第126話
一旦落ち着こうと紅茶が入れ直され、焼き菓子や果物が供されて口にすると、緊張した気持ちや疲れた体が楽になった。
ロカンクールはリリアスの隣に座り直し、愛おしいと言う気持ちを込めた視線を向けていた。
侍女が菓子を取り分けたりしてくれるが、リリアスからすると自分の祖父の年であるロカンクールに、菓子を選んだり果物を小さく切り分けたりと世話を焼いていた。
皿を手ずから渡すと――もったいない――と一々頭を下げてありがたがった。
「ロカンクール様は、今はどのようにお暮しなのですか?」
彼は――はっ――と頭を下げ、
「ロカンクールと、呼び捨てにして下さいませ。我々貴族は領地を安堵されましたので、今は楽隠居で過ごしております」
デフレイタス侯爵とラウーシュは、――楽隠居が、リリアスが名乗り出た途端に会いに来るという、行動力を持つはずが無い――と思っていた。よほどの情報網がないと、数週間でリリアスの事を知る事が出来るはずはないのだ。
「姫様のお母上の事は生まれた時から、存じております。ぜひぜひ国元に参られて亡き前王の墓などを御参りして頂ければ、私もこの年まで生きていた甲斐があると言う物でございます」
ロカンクールは好々爺な顔で、リリアスに訴えている。
ラウーシュが父の耳元に口を近づけ、ひっそりと話した。
「父上、呆れて物が言えませんね。いかにも耄碌した年寄りを謳っていながら、リリアージュ様に願っている事は、えげつない事ですよ」
「あの御仁は昔から、あの調子だ。年を取ったと言いながら、相手を油断させるのが滅法上手いのだ。リリアージュ嬢が騙されないと良いが……」
リリアスは老人に対応するように、その手を取り柔らかく握り込み撫でた。
「ロカンクール様……母が生まれた土地には行ってみたいですが、それよりも母の事を教えて頂きたいですわ」
リリアスの飾り気のない話し方や、真摯な表情にロカンクールは、新鮮な物を感じた。国の宮廷や他国の貴族には感じられない、温かみや誠実さがありロカンクールの心を震わせた。
「戦後に事情聴取された時にもお話し申したが、我が国の混乱がすべての原因だったと言うしか有りませんな。北の国寄りの貴族、フレイユ国寄りの貴族、中立者、そして謀反人……。あの頃の事は今でも夢に見申す。恐ろしい混乱だった。宰相の私の思う事が、何一つ叶えられなかった。それでは国は立ち行きませんよ」
「結局最後は北の国が、後ろで糸を引いていたのですな?」
「そうでしょうな。我が国がこちらと開戦してから、フレイユ国を破りそうになったら、北の国も出兵し二か国でフレイユ国を占領しようと思っていたのでしょう。だが……貴方、ブリニャク侯爵が開戦と同時に鬼神の様に我が国に攻め入って来て、イズトゥーリス軍を壊滅状態にしてしまった」
ラウーシュは、この話を聞いてニコニコしている。フレイユ国の歴史上直近の戦争で、青少年の心をくすぐる話であった。
「あの戦いが中盤……いや、初戦の終わりごろまで互角であったなら、北の国は参戦したでしょうな。そうすれば勝利は、こちらに転がっていたかもしれない」
今や属国となってしまった自国の負け戦を、――たら、れば――で語りながら、まだ悔しさをにじませる彼の口調だった。
「それに貴族の謀反が、後押しをしてくれおった。なにも戦争の真っ最中に、謀反を起こさなくとも良いとは思わないか?」
戦争の混乱時だから、謀反の成功率も上がると思うのだが、老人となったロカンクールは、愚痴が止まらなかった。
ロカンクールは戦争中はほぼ軟禁状態で、情報が聞こえてくるだけで実際には何もすることが出来ないまま、戦争が終わってしまった。
宰相の地位にありながら罪を一等減じられたのは、その状況であったからだったのだ。
しかしその後長く禁固刑に服し、その時に足を悪くし障害が残ってしまった。
リリアスが母の子供の頃の話を聞いているうちに、時間は瞬く間に過ぎ陽が傾いてきた。
「長居をしてしまいました。私はそろそろお暇を致します」
ロカンクールが立ち上がり、ブリニャク侯爵も送る為に立ったのだが、リリアスの顔がまだ話を聞いていたいと言う顔をしているので、足の悪い老人を宿に返すのも気の毒かと思い、ここに残るようにと提案した。
「間もなく、夕食の時間にもなります。貴殿に食事も出さずに帰したと噂されれば、私の恥。今宵はこちらに泊まられて、昔話を聞かせて頂きたいのです。娘もまだまだ母の若き頃の話を、知りたいと思っているでしょうから」
リリアスが、父の言葉を聞いてにっこりと笑った。
「ロカンクール様、是非お泊りになられて、お話を聞かせて下さい。お願い致します」
リリアスの世辞ではない心からの願いに、ロカンクールも躊躇いながらも承知した。
「それではお部屋をご用意致しますので、少々お待ち下さいませ」
執事が部屋を出ようとすると、
「デフレイタス侯爵達の部屋も頼む」
と、侯爵がついでの様に依頼した。
「私は帰るぞ」
ただ座って話を聞いているだけでも、疲れてしまったデフレイタス侯爵は帰るつもりだった。
