第110話
太陽が高くなり、リリアスは暑さを感じたが、父はまだ席を立たなかった。
「ここでの用はもうすぐ終わる、暑くなってきたが我慢してくれ」
カンタンとの長い話が終わり、少し庭を歩いて考えをまとめようと思っていると、父がそう断りを入れてきた。
「誰か、いらっしゃるのですか?」
「もう一人、会わせたい者がいる」
父の感情の無い言い方で、その人物が歓迎される人ではないと分かった。
カンタンはオテロに引きずられて、地下牢に戻って来た。
「なあ旦那、俺はやっぱり死罪なんだろうな」
オテロは答えなかったが、沈黙がそれを肯定していた。カンタンは痛む腹を撫でながら藁に寝転んだ。
問われて、道を踏み外した時の頃を思い出したが、あの若い頃はまだまだやり直せる機会が、いくらでもあったはずだった。
今なら分かるが、若いと言う事は恐ろしい面を持っている。思いつくまま欲望のまま、後先考える事なく行動してしまった。
自分で稼いでもいない大金を手にして、舞い上がりすっかり身を持ち崩してしまったのだ。
侯爵の家に下男として雇われた時は、まともな人間だったはずなのに、どこで悪い考えが頭の中で浮かぶようになったのか、もう忘れてしまった。
今更、自分を憐れんでも遅すぎた。
奥の鉄格子が開く音がした。
オテロは帰らずにいたようで、二人の足音が聞こえて来た。
――一晩中泣いていた女だ――、と顔を上げて通路を見た。
カンタンと違って女は、手を縛られてはいなかった。女は薄いブルネットの髪で、腰の所まで伸ばしていて、色の白い痩せた体だった。
女は、カンタンの牢の前まで来ると立ち止まり見下ろした。
痩せているせいで鼻は尖り頬骨も出て、目は落ちくぼんでいた。
――骸骨みたいだ――
そう思っていると、
「まともな生活はしてこなかったと思っていたけど、やっぱりそれが顔に出ているね」
自分を知っているのかとまじまじと顔を見るが、知らない女だ。
「あたしもまともな生活はしてないから、分からないだろう? あたしにも十六才の若い時があったのさ。カンタン、久しぶりだねえ。不思議なもんだ、最後に会った時は、あんたも十八の若者だったのに、今や落ちぶれた中年だ」
――アハハハ!!――
女は大声で笑いながらオテロと共に、階段を上がって行った。
見知らぬ女から名前を呼ばれ、若い頃を知っていると聞かされ、気味悪くなった。
しかし十八才の自分を知る女でその時十六才と言えばと、まさに昔を思い出していたせいで、女が誰なのか分かった。
娘時代の面影は無かった。
「ジャジャかよ……」
白い肌で頬がピンク色で、触ると赤ん坊の様な弾力のあった肌は、青白くくすんで病人の様だった。
街中で見ても互いに分からぬまま、すれ違っていただろう。
あの純粋で一途にカンタンを想ってくれていたジャジャを、リリアスを捨てた後、地方の娼館に売り飛ばしたのは、確かにあの時の若いカンタンだった。
「あの頃の俺は、何を考えていたんだろうな?」
大金を手にしたのだから、村から遠く離れた地でジャジャと夫婦になって、商売でもすれば、まだまっとうな人生を送る事が出来たのかもしれない。
「そんな事はねえな……」
リリアージュを連れ去った、時点で、自分の人生は決まってしまったのだ。普通で、平凡な生活が送れるはずが無かった。
藁の寝床の上でカンタンは、力なく横たわっていた。
ジャジャは、久しぶりの外に出ても気分は晴れなかった。
夜遅く地下牢にやって来た男が、自分の名を告げた時、雷に打たれたような衝撃が体を貫いた。
体が震え座っていられなくて、床に倒れてしまった。
若い自分を捧げ、共に一生暮らしていくと思っていた男の裏切りで、人生を棒に振ってしまったのだ。
聞こえる声は、品性も人格も最低な男の物だった。娼婦をして世間を知れば、自分がいかに何も知らない子供だったのかが分かったものだった。
あんな男に惚れた自分が惨めで、涙が止まらなかった。
オテロと一緒にやって来たのは、細い女性だった。
着古した服を着て、茶色の髪をそのまま後ろに流していた。
