第122話
王太子の私室は殺風景で、リリアスが知っているどの貴族の私室より質素だった。その気になれば、どんな豪華な絵画や彫刻や家具を置く事が出来るのだろうが、王太子がそれを望んでいないようだった。
バラバラに置かれた一人掛けのソファーが五、六脚あり傍に小テーブルがあり本が数冊置かれている。
どちらかと言えば室内で趣味の事をしている方が、好きなのかもしれない。
部屋の奥の壁に設えられた暖炉の上には、馬上の騎士が三人甲冑姿でこちらを向いている絵画が、掛けられている。
その暖炉も金ぴかで今は火が点けられていないが、そうなったらあの絵は煤けてしまうのではないかと、リリアスは呑気な事を考えていた。
「あの絵が気になるか?」
驚いて振り返ると王太子が、いつの間にか傍に来ていた。
「陛下とブリニャク侯爵と宰相だ」
――えっ?――
と声を上げて傍に寄って見上げると、まさに王を挟んで左に宰相右に父が並んでいた。
今と比べると父は確実に年を取っているが、王と宰相は変わりが無いように見えた。
「いつの頃なのでしょう」
「イズトゥーリスとの戦争後に、記念に描かれたのだ」
王は毅然とし、宰相はいつも通りの冷静な顔をして、父は憮然とした表情だった。
画家が三人を対照的に描いたのかもしれないが、父の顔はその頃の事情が分かれば、納得のいく表情だった。
「私が初めて経験する戦争を、戦い抜いたお三方だったので、私がその経験を忘れぬようにと部屋に掛けている。そなたの父上は、私達若者の憧れの存在なのだ」
父は顔を、面映ゆげに指でポリポリと掻いている。
「仲が、お宜しかったのですね」
誰もそれに返事はしなかった。
「まあよい、こちらに」
一つある椅子をリリアスに勧め、王太子も腰かけた。
父は軍人らしく立ったままだった。
「夜会の始めに呼び出してすまなかったが、誤解が無いように伝えたかったのだ」
「殿下の嫁取りの話ですな?」
王太子は父の言い方に苦笑しながら、頷いていた。
「ああ、その通り。突然現れた血統書付きの娘に、皆が戦々恐々としていて私への突撃が酷くなってきたのだ」
執事がシャンパンを運んできたので、皆が受け取り上に掲げた。
「平和と豊穣に」
リリアスも、その言葉に続いた。
もう少ししたら各地方から、豊作の便りが届けられるだろう。それが何よりの幸福なのを、平民のリリアスは知っている。王太子もまたそれを、一番に願ってくれているのを嬉しく思った。
「まさかここで、ブリニャク侯爵の息女が現れるなどと、誰が思っただろうな?」
シャンパンを飲んだ王太子は、笑った拍子に咽て咳き込んだ。
執事がそっと背中を撫でて、王太子を労わった。
毒殺の後遺症がまだ残っており、喉を傷めた王太子は静養中であった。
本来ならば王と共に夜会に出席し、貴族を慰撫しなければならなかったのだが、それでも王太子に批判的な評価が流れないのは、この王太子も王と同じくカリスマを持つ人だったからである。
王と同じ顔つきで髪と瞳の色も同じで、性格は大人しいが発言力はある頭の良い人であった。
誰もがこの国の安泰を、信じていた。
「娘御の事情は聞いているが、侯爵はまだ婚約などは考えておらぬのであろう?」
父は――当たり前である――と顔に出して頷いている。
「私も、そろそろ身を固めねばいけない時期にきておってな。嫁を選ぶのは難しい……」
王に似た美しい顔は少し暗い表情になり、思い悩んでいるようだった。
「何を悩まれておられるのです。殿下でしたら、より取り見取りではないですか」
リリアスはそうなのかと父を見るが、父は無表情で王太子を見ている。彼が何を言い出すのか、分からないからだった。
「その通りだ……。だがな謀反の反動で皆が、権力に擦り寄って来るようになっている。私の妻の座は、美味しいぞ?」
リリアスも父も顔色さえ変えなかったが、それが可笑しかったのか王太子は笑った。
