある靴で、ラウーシュが服の裾を翻し走っている。その後ろにはレキュアもいて、追いかけてきたようだった。
――顔が必死だなあ――
笑う事なく二人を待っていたオテロは、所在なく立っているリリアスに声を掛けた。
「宰相殿ですよ」
驚いて王宮の方を見ると、リリアスは走って来るラウーシュを見て手を胸の辺りに上げて振った。
それを認めたラウーシュは、気が抜けたように足の運びを緩め衣服の乱れを整えながら、リリアスの傍にやって来た。
衛兵達は突然現れた宰相に、慌てて直立不動になり敬礼で迎えた。
「私に面会と言われたので、何か有ったのかと急いで来てみれば……」
普段通りのリリアスの姿に、息を切らせながら顔を見下ろした。
ラウーシュの言葉に、リリアスも突然面会したいと言って来たら驚くだろうなと、今更気が付いたようで申し訳ない顔をした。
「いえいえ、何時いらしても構わないのです。宰相になってから一度も訪問頂いた事が無かったので、驚いただけです」
ラウーシュが笑顔になって、リリアスに腕を差し出した。
申し訳なさそうにリリアスが腕に掴まり、ゆっくりと王宮に向かって行った。
その後をオテロとレキュアが付いて行った。
「リリアージュ嬢が御面会、という言葉で持っていたペンを投げ飛ばして駆けだしたんですよ。今日は仕事が立て込んでいて、休憩のお茶会に行けなかったので、機嫌が悪かったのです」
――苦労しているんですよ――と言わんばかりのレキュアに、オテロも――あんたも大変だな――と言う顔で応えた。
「お前も覚えて置け、あの方がブリニャク侯爵の従僕だった、オテロ殿だ」
新米衛兵は驚きながら、歩き去るオテロを見て、声を上げた。
「あの人が、赤鬼の腰巾着と呼ばれた、オテロ殿ですか!!」
衛兵になるぐらいだから、国の英雄のブリニャク侯爵とその従僕のオテロの名前は知っていた。
まさかここで会う事が出来るとは、思っても居なかった。
何故ブリニャク侯爵と聞いて、直ぐに分からなかったのかと、自分の頬を叩いた。
「お、俺、オテロ殿と口を利きました!」
顔を赤くして興奮している衛兵は、一緒に歩くレキュアの倍近くある幅の体のオテロに、王宮に入って行くまで見とれていた。
****
侍女が紅茶を淹れて置いていき人払いがされたが、勿論オテロとレキュアは部屋の端に立っている。
一人掛けの豪華な布張りの椅子に腰かけて、先程まで菓子も紅茶も飲んでいたリリアスは飲む気にならず、じっと湯気が上がるカップを見ていた。
ラウーシュはこれ幸いと休憩に入り、出された紅茶と焼き菓子を味わっていた。
あえてリリアスには、何も聞かなかった。
自分が話しかければ、リリアスが本当に話したい事が出てこないだろうと思ったからだ。
あえて黙って休憩しながら、リリアスの様子を伺っていた。
レキュアとオテロは、空気を呼んで気配を消しているのだが、話を聞く気でいるのは分かっている。
いつもなら間が空かない様に、取り留めのない話をして場を繋いでくれるラウーシュが口を開かず菓子ばかり食べているので、リリアスはイラっとして出された菓子に手を出した。
三つ目の菓子に手を出した時、これ以上黙っていられなくてリリアスがとうとう口を開いた。
「今日お店にいらっしゃらなかったのは、お忙しいからなのでしょう? それなのに、突然押し掛けてしまって申し訳ありませんでした」
リリアスが姿勢よくソファーに座り直し、ラウーシュの顔を見て頭を下げたが、彼は只笑って頭を傾けただけだった。
それ以上言う事が、無くなってしまった。
――コチコチ――
時計の音だけが、聞こえる。
静かな部屋に響く時計の音に、リリアスはある日の情景が浮かんできた。