オテロがリリアスの前に、女性を草の上に座らせた。
カンタンと同じ扱いなのは、彼女が罪を犯した人で、そしてリリアスの考えが間違っていなければ、母の所にいた女中だった人だろう。
「この女は……カンタンと共に、村からお前を連れ去ったジャジャだ」
リリアスが見下ろすジャジャは頭を下げ、座った場所で片手を付いて腰を崩した。横座りする姿は女性の崩れた生活を彷彿とさせ、そして随分と疲れているようだった。
「体は大丈夫ですか?」
リリアスは彼女が地下牢に居たのを知らないので、疫病に掛かったのではないかと思ったのだ。
ジャジャははっとして頭を上げ、リリアスの顔をじっと見た。
その眼はキラキラと光り、驚きと好奇心が中に見えた。
「こ、声が……奥方様に似ている」
「こら! 勝手に話すんじゃない!」
オテロの叱責に首を竦め、ジャジャは俯いた。
「私の声が、母に似ているのですか?」
リリアスは意外な事を聞いて父を見ると、侯爵も驚いてリリアスを見た。
「あまり意識をした事が無かったが……オテロどうだ?」
オテロは首を捻って、
「私は、奥方様とはあまりお話は致しませんでしたし、お声を聞いたのは随分前でございますから……」
顔は絵が残っているので思い出せるが、声となると会話をした時の内容と一緒に、一言二言のフレーズでしか記憶に無かった。
リリアスの声との比較など、することができなかった。
「もう十年以上前の事ですが、私が一番奥方様とはお話しをしました。お優しい、人の気持ちをほっとさせる……」
ジャジャはそれ以上話せなかった。その人の娘にした事を、思い出したのだ。罪深い自分に、リリアスの母の事を話す資格は無いと思った。
「母は、どんな人でした? 母とどんな話を、したんですか?」
椅子から前のめりになって、ジャジャに聞いた。
生きている人で、母の記憶があるのはたった五人しかいないのだ。
いずれ生まれた村に行って、乳母だった人からも母の話を聞きたいと思っている。
ジャジャはオテロを見て、彼が頷くと口を開いた。
「お上品で、いかにも育ちが良いという人でしたよ。田舎じゃ聞いた事もない言葉使いで、スルヤさんとなんて言ったんだろうかと、良く話しましたよ。三年お傍に居ましたけど、一度も怒られた事も声を荒げられた事も無かった。金持ちなんかは、横柄で偉ぶって貧乏人を怒鳴り散らす奴らだと思っていたけど、あの人はいつも笑って……」
ジャジャは声が出なかった。
自分の罪の重さに押しつぶされたのだ。
「落ち着いたら母の事をもっと聞かせて下さい」
返事をしないジャジャを、リリアスは優しい目で見ていた。
「リリアージュ……今日二人に会わせたのは、この屋敷から裁判所に移送するからなのだ。私が二人を訴え、裁判にかける事になる」
リリアスにもそれがどういう事か分かる、貴族に危害を与えた二人が裁判に掛かって軽い刑になる事はない。
「待って下さい。もっと母の話を聞きたいんです。だって村で暮らしていた母を、知っている人なんですよ。お父ちゃんが居ない時に、一人だった母の傍にいたんですよ。母が、お父ちゃんの事とか、自分の境遇をどう思っていたのか、知りたいんです」
侯爵は、リリアスの願いを聞いてやりたいと思うが、まだ宮廷が混乱している時に、どさくさに紛れて二人の裁判を終わらせたいと思っていた。
リリアスの母の素性をごまかせるのは、うるさい貴族連中が宰相の謀反に驚き、茫然としている今ぐらいだと判断したのだ。
「しかしだな、母の身分を隠しての裁判は、遅くなると人に知られる事になるのだ」
リリアスは父が二人に、公平な裁判を一応形だけとはいえ受けさせるのは、正しい事だと思っている。貴族ならば、斬り捨てごめんで済む事案なのだ。
だが母と暮らした三年の短い時間を、リリアスはどうしても自分の記憶として持っていたかった。
「今更、亡国の王女が現れたとして、どんな使い道がありますか? 国はとっくに瓦解し、フレイユ国に治められているのでしょう? 私が、国を出なければ、なにも起こりません」
苦労をさせた娘の我が儘を、侯爵は拒否できない。