「貴方のそういう所が、好きなのだ。こういう話をすると、貴族は必ず自分の娘を自慢してくる。もう飽き飽きしている」
心底嫌な顔だった。
「娘御はイズトゥーリスの血を引く王女であるし、我が国に取り込まれたあの国の民を従えるには、娘御との婚姻が一番国としては有益なのだろう。私もそれは、とても良い方法だと思っている。だが、貴方は反対であろうな?」
「勿論です! 殿下にも娘にも、なるべくならば心から愛する人と結ばれて欲しいと思っております」
王太子は頷き、
「であるから、娘御との婚姻はあり得ないので、安心して欲しい」
と、今夜二人を招いた理由を教えてくれた。
「そ、それは……お気遣いありがたく承ります」
「老人達や訳知り顔の者達が、娘御との婚姻の有益さを説いて、貴方達に婚姻を迫ってくるかもしれないが、私には一切その気持ちはないと覚えていて欲しい」
つまり、――リリアスを嫁に貰うつもりはないから、誰かに唆されても言う事を聞いてはいけないよ――という、王太子からの忠告であった。
「殿下はお好きな女性は、いらっしゃらないのですか?」
何か歯に物が挟まった物言いに、違和感があったリリアスは単刀直入に聞いてみた。
「こら、リリアージュ、殿下に対して失礼であるぞ」
「でも父上……、私達が殿下に妻にして下さいと願ったら、叶ってしまうからそれは止めてねって事でしょう? じゃあ叶ってしまって、困るのはどうして? 殿下も私との結婚は、とても良い条件と仰っているのによ?」
侯爵も頭を捻った。
王太子はリリアスが何を言い出すのか、面白そうに笑っている。
「つまり、他に好きな人がいるから、その人以外とは結婚出来ないって事でしょう?」
侯爵はなる程と手を打ち、王太子は額に手を当てていた。
「リリアージュ、その通りだよ。誰も私の気持ちを、分かってくれないのだ。私が恋愛をするとは、考えもしないのだ」
王太子でも恋ぐらいはすると思うのだが、恋愛結婚がまれな貴族社会ではそれは常識ではないらしい。
「身分的にご無理な方なのですか?」
王太子は頭を横に振った。
「身分的には全然問題ない方だが……」
「年上とか、未亡人とか? 若い男性が、年上の女性の魅力に誑かされて、爛れた関係に……ムッッ」
侯爵がリリアスの口を押えた。
清純なリリアスが、そんな事をどこで覚えて来たのかと慌てている。
「それ以上変な事を言うものではない!」
リリアスは頭を振り、やっと手を離して貰った。
市井では、劇や小説に良くある話である。それに実際にもある話で、近所の井戸端での噂話では、主婦の好奇心が刺激される話題でもあった。
「いやいや、侯爵……リリアージュは鋭いぞ。そうなのだ私の悩みは、年の差なのだ」
リリアスはピンと来た。
「お姫様ですね!!」
父は、――誰だそれ?――と言う顔でリリアスを見るが、姫ならば王太子の悩みも分かる気がするのだった。
父は顔は知っているかも知れないが、直接は話をした事はないだろう。
年の差で悩むとすれば、まだ成人していない姫しかいないはずだ。
暗殺事件で王太子と一緒に毒を飲まされ、危ない状態になった姫を気にかけて、その内に好意を持つというのは良くある話かもしれない。
「リリアージュ! 良く分かったな!」
椅子の背に寄りかかっていた王太子は、飛び起きて前のめりになった。
「姫様とは仲が良いのです。お衣装を一杯作りましたから、色々な話をさせて頂きました。姫様は、私達の事を――お姉さま――と言って慕って下さっていらっしゃいました」
誇らしげに胸を張ると、王太子も嬉しそうに笑っている。
「そうであったな、デフレイタス侯爵が姫の世話係をしていて、宰相が衣装を作らせるようにと命じたのであったな……。その時の針子がそなただったのか……」
王太子は目に見えない糸で、皆が繋がっている気がして、不思議な気がしていた。