「あの日……明るい部屋で、お衣装のスケッチを描いていたら、今の様に時計の音だけが聞こえていました。あれはもう、随分前の事の様に思えます」
ラウーシュは何の事かと、頭を捻った。
「ラウーシュ様のお衣装を、ビーズの付いたお洋服を、見せて頂いてスケッチを描かせて頂いた日です。あの部屋には大きな置時計が有って、針が動く音が聞こえていました」
――ああ――
ラウーシュも思い出したのか、頷いてソファーから体を乗り出した。
「リリアージュ様に初めてお会いした次の日でしたか、私は居ませんでしたが他国で作らせたビーズが付いた服を、お見せするために用意させましたね」
「あのお部屋は陽の光が差し込んでビーズに当たり、綺麗な色の渦が部屋の壁に映って幻の様に美しかったのです。ラウーシュ様は、何故只のお針子だった私に、お衣装を見せてやろうとお思いになったのですか?」
ラウーシュは機嫌よくリリアスの話を聞いていたが、そこでピタリと動きを止めた。
――どうして衣装を平民の針子に見せようとしたのか――
それはビーズに関心を持った娘に、美しい衣装を見せて勉強させてやりたかったのと、あの日幽鬼の様に自分に近づいて来た娘に怯えて、腹を蹴って払い除けた事への謝罪の気持ちが有ったからだった。
オテロも居て、その話をする訳にもいかず、
「ビーズに関心を持って下さったリリアージュ様に、勉強の機会を与えたかったからですかね」
内心冷や汗を掻きながら、一つだけ理由を告げた。
「大変勉強になりましたわ。あの後侯爵夫人のドレスを作るのに、とても参考になりましたもの。あの頃から私達は、洋服作りを介して色々縁がございましたね……」
リリアスは、思い出す色々な事が随分前の様に感じたが、その中にはいつもラウーシュが居たのだと改めて感慨深く思うのだった。
「初めは色々ございましたけど……」
言葉を止めてラウーシュを見ると、眉と口を曲げて情けない顔をしていた。
あの頃の事を反省しているのだろうかと、思わせる表情だった。
「ぺラジーの子供が毒で危なかった時に、助けて下さったのも、疫病が流行った時にご自分の身も顧みないで平民を助けて下さったのも、ラウーシュ様でしたわ。私は感謝は致しましたが、貴族の若様だからという理由で、やるのは当然なのだと思っていた気持ちがどこかに有ったのです。……今思えば、不遜な気持ちでしたわ」
「そんな事はない! 貴女こそ、自分の事など考えず皆を助けようと、毎日病人と接していたではありませんか。貴族が民を助けるのは、当たり前という考えは、不遜な事ではありません。貴族の義務なのです」
リリアスは、初めの頃のラウーシュとは顔付きが全然違っていると思った。 いつの間に彼は成長し、貴族としての矜持や強かさを持つようになったのだろう。
リリアスは頭を横に振った。
「貴方は貴族で、私は平民、と分けて考えていました。ですから貴方に、私は何も伝えて来なかった。私こそ貴族の貴方を、差別していたのです」
ラウーシュは、少し悲しい顔をした。ずっとリリアスが自分の気持ちに対して、何も応えようとしなかったのは、貴族を恐れて居たのでは無く、自分とは違う者として、始めから排除していたと知ったからだ。
リリアスは、立ち上がった。
ラウーシュも、立ち上がり真剣な表情のリリアスを見た。
「私は、自分の気持ちをちゃんと見ました。傍にいて下さって、色々な感情を見せて下さったラウーシュ様のお気持ちは、いつも真摯で誠意があるものでした。私が、只見ない振りをしていただけなのです」
ラウーシュはリリアスが何を言い出すのか、分からなかった。
いつも自分の気持ちを言わない彼女が、今ここで何を言いたいのか分からなかった。
「私は……ラウーシュ様が……好きです」
緑の美しい瞳が、じっとラウーシュの青い目を見つめていた。




