第117話
ラウーシュは、家の跡取りなどどうでも良いと思っていた。生まれた時から豊かな生活を保障され、召使に傅かれ好きなように生きてきたのだ。
自分が死んだ後の家は、親戚の者が継げば良いと考えていた。
だがリリアスを知ってしまった今、勝手気ままに生きる事ができなくなった。
侯爵家を継ぎデフレイタス侯爵になり、どうしてもリリアスを妻に迎えたかったのだ。その為になら、なんでもしてみせると思っている。
それに今の所、侯爵家を存続させるのは問題なく、父親が今まで私財を使って行ってきた織機や染料の製造、絹の生産などが順調に伸びており、何をしなくても財産が増えていくようになったのだ。
であるからラウーシュは家を継ぐ前に、難攻不落の城を攻め落とさねばならなかった。
門は硬く閉ざされ、攻め入る隙を見せてはくれないが、勝機はあると思っている。
真っ赤な髪で緑の瞳の女神は、いつもラウーシュの想像の遥か上を行き、驚かせてくれる。この人と共にいたら、どれほど楽しく心豊かな人生が歩める事だろうかと思っている。
「貴女が亡国の王女であろうと、国の英雄のご息女であろうと、誰にも渡しませんよ。貴女と私が初めて出会った時から、二人の運命の輪は回り始め、一緒に迫りくる苦難と、向き合ってきたではありませんか。それが、答えなのではありませんか?」
いたって呑気な様子だったラウーシュが、面と向かって手札を切って来たのに、リリアスは不意を突かれた。
「そ、それは……流行り病の時は、本当に助かりましたけどそれが、運命とか……私には分かりません」
顔を真っ赤にしたリリアスが顔を伏せると、ラウーシュはぎゅっと手を握り、
「貴女はいずれ侯爵家を継ぐ為に、色々な男性と会わなければならなくなりますよ。でもその中に、貴女の運命の人は居やしません。……それは、私なんですからね。好きなだけ年頃の男性と会って、話をしてみると良いでしょう、きっと分かるはずです」
ラウーシュは自信満々に笑って、リリアスのエスコートを続け玄関まで送ってきた。
言われたリリアスの方は、頭が沸騰して冷静になれなかった。
いつからかラウーシュは、リリアスに好意を持っている事を、隠さなくなっていた。
男性から言い寄られた事も、好意を持った男性もいなかったせいで、すっかり恋の仕方が分からなくなっていた。
仲の良かった男性や仕事仲間との関係は、仕事を通じての物でしかなく一度も付き合う事をしてこなかった。
それがラウーシュの話では侯爵令嬢になると、色々な男性が自分の前に現れて、婚姻を願ってくるらしい。
――とんでもない、話だわ――とリリアスは怒っている。
顔も人柄も誰一人知らないのに、侯爵令嬢だと名乗りを上げるだけで、結婚を申し込む人がいるのが信じられなかった。
――貴族って本当に、面倒くさい物だわ……
馬車の中で、別れ際のラウーシュとのやり取りを聞いていただろう、アルレットに話を振ってみた。
「お嬢様は侯爵家を継ぐ方なので、入り婿になりますわ。相手の方は侯爵家の一応当主になれるのですから、独身男性は虎視眈々でございましょうねえ」
「ラウーシュ様は、どうなの?」
リリアスの幼い疑問にアルレットは、笑った。
先ほどの熱いラウーシュの瞳を見ながら、彼の真意がわからないリリアスは、まだ恋愛に関しては幼いのだなと思う。
あれだけの恋心を見せていたラウーシュが、気の毒に思えた。
貴族の娘があの求愛をされたら、一も二も無く――結婚して下さい――と自分から申し出る事だろう。
「ラウーシュ様には、入り婿になる必要はございませんから、ブリニャク侯爵家の名を欲しいとは思ってはおられませんでしょう。それにあちらは、お金には、困っていらっしゃいませんので……」
