第108話
朝食の席でブリニャク侯爵は、リリアスに頭を下げた。
侯爵は自分が間違っていても人前ではなかなか謝らないのだが、流石に一晩寝てみると頭も冷えたようだった。
リリアスは驚いてその姿を見ていたが、気を取り直して父の傍に寄り添った。
「頭は下げないで下さい。それより、ラウーシュ様とのダンスの練習は宜しいのですね?」
侯爵は不承不承頷いて、
「社交界には必要な事なのだから、どうしてもというならラウーシュが一番頼み易いからな……」
そう言ってから二人で食事をしようとしたのだが、侯爵は手を動かさず妙な沈黙が部屋に流れた。
侯爵が手に持ったフォークを置くと、部屋にいた使用人を下がらせた。
夕べの言い争いの時でさえ使用人は居たのにと、
「他に何かあるのですか?」
リリアスが聞くと。
侯爵は言いにくそうに口を開いた。
「この度の疫病や争乱が治まるまで、と思って待っていたのだが、宰相閣下の事も一件落着したし、お前も我が家に帰って来た……。話しておきたい事があるのだ」
真剣な父の顔に、リリアスも手を置いた。
「お前が生まれた村は辺鄙な田舎で、母の正体を隠すにも疲れていた体を休めるにも、丁度良かったのだ。屋敷を借り、若い女中と力仕事を任せる下男を雇い入れた……。その二人がお前を、攫った犯人なのだ」
リリアスは、その様な昔の話をしてくるのは、まだそれが今に繋がっているからなのだろうと、重い話の始まりを黙って聞いていた。
「二人は偶然にも王都で私達が見つけた。女は下町の娼館で、男は救護所の病人となってな。そう、お前が看病して、オテロに不審な男だと教えた最初の疫病に掛かった男だ」
リリアスは思ったより冷静にそれを聞いていた。三才で攫われた時の記憶は無く、名前しか憶えのなかった自分は、犯人と聞いてもその人への憎しみの感情は湧かなかった。
まるで他人事のような感覚しかなかった。
父は、リリアスが何も言わないのでさらに続けた。
「平民が貴族に危害を与えた時は、言うまでもなく死罪だ。あの男女はそれを覚悟している。裁判にかける前にお前に話そうと思ったのは、知らぬ間に自分に係わる事が終わってしまうのは、本意ではないと考えたからだ」
父は今までの交流でリリアスの性格を、ある程度は把握している。リリアスは、人に自分の大切な事を勝手に決めて欲しくはないと考える、自立した女性だと思っている。
犯人がこれから死罪になるという冷酷な事実があるとしても、それを知らずにいたら後悔するだろうと、父は思うのであった。
言わなければ一生犯人の事を知る事も無く、幸せな生活を続ける事も出来たはずなのだが、父は娘の性格を知るにつけ、黙ってはいられないだろうと、覚悟して教えたのだった。
リリアスは自分にはいつも優しく寛容である父が、厳しい現実を告げてくれたことに感謝した。
「二人に会って私は、自分が失くしていた数日間を取り戻さねばならないのですね。そして犯人をどう思うか、どう処罰して欲しいか自分が納得しなければいけないのですね」
父はリリアスの表情を見て、自分の意図したとおりに、理解してくれた事が嬉しかった。
夜遅く馬車が、一人の男をブリニャク侯爵邸に運んできた。
疫病が治まり救護所が閉鎖されても、一人そこに残されていたカンタンであった。
猿ぐつわをされ後ろ手に縛られ、洗っていなかったせいで、悪臭を放つ体は垢で汚れていた。正体が知られるまではリリアス達の手厚い看護で、綺麗な体を保ち栄養も良く取れていたのに、今は薄汚れて惨めな姿だった。
髪の毛も髭もぼうぼうで、虱が湧いていた。
オテロはそんな男を嫌な顔一つせず、背中に手を当てて敷地内の別棟にある地下室に引き立てて行った。
「なんでこんな所に連れてくるんだ? 途中の野っ原で、剣で一刺しすればいい話だろう」
カンタンはそう言いながらも、それなら何故殺されもせず救護所に置いておかれたかが、不思議で仕方無かった。
夏の夜の暑さも地下室では感じることなく、湿気と黴臭さが体にまとわりつく。もっともカンタンのほうが、臭いはきついのだが。
地下室の奥には人の気配がして、カンタン達が下りて行くと、息をする音が微かに響いていた。
鉄格子の中に入れられると、壁に鎖で繋がった足枷を付けられ、床に転がされた。
「明日になったら、体を洗わせてやろう。それまで静かに寝ているんだな。ここで大声を出しても、誰にも聞こえんぞ」
無表情のオテロが錠を掛けて、階段を上がって行ってしまった。
