表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
祈る娘  作者: オーガ
112/151

第112話


 陽が少し西に動き礼拝堂の中の陽射しも変化し、リリアスの左後方から入ってきた。横に並んで立っている使用人達は、時間が経っているのに微動だもせずにいて、さすが侯爵家の使用人と思わせる。


「皆さんお疲れではないですか?」

「お嬢様お気遣いありがとうごさいます。私達は慣れておりますので……」


 家令のフリオリが応えたが、言葉を濁したのは主が使用人に気を遣うなという意味だった。リリアスは、これから使用人との関わりも学んでいかねばならないので、家令のフリオリが早々に指摘しているのだ。


 ジャジャは長椅子の硬さが堪えているのか、貴族の前であっても足を組み替えたり、手を付いて体を支えたりと、普段の行儀の悪さを見せていた。


「そのうちに奥方様の妊娠が分かって、乳母のスルヤが雇われたんだったかな。奥方様は刺繍は得意だったけど、産着なんかの縫物はやったことがないから、スルヤが教えていたけど、直ぐ上手くなってあたしより針目は綺麗だった」


 母が思ったよりも、普通の妊婦の心得の様な事をしていた事に意外さを覚えた。

 する事が無かったとはいえ、王女の母が子供の為に縫物をするのは、異例な事だったろう。

 国を逃げ出して侯爵とはいえ、自国と戦争の真っ最中の国の貴族の子を宿し、その国に受け入れられるかも自国がどうなるかも分からない状態だったのに、それをどう受け止めていたのだろうか。

 やはり、乳母だった人の話も聞かなくてはいけないと思うのだった。


「スルヤが妊婦は動かないと出産の時に大変だからって、毎日家の周りを散歩させて、奥方様は随分と元気になっていたんだよ。だから出産の時も大丈夫だと思ってたんだけど、やっぱりお嬢様だよね、難産ですっかり体を弱らせちゃって、お嬢さんを生んでからは寝込む様になったんだ」


 オテロが暗い顔で、その頃の奥方の様子を思い出していた。体に良い食べ物を遠くから運んでいたのは、彼だったのだ。少しでも元気になって貰おうと、戦時にあちこち飛び回って食料を探していた。

 それなのに奥方は会うたびに弱弱しくなっており、戦争などやっている場合ではないと、なんとか早く停戦に持って行こうと主と戦っていた。


「それでもね、奥方様はお嬢さんをそれは可愛がって、びっくりしたけど奥方様の家では、お乳はお母さんがやらないんだってね? だけど自分のお乳で育てたいって、あんまり出なかったけど一生懸命お乳を含ませていたよ。スルヤが関心していたもの、良い所の出なのに子供を構うって」


 使用人達は、王女が自分の乳で子供を育てようとしている姿を想像して、思わず泣きそうになった。子育ての事など知らない王女が、乳房を含ませている姿はきっと神々しいまでに美しい物だったろう。


 幸せをすべて享受し苦労という事を一切知らない王女が、どうしてそこまで出来たのだろうと思うのだが、それがあの岩の様に頑丈な主の為なのかと思うと、一同頭を捻るのであった。


 美女の王女がすべてを捨てて尽くす価値が、主に会ったのだろうかとあの頃の主人を思い浮かべて、人の好みは色々であるなと結論付けた。


 リリアスは不慣れな一人暮らしの中で、母がありったけの愛情を持って自分を育てようとしてくれた事に感謝し、その事を知っただけでも良かったと思う。

誰もが王女の愛情深い姿に感動し、沈黙が礼拝堂を包んだ。


「お嬢さんが生まれてから一遍に賑やかになって、楽しい暮らしだったね。お嬢さんが泣いた笑ったって大騒ぎして、ハイハイして伝い歩きをしだしてからは、毎日があっという間に過ぎていって、奥方様は本当に幸せそうだった」


 ジャジャもその日々を思い出したのだろう涙ぐみ、鼻をすすってこすり上げた。思えばこの三年間が彼女にとっても、一番の幸せな時だったのだ。


「懐かしいなあ、あんなに笑った時は無かったよ。美味しい物を食べて、仕事は楽だったし、お給金は高かったし……」


 聞いていた一同は、それなのに何故主を裏切るような事をしたのかと、一瞬にして彼女への憤りと怒りを感じた。まっとうな者ならば、そのまま真っすぐな人生を送って行きそうなものだが、彼女の中に悪い種が潜んでいたのだろうか。