却って嫁に貰って欲しいと,縁談が殺到していないのが不思議な事だったが、アルレットはラウーシュが、貴族女性から敬遠されているのを知らなかった。
互いに一人っ子であるが、生まれた子供が複数ならば、その一人をブリニャク家の跡継ぎに置けば良いのである。
家を連綿と繋いでいくには、それぞれの知恵が必要で、ある時は足を引っ張り、ある時は協力し合うのが貴族なのである。
もっとも貴族の風潮に染まっていないのが、ブリニャク侯爵家とデフレイタス侯爵家であり、その二家が友人同士というのも不思議な縁であった。
ラウーシュが熱い気持ちを伝えてから、数週間後リリアスは国王に謁見する事となった。
事前に筋書は出来ており、リリアスの出自に対する質疑応答も、ブリニャク侯爵と王側との間で調整がついている。
ただリリアスがブリニャク侯爵の娘であると証明され、国に認められればよいだけであった。
謁見の間に出席するのは、上級の文官や伯爵以上の貴族、武官と軍の重臣であった。
全員ブリニャク侯爵の知り合いであり、ただの娘のお披露目である。
リリアスは何着作ったか分からないドレスを眺めながら、これらが自分の物とは信じられないと思いながらも、素晴らしい出来のドレスに触れてみる。
父はジラーの所だけでは間に合わないと思ったのだろうが、他の有名な工房にも製作を頼んでいた。
それもかなり前から依頼していたようで、充分に凝った造りの物ばかりだった。
細かい気遣いが出来るような人には見えなかったので、リリアスは贅沢な事だと思いながらも父の心遣いが嬉しかった。
公式では初めて拝謁する上に、侯爵家の娘として宮廷に上がる為に今日は白いドレスに頭には真珠の髪飾りが付けられ、頭の頂点からは白いレースのベールが背に流されており、花嫁の様な姿にもにていた。
「とてもお綺麗ですわ……」
アルレットは感激して、涙ぐんでいる。
殺風景な侯爵家に突然現れた息女は美しく、気立てが良く、そしてしっかりしていたのだから、彼女に何の文句も無かった。
最後に、子羊の皮で作られた肘の上まである手袋を、侍女三人がかりで片手づつ嵌められ、リリアスの支度は完成した。
侍女達は、侯爵家として初めて女性を宮廷に送り出す支度をして、感激の極みだった。
女主人がおらず主人の世話は男性の従者たちが行い、侍女達に出番が無かったのだ。
それが一気に、目も眩むようなドレスの手入れや、着付け、髪のセットと、忙しくなり嬉しい悲鳴だった。
仕える主人のリリアスは、背が高くスタイルが良い上に美しい人で、貴族の息女特有の我が儘や意地悪な所が少しも無い人であり、働き甲斐のある仕事場であった。
しかし女主人が居なかったせいで、自分達も含め若く経験の浅い侍女ばかりで、その上人数が少なかったので、不安な事も多かった。
それを仕切っているのが、先代の侯爵夫人に仕えていたアルレットである。
「アルレット……ありがとう。こんなに素敵な姿にしてもらえて、とても嬉しいわ」
姿見から見ているリリアスの頬は上気し、嬉しいと言う感情が素直に見て取れる。
真っ白なドレスは白い糸で刺繍され、胸元には大ぶりの薔薇が数個、周りに金糸銀糸の飾りが添えられて刺されている。
胸元とその下の切り替えのスカートは供布で色がほんのすこし桃色が混じり、その両脇の袖とドレスは白地で裾には同じく、白糸、金糸、銀糸、で蕾の薔薇と蔓が刺されていた。
遠目では分からないが、近くで見ると精巧な模様で、作り手の技術の高さが窺われた。
これは驚く事にメゾンラベーエの、主任の手による物であった。