朝オテロが持って来たパンとスープしか食べていないカンタンは、腹が空いてしかたがなかったが、床に置かれた水差しがあったのでそれで喉の渇きを癒した。
――カサカサッ――
と服が擦れるような音がするので、やはり奥の房にも人が居るのだと思い声を掛けてみた。
「おい! 誰かいるんだろう? なんか食うもん無いか? 腹が減ってしょうがないんだ!」
怯えるような気配がしても、返事は無かった。相手が話したくなくても、ずっと一人だったカンタンは、話し相手が欲しくて話し続けた。
「俺はカンタンっていって、地方の都市で少しは名前が知れた男だったんだがな、博打でへましちまって今やこんな地下牢に入れられるざまだ。あんたは何をして侯爵家に掴まっているんだい?」
――カラン、カラン――
床に落ちる金属の音が地下牢に響き、カンタンが耳を押さえた。
「どうした? 大丈夫かい? 」
相手が怯えていると思い、カンタンは優しい声で話しかけたが、奥の人物は何も言ってこなかった。
「へっ! どうせこんな所に入る野郎だ、たいした奴じゃねえな!」
――ウ、ウ、ウッ――
突然奥から泣き声が聞こえてきたが、それは女のか細い声だった。
カンタンは女と知って、ニヤニヤッと笑って鉄格子に手を掛けて、顔を精一杯出して奥を見ようとした。
「なんだ、なんだい。女の人かよう。言ってくれりゃあ、丁寧な口を利いたってのにさあ……」
奥の泣き声は止まらず、どんなにカンタンが慰めてもそれは止まなかった。 そのうちカンタンは諦めて、床に敷かれた藁に寝転んで、泣き声を子守歌に寝てしまった。
翌朝カンタンは、オテロの足音で目が覚めた。
「朝飯の前に井戸で体を洗うぞ。こっちへこい」
鉄格子の鍵を開けカンタンの足枷を外し、そのまま外に連れ出した。
朝から暑く、建物の裏にある井戸で、カンタンは自分で水を汲み盥に入れて体を拭いた。
水は冷たく拭いているうちに鳥肌が立ち震えるが、オテロはもっと綺麗に拭けと言うばかりで、カンタンは従うしかなかった。
それからオテロは、小刀でカンタンの髪の毛を短く刈り込み、その後水をジャブジャブかけ頭の汚れを落とした。
頭を振って水を落とすと、夏の日差しが直ぐに髪の毛を乾かした。
「旦那……この様子じゃあ、俺も直ぐには処刑されないんですかね」
この身綺麗にする事が何に繋がっているのかは分からないが、まだ延命されるようだとカンタンは少しほっとしていた。
オテロは裸のカンタンに粗末だが清潔な服を渡し、着替える様に言った。
清潔な服はカンタンに、人の感覚を取り戻させた。
昨日まで人扱いはされていなかったのは、自分の罪から言えばしょうがない事ではあったのだ。
井戸の傍に腰を下ろして、ハムを挿んだパンとスープを与えられ、ガツガツと急いで食べた。
カンタンの体が温まった頃に、オテロは頭からつま先まで見て、――まあまあだな――という顔をして、カンタンの腕を後に回し縄で縛った。
油断していたカンタンは急な事に慌てて抵抗し、腕の縄を掴もうとしたオテロの手から逃れようと、激しく動いた。
「待て待て、何を慌てる。お前と対面させたい方がいるのだ。こっちだ」
オテロが縄を掴んで屋敷の裏を通って、奥の庭園に入り木々の間に建つ東屋に向かった。
朝の静かな空気の中の東屋には、ブリニャク侯爵とリリアスがおり、そして執事が二人の前に茶のセットを並べていた。
オテロとカンタンの姿が見えると、リリアスは少し父の傍に体を寄せた。
カンタンの姿が綺麗にしたとは言え、やはりどこか異常な様子に見えリリアスを怯えさせたのだった。
頭は短髪で髭はボウボウに生えていて、足は裸足であるし目がぎらぎらと光っている。
最後にカンタンを見た時とは違っていて、リリアスは罪の意識が人を酷く変えてしまう事に驚いていた。
オテロはカンタンを、一段高くなっている東屋の下の芝生に座らせてその横に立った。
「カンタンよ元気になったようだな」
侯爵は皮肉気に笑った。
カンタンは侯爵の隣に座っていて、そっくりの赤毛を綺麗に結い上げて、濃い緑のドレスを着た娘を見た。
救護所で自分を看護していた娘とは思えない程、貴族然とした姿で娘の本来の姿がこれかと驚いた。
自分を見つめる緑の深い目が何を考えているのか分からず、すべての事に諦め不貞腐れている気持ちの奥底まで、見通しているように感じてカンタンは心が委縮していくように思えた。
先程更新したはずが、できていませんでした(泣)
帰ってきました、これから最後まで頑張りますので、宜しくお願い致します。
遅くなって申し訳ありませんでした。