 一頻ひとしきりジャジャは俯いて、溢れ出た感情を抑え顔を上げた。


「お嬢さんが二歳を過ぎた頃から奥方様は、体の調子が良い時はお嬢さんの手を取って縫物を教え始めたんだ。スルヤはまだ早いって言ってたけど、奥方様は自分の体の事を分かっていたのかもしれないって、今なら分かる気がするんだ。椅子に座って膝にお嬢さんを抱き上げて、両手を持って針の動かし方をそりゃあ根気よく教えていたんだ。お嬢さんがむずがって言う事を聞かなくても、怒らないで優しい声で話しかけてたね。……そういや奥方様は、大きな声を出したり怒ったり、癇癪を起した事なんてなかったなあ」


 リリアスは溢れた感情と涙を抑えるために、片手で目を押さえた。

 心の中を巡る母への思慕と感謝の気持ちが治まる事が無く、嗚咽を押さえる為に体が小刻みに震えた。


 リリアスの心情を理解しているアネットが傍にやって来て、そっと肩に触れた。

「お嬢様、今日はこれぐらいでお止めになって下さいまし。あまり根を詰めると、お体に触りますわ」


 リリアスは頷いて、アネットに渡されたハンカチで顔を拭き立ち上がった。


「ジャジャさん、お話を聞かせてくれてありがとう」


 小さな声で礼を言い、アネットと共に礼拝堂を出た。

 

 外は陽射しが傾き、空気が夕暮れ時になっていた。


 レンガ造りの道を歩きながら、後ろを付いてくるアネットに独り言の様に話をした。


「段々母が、私の母になってくる気がするんです。美しい亡国の王女様。姿絵もあって顔は分かるけど、どんな人かは分からなかった。国を抜け出して父と一緒になるなんて、将来が不安だったかもしれないけど、それでも私を愛情深く、育ててくれようとしてたんですね」


「勿論でございますよ。王女様でしたのに、ご自分の乳で子供を育てようと思われるなんて、貴族の夫人でも考えつきませんよ。奥方様は本当に、良い方だったのでございますね……」


 屋敷までの雑草がない小道を歩きながら、リリアスは膝に自分を抱き上げて、縫物を教えようとしている母の姿を思い描いた。

 体の調子が悪くなってきて、夫は戦争でいつ帰ってくるか分からず、一人残されるかもしれない娘が、どれほど心配であったか結婚をしていないリリアスにでも分かる。


 娘に残す物もなく、せめて何かと思い針仕事を教えようとしたのだろうか。


 もし本当に母がそう思っていたのなら、リリアスは母の気持ちを受け取っていた事になるのだろう。

 自分の素性を知ってから初めて、母の事が身近に感じられてリリアスは幸せだと思い、今の自分の境遇を受け入れられる気がしたのだった。




「お父ちゃん……」


 誠にブリニャク侯爵を呼ぶには相応しくない呼びかけであるが、父はニヤアっと脂下がった笑いを浮かべている。


 リリアスが午後にジャジャから聞いた母の話の内容は、侯爵も家令から聞いている。そのことについての話だろうと思っていたが、真剣なリリアスの顔に侯爵も顔を引き締めた。


「私は、いくらお父ちゃんやオテロが貴族の娘だと言ってくれても、本当にそうなのかとずっと思っていました。真実味がないし、受け入れられませんでした。……でも、ジャジャさんの話を聞いて、母がどれ程私を愛してくれていたか、分かった気がするんです。それを無かった事にはできません。私はリリアージュなんですね……」


 侯爵は、リリアスの言っている事が理解出来ているのか分からないが、――うん、うん――と頷いて笑っている。


「私は、正式にブリニャク侯爵家の娘として、宮廷で披露して頂きたいと思っています」


 侯爵は驚いて立ち上がった。


「リリアージュ! 誠にか?」


 リリアスは頷き、その顔は晴れ晴れとしていた。


 ブリニャク侯爵家は、この時点で跡継ぎを持つ事になったのである。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