支配人マレからリリアスの事情を知り、目出度い話に損得抜きで製作してくれたのであった。
栄誉の場所に出向くには、心強いドレスだった。
王の執事長の案内で、父にエスコートされ宮殿の廊下を歩いている。
この間、この廊下で男達が剣で斬り合った事など、分からない程美しく修復されている。
リリアスが出入りしていたのは、王宮の前の方の建物や、姫の離宮と舞踏会の会場だけだったので、本当の王宮の奥深くには当然来た事が無かった。
初めてではないが、王とその他重鎮と顔を合わせるのは、体が震える程緊張するものだった。
「何、緊張する必要はないのだ。皆私の知り合いだから、親戚の小父さんやお爺ちゃんに会うつもりでいれば良い」
「それが侯爵様や伯爵様でも? とても、無理です……ラウーシュ様はいらっしゃいますか?」
「父親が来られないから、代理で出席しているのではないかな」
リリアスはそれを聞いて少しほっとした。
それにメゾンラベーエの衣装を見せるのを楽しみにしている。きっと彼はドレスを見て、目を見張るだろうから、その顔を見るのが王宮に行って唯一気が紛れる事だ。
廊下が王都の道の幅もあるようになってから、天井まである金属の扉の前に辿り着いた。
身震いするリリアスの手を撫でてから、父はぐっと胸を張った。
リリアスもそれを見て、自分の失敗が父の恥になると、みっともない所は見せられないと腹をくくった。
「ブリニャク侯爵閣下、並びにご息女リリアージュ様!」
衛兵の大声での呼ばわりで、開かれた扉の向こうの空気が一瞬硬くなり、二人の姿を見たあとには、穏やかな物に変わっていった。
部屋の両脇には貴族が立ち並び、二人の動きに合わせて視線が付いて来る。
彼らの反応は、リリアスが思っていたよりも友好的で、少しはほっとしたが体はまだ緊張していて、足が震えて躓きそうになる。
周りを見られず、ラウーシュの姿を確認出来ないが、この部屋にいるというだけで心強かった。
真正面の二段ほど高い位置に、王と王妃が背当てが頭より高い椅子に腰かけていて、その顔を直視せず足元に視線を当てて歩いて行った。
父が頭を下げ、リリアスも足を後ろに引き礼を取った。
王は黙ったままで、声を掛けてこない。
周りがざわざわとし始めた時、ようやく声を上げた。
「二人共頭を上げよ」
うつむいたまま頭を上げると、周囲に居た男達が――ほお――と小さく声を上げた。
「ヴァランタン! 今頃娘がおりましたとは、何事であるか?」
叱責の様な冷たい王の言葉が、部屋を一瞬にして引き締めた。
侯爵は視線を王に向け、もう一度胸を張った。
「陛下の僕である私が、陛下を謀るはずがございません!」
「では結婚もしておらぬお前に、何故子供がいるのだ。私は、お前に婚姻の許しを与えた覚えは無いぞ!」
リリアスは、これがすべて事前の打ち合わせで決められた事とは、到底思えなかった。茶番だが王が真面目に演じれば、嘘も本当の様にされるのだなとふと思った。
もっとも今上演されている事は、総て本当の事なのだが周りで見聞きしている貴族達はどこまでが真実だろうと、考えているのかもしれないと、思ってしまう。
侯爵が、母と結婚式をあげた教会の婚姻証明書と、リリアスの出生証明書を提出し、文官がその書類を広げて確認の為に黙読すると、顔色を変えて王の方を見た。
「さあ、それが本物か皆の前で読み上げてみよ」
文官は本当に良いのかと王の顔を見て、確認を取った。
王は無表情で頷いた。
「ブリニャク侯爵は、セルウィリア・ブノトワ・ノエミ……ティルクアーズと、神の御前で婚姻の契約を取り交わしたと、この婚姻証明書には記されております」
謁見の間にいる貴族達から、驚愕の声が上がった。