「ああ、そのつもりだったが、そなたの顔色が良くないので、暫く休んでから帰るとしたらどうだ? その体調で馬車に揺られたら、もっと、具合が悪くはならないか?」
ラウーシュも父の顔を見ると、言われるとおり顔色が白かった。
屋敷に帰ってから寝かせるのも良いが、急ぐ訳でもないので無理をさせずに横になって調子を戻し、それから帰るのでも良いかと思った。
「父上そうなさった方が、宜しいのでは?」
元とは言え宰相だった人が来ていて、さっさと帰るのは気が引けていたので、デフレイタス侯爵も承知した。
「調子が戻れば、ご一緒に夕食を共にしたいと思っております」
「おお、それは嬉しい事だ」
ロカンクールも、デフレイタス侯爵とは昔からの知り合いだから、夕食を供にすれば話題には事欠かない。
デフレイタス侯爵とロカンクールは執事の案内で、客室に案内されて行った。
「侯爵様は、まだお体が元に戻られないのですか?」
デフレイタス侯爵の顔色を見て、リリアスも心配げであった。
「王太子殿下とは年が違いますから、弱った体はなかなか戻りませんね。それに食が元々細いので、体力が付かないのです」
――それでは夕食まで、庭に散歩にでも行きましょうか――と、ラウーシュが誘うのでせっかく着たドレスをまだ脱ぎたくなかったリリアスも、時間を潰すにもちょど良いと庭に向かった。
広大な侯爵の庭は芝生ばかりで、花壇などはほんの少ししか作られていない。花に関心のある女性がいなかったのが、原因であった。
「散歩といっても、あまりお見せする物がありません。これだけ広いのですから、畑を作って芋や南瓜を作れば随分と助かると思うのですが、貴族の庭では畑は作らないんですってね?」
無邪気に農業をしたらいいのにと提案するリリアスに、後ろを付いてくるレキュアとオテロも苦笑いだった。
準騎士の家の出のオテロでさえ、庭で作物は作らなかった。
広い土地があるのだから、食べ物を作れば良いのにという平民の考え方を、未だ持っているリリアスが好ましかった。
女性はその生活に染まり、その身分らしい人物になっていく、順応力が高い特徴があると思う。
平民でも貴族の囲い者になれば贅沢な生活に慣れ、貴族の愛妾に相応しい態度になっていくのだが、リリアスは侯爵息女となっても本来の慎ましく賢明で驕らない性格そのままだった。
だから突然現れたリリアスを、ブリニャク侯爵家の使用人は侮らずまるで自分の娘の様に迎え入れたのかもしれない。
「あ、あちらに噴水があります。庭に噴水があるなんて、凄いですよね」
東屋の近くの木陰に作られた小さな噴水は、夏の暑い時に涼む為に作られた物であったが、今は使用人達が休む為に時々来るぐらいで、客を案内するには面白みがない所であった。
それでも王都の大きな公園でしか噴水を見た事が無かったリリアスは、庭を探検して日に輝く噴水を見つけた時は歓声を上げたのだった。
「ラウーシュ様の所にも噴水ありますか?」
あどけなく見えるリリアスの顔に、ラウーシュは思わずにんまりと顔を崩して笑い、大人の男を演じる事ができなくなっていた。
太陽が傾いてもこの噴水には陽の光が入ってくるように木が植えられており、ピチャピチャと水音をさせる水飛沫に光が当たり、綺麗だった。
噴水のベンチに座ろうかと迷っているリリアスに、ラウーシュがハンカチを出して置こうとしていた。
邪魔をするのも野暮かとレキュアとオテロは、噴水を挟んだベンチの反対側に立って二人の様子を見ない様にしながら見ていた。
「子供の付き合いのようで、こっちが恥ずかしくなる……」
「私は若様があの様な方だとは、思いもしませんでしたよ。人って出会う方によって変わる者なのですねえ」
「確かに」
鼻先で笑って、二人を見ていた。
リリアスは自分が着ているドレスの刺繍を指さし、ラウーシュに説明している。ラウーシュも顔を寄せて細かい刺繍を見て、嬉しそうにリリアスの顔を覗き込んでいる。
そのうちにドレス全体の刺繍の話になったらしく、段々とリリアスがドレスの裾を持ち上げ、膝の上に置き指を滑らしながら笑っている。
ペチコートが丸見えになって、レキュアもオテロも気が気ではなくなって視線を逸らしてしまった。
その時、
――キ……ァ!!――
と、リリアスの声が上がった。
はっとして、二人が正面を見ると、ラウーシュが男に殴られて倒れ込み、リリアスが抱きかかえられて男に林の奥に連れ去られる所であった。
二人は一気に走り出し、林の中に分け入った。
リリアスを抱いて走っているので、直ぐに追いつくだろうと思っていると、林の奥には馬がおり待っていた男が手綱を引いていた。
レキュアもオテロもその状況を見て、焦った。
馬を用意していたのは予想外で、このまま連れ去られれば追いかける事が出来ない。
二人は腰の剣を抜き、加速した。
男はリリアスを一旦下に置き馬に乗ってから、他の男達がリリアスを馬上に押し上げた。
他の男達は、剣を抜きレキュアとオテロを牽制しながら自分達も馬に乗り、走り去った。
「リリアージュ様!!」
「オテロ!」
馬の上でリリアスは振り向きながら、オテロを呼んでいる。
しかし二人に、追いかける術は無かった。
リリアスの声は、遠くに去って行ってしまった。
 




