第106話
侯爵の書斎は広いが、壁の書棚にある書物の背表紙は日に焼けて古くなっていた。年代物の書物のようで、暫く誰かが手に取った様子が無かった。
書類机の上も紙の束もなく綺麗だった。侯爵はこの机の上で書類を読んだり、書いたりはしないのかもしれない。
リリアスは出された茶を飲み、焼き菓子をポリポリとかじっていた。その方が話さなくて良いからだ。
無言が父を窮地に追い込むのに、一番良い方法だと分かっている。
黙っているリリアスに、侯爵は話しかける事ができないのだが、彼女が怒っている事を理解しているからだった。
屋敷に来た時の顔を見て、何かが彼女を怒らせたと分かると、侯爵は無言になるしかなかった。
菓子を食べて人心地がついて、やっと本題を切り出した。
「今日、妃殿下の所に陛下がおいでになりました」
侯爵は――ほほう――と嬉しい顔をしたが、娘が王と顔を合わせる栄誉にあずかるのだから無理もなかった。
「そこで、侯爵が私を娘として迎えたいと、陛下に言上したとお聞きしました……私は何も聞かされていませんけど?」
真っすぐに怒った目で見るリリアスに、侯爵は慌ててどっと汗が噴き出した。
娘がこんなに怖い者とは知らなかったし、これなら戦場に立つほうがよっぽど気が楽だと思う。
「ううん……間を取り持ってくれる宰相閣下もいないし、結局自分で全てをお話しして、お前を家に迎えたいとお願い申し上げたのだ」
侯爵の一言一言に目で反応するリリアスは、とても十代の娘には思えず知らず知らず背筋が伸びていく。
「私も侯爵家に入るのは異存はありませんが、社交界の話はまた別の事ではありませんか?」
もっともなリリアスの言い分に侯爵は一言も無かった。
部屋の隅にいる執事もオテロも、先走った主人に内心呆れているがこの話はいずれ出てくる事なので、丁度良いのではないかと思っている。
「ああ、先に陛下に申し上げたのは済まないと思っているが、だが貴族でいる限りこれは逃れられない事なのだ。それにお前は一度ラウーシュと舞踏会に出席して、顔は知られているから社交界には入り易いと思うのだがな」
貴族として逃れられないと聞いてうんざりとしたが、父に文句を言った事で発散されたのか、怒りは徐々に治まっていった。
「それに仕事の方はどうするのだ? あの洋裁店に勤めているならば、色々考えねばならないぞ?」
リリアスは父の意外な言葉に驚き、侯爵家に入ってもまだ仕事を続けても良いのかと喜んだが、自分にも色々事情が有りそれを説明しなければならなかった。
ジラーの工房から引き揚げねばならないのだが、あの場所を去らなければならないのは辛い事だった。
それに前の店では侯爵令嬢という立場が、重すぎるような気がする。ジラーの店と違いまだ貴族の仕事をするには実績も信頼も足りない店であり、そこにリリアスが居るのは迷惑になる気がするのだ。
「それならば、妃殿下のドレスが仕上がったのだから、暫く仕事は休んで社交界の事を考えてはどうだ? 今回の騒動で大幅に貴族の家に変化があったから、却って他家との交流が取りやすいと思うのだ」
リリアスは父の言葉に少し考えてみようと思った。
「休むのは良いと思うよ。あんたは色々大変だったし、モローさんの所に帰らなくちゃならないんだから、その前に考えてみればいいさ。それに……若様の事どうするんだい?」
――えっ?――
ペラジーから思いもよらない人の事が出て、思わず声を上げた。
「いい加減にはっきりさせた方が良いんじゃないの? このままにしていたら、若様も気の毒だ」
ぺラジーも工房の皆も、若君とリリアスの行方を興味津々で見守っている。
若君のリリアスを見る目が熱い物なのに、それにほだされていないのが分かって、皆はじれったい思いをしていたのだった。
行動も話すことも大人なのに、色恋に関しては全くのおぼこな娘であるのが、リリアスらしいと言えばそうなのだが、今までの流れからそろそろ若君の我慢も限界な気がするのだ。
「若様もいい年だし、あんたもいつ結婚してもおかしくない年だ。若様があんたを大事にしているのは、分かっているんだろう?」
色々な事が有り過ぎて、リリアスの頭の中から締め出していた事が、ラウーシュの事だった。
貴族の息子であるラウーシュが、リリアスの行動に共感して、自ら疫病対策の為の物資を供給してくれたのはとてもありがたかった。
他の貴族はお金や物資は出してくれたが、持ってきたのは使用人達でそれも逃げるようにして帰っていった。
ラウーシュだけはいつも、食料や衣類や寝具などを持って、あの病人が溢れる救護所に来てくれた。
衣装にしか興味がない貴族の坊ちゃんだったラウーシュが、いつの間にか真剣な目で庶民の為に尽くしてくれていた。
救護所で会うたびに礼は言っていたが、それ以上の事は考えない様にしていたし、また考える暇もなかったのだ。
デフレイタス侯爵が倒れて、ラウーシュが屋敷に帰ってしまった後は、毎日会っていた人が居ない事に違和感が有ったのは確かだった。
デフレイタス侯爵の容態もラウーシュの事も心配だったが、なるべく考えず病人の看護に集中していた。
それでもラウーシュの従者のレキュアが時々、二人の様子を教えてくれてほっとしたりしていたのだった。
考えてみればこの大事件が起こっている間、二人ともそれに関わりを持ち互いの行動を見合っていたのだった。
リリアスが何か行動すれば、ラウーシュが助ける様に動いてくれて、事件の事情が分かっていくうちに、彼は出来る限りの働きをしていた。
時折見る姿は逞しく、立派なものだった。
もう誰にも、坊ちゃんなどとは呼ばれないだろう。
「姫様との結婚の話も、宰相閣下が居なくなってしまったから、どうなったのか分からないし……」
リリアスが消極的な考えをしているので、ぺラジーが尻を叩いた。
「少しでも若様の事が気になるなら、今度の社交界の事でも聞くってのを理由にして、お屋敷に行ってみたらどうだい?」
ぺラジーが自分の好奇心を満足させるために提案したのだが、そんな事は知らずにリリアスはそれもいいかなと思ってしまった。
リリアスがラウーシュに、訪問の先触れをしたのは、その数日後だった。
貴族の屋敷に訪問するにも支度が必要であったし、父の許可もいるのだった。
父は一緒に出向くと言い張ったが、行けば相手に何事かと思われ、話したい事も話せなくなるので断った。
その代わり勿論オテロが、供として付き添う事になった。
父が用意してあった服を少し手直しして、自分の好みに合わせた。上質の絹のドレスは触っていても気持ち良く、ついつい根を詰めてしまい家政婦長のアルレットに注意されてしまった。
彼女からすれば、侯爵令嬢がドレスを直すなど、信じられない事であったのだ。
ラウーシュからは――訪問を、楽しみにお待ち申し上げております――と、返事が来てリリアスの緊張が高まった。
明るいサロンにリリアスは、通された。
気慣れない正式なドレスを着てソファーに座ると、後ろにひっくり返りそうになる。
部屋に案内してくれた女中に分からない様に、オテロが後ろから引っ張り上げてくれた。
まるで人形を起こすようなオテロの動作に、可笑しくなってしまい、慌てて持っていたハンカチで口を押えた。
直ぐに他の女中が茶のセットを持って来て、その後ろからレキュアが部屋に入って来た。
女中がテーブルにティーカップを置いている間に、レキュアが傍に来て頭を下げた。
「リリアージュ様には、お元気そうで何よりでございます。今日の御来訪を主人共々、光栄に思っております。まずは私からお礼を言わせて頂きたく存じます」
今までにないレキュアの挨拶に、リリアスはどう返事をしてい良いか分からなかった。つまりこういう所が、貴族の令嬢ではないと言う事なのだ。すっかり気落ちしてしまい、言葉が出なかった。
「お嬢様は、このような場所は馴染みが薄いので、私が代わりにご挨拶をお受けいたします」
オテロは紳士的な応対で、いつものリリアスとの気さくな感じではなかった。
彼でさえこの様な時の受け答えは分かっていて、流石に侯爵子息の従者だと関心させられるのにと、リリアスは習ってはいないからとはいえ、恥ずかしい思いだった。
リリアスが顔を赤らめてレキュアを見ると、
「ブリニャク侯爵様の御令嬢なのですから、どのようになされても私共は大変嬉しゅうございますよ」
と、笑って答えてくれた。
レキュアはリリアスの母が誰か知っているから、どのような事をされても受け入れる事ができるので、これが貴族の身分差という物なのだろう。
マダムジラーの裁縫師としてこの屋敷に来た時と、まるっきり反対の立場になってしまったのだと、嬉しいというより戸惑いの方が大きかった。
間が持てず茶のカップに手を付けた。
熱く入れられた茶はとても良い匂いがして、それがリリアスの緊張を少し解してくれた。
そこに静かに扉が開かれ、ラウーシュが入って来た。
「リリアージュ様……」
ラウーシュの声が緊張していて、少しかすれていた。
部屋に居たレキュアも、侍女もラウーシュの姿に驚いていた。
リリアスは、ラウーシュの子供の様な姿に思わず微笑んでいた。




