第104話
裾の最後のまつり縫いの糸を切り、縫製の担当の女工は立ち上がった。
「完成しました!」
その声で皆が歓声を上げ、それぞれ手を叩いたり肩を叩いたりして、喜びを爆発させた。
春に仕事を始めもう夏が終わろうとしている。
王都では疫病が流行り、女工の知り合いも何人か亡くなっており、庶民にも知られている王太后と宰相の謀反による騒乱が起き、ジラーの顧客の中にも失脚した貴族が何人か居た。
厄災の年と後に言われたこの年は、仕事をしながらでも生きた心地がしない時が何度か有ったのだ。
その中で製作された王妃のドレスの完成には、担当者でなくても感慨深い物があった。
糸を切った担当者は、目を瞑り胸の前で手を組んでいた。
「頑張った、頑張った」
ぺラジーが担当者の肩を叩くと、
「ぺラジー……疫病が流行って、リリアスが居なくなった時は、もう完成しないって思ったわ」
涙目で、ぺラジーに縋った。
「あんたは良くやったよ、腕はもう一流さ。妃殿下のドレスを縫ったって事で、あちこちから引き合いがくるだろうさ」
自分の将来が開けた事にやっと気が付いて、女工は目を瞬かせた。
「これからも、この工房を引き立てていって欲しいもんだ」
ぺラジーの言葉に女工は、力強く頷いた。
「私はずっとここに居るつもりだけど、リリアスはどうなるの?」
刺繍の為に他の工房から助っ人に来ていたリリアスは、一緒に仕事をしているうちに超一流の刺繍の腕を持つ人だと分かった。それなのに驕らず軽々しくなく、仕事に真面目な人だった。
そうしているうちに、どこかの貴族の庶子だとか貴族のお嬢様だとか、オテロという年配の従者がリリアスに付くようになってから言われるようになった。
それでもちっともリリアスは変わらず、仕事に熱心でいるだけだった。
リリアスの待遇が変わっても、オテロが居る事が証しになって、貴族の家と関係があるのだろうと、皆が納得をし始めていた。
それがデフレイタス侯爵の若君の態度の変わりようや、ブリニャク侯爵が時々やって来る事で、やはりリリアスは貴族の娘なのだと思うようになったのだ。
それなのに、疫病の時に何故か救護所で働く事になったりして、皆で頭を捻ったものだった。
貴族の娘だったとしたら、そんな危ない仕事を何故するのか却って分からなかった。けれど救護所から帰って来たリリアスの顔は、もう以前とは違っていた。
前から綺麗だったがもっと美しくなっていて、その上近寄りがたい気品に溢れていたのだ。
――やっぱり貴族の御令嬢だったんだね――
とみんなで頷き合った。
庶民の誰かが救護所に手伝いに行って帰って来たとしても、リリアスの様に顔つきが気品に満ちてくるなどという事はあるはずが無かった。
リリアスの自分は貴族の娘という気持ちが、顔つきを変えたのだろうと誰もが思ったのだった。
大っぴらに言えなかったらしいが、マダムの屋敷の二階に居た怪我人は、きっと今回の謀反の騒動に関係ある人なのだろう。
リリアスとオテロが気に掛けていて、少し前から女工達にテーブルマナーを教えていた、貴族の執事だったという年寄りの人が、一生懸命に世話をしていた。
その怪我人もリリアスが連れて来たらしく、いつマダムの屋敷に入ったかも分からなかった。それが謀反に関係ある人なのではないかと、想像できる理由だったのだ。
もう一つリリアスが、貴族なのではないかという理由がある。
夕暮れの裏庭で、デフレイタス侯爵の若君がリリアスと話しをしていて帰る別れ際に、彼女の手を取り口づけをしたのだ。
窓から見ていた女工が、大騒ぎで戻って来て話しをしてくれたが、それはそれは優しい仕草で、初めてリリアスにあった時に怒りに任せて蹴った事があったようには、見えない態度だったようだ。
いずれリリアスはこの仕事を辞めるのかもしれない。貴族の令嬢なら当たり前かもしれないが、才能のあるリリアスが辞めるのはもったいないと思ってしまう。
王妃のドレスが完成した今、リリアスは元の工房に戻るのか、ここに残るのかそれとも貴族令嬢として貴族の世界に入っていくのか、とても興味がある事だった。
「さあ、完成祝いのお茶会だよ。今日もオテロの小父さんが、お菓子をたーんと持って来てくれたからね、ご褒美にお腹一杯食べるんだよ」
ぺラジーは母親の様に皆を食堂に誘導し、自分もリリアスと一緒に作業場を出た。
「ああ……肩の荷が下りたよ。失敗は許されないからね、やっと心置きなくお菓子が食べられる」
ぺラジーは笑ってリリアスの腕を掴んで、女工達の笑い声や歓声が聞こえる食堂に向かって行った。
ドレスが完成した夜、リリアスはオテロの案内でブリニャク侯爵邸に向かった。
宰相が出国し旅に出て、王妃のドレスが完成した今、自分もけりを付けなければならなかった。
侯爵家が用意した馬車に乗って向かう途中オテロが、向かいに座り緊張しているリリアスに話しかけた。
「ぺラジーから昨日、ドレスが完成しそうだと聞いたので、料理長に言って色々デザートを作らせたのですが、皆気に入っているようでしたね」
その通りで皆は菓子を一通り口にした上にお代わりをし、最後は残った菓子を皆で分け合って持ち帰ったのだった。その様子たるや市場の売り出しの時のようで、嬌声が大きいので喧嘩かと食堂に駆け付けたオテロが見た物は、ケーキに群がる女工たちの姿だった。
デザートに興味の無いオテロは、女性の菓子への欲望が強いのに驚いたが、それでも持ち帰って家族に食べさせたいという気持ちが見えて、料理長に頼んで良かったと思ったのだ。
「みんなとても喜んでいたわ。料理長にお礼を言わなくちゃね」
リリアスが緊張を解いて笑ったので、オテロもほっとした。
居間にリリアスを案内すると、中には熊の様に歩き回っている侯爵が居た。
――こちらの緊張を解かないと駄目だな――
とオテロは少し慌てた。
いくつになっても子供の様な人だと、心の中で笑った。戦場では地獄の使者の様に恐ろしい人で、恐怖など微塵も感じないのに、娘が来ると聞いただけでこの騒ぎである、父親は大変だと思った。
共に夕食は済んでいるので、紅茶が出された。
「侯爵様この間の、宰相閣下のお見送りお疲れ様でした。閣下の御様子はどうでしたか?」
「ああ、お元気で行かれた……。陛下が途中で待っておられて、最後にわだかまりなく別れの挨拶ができたようだった。これで心残りなく他国への旅ができるだろう」
沈黙が流れ、部屋の隅にいるオテロや、執事がハラハラと見守っていた。
向かい合ったリリアスは侯爵が贈った、薄い桃色の地に黄緑の蔦が織り込まれたドレスを着ている。襟は詰まり胸元と袖口にこれでもかと豪華なレースが付けられていた。
リリアスにはこのレースは派手過ぎと思うのだが、父が自分の為に作ってくれたと思えばそれも気にするほどではなかった。
「閣下と最後に店の前でお別れした時に、為になるお言葉を頂きました。私に……父を許してあげなさいと仰いました」
侯爵は背筋を伸ばし、最後に別れを告げた宰相の顔を思い出していた。
――いたずらっ子の様な顔をしていた――
侯爵は汗を掻いた。
「勿論私はお前に謝らなければならない事が山ほどあるが、お前は私を許していると思っていた……」
孤児として育ったとしても、今は侯爵の父と王家の姫の母が自分の両親だと分かっている。
それがどれ程貴族としては大きな力であるか、リリアスは知っていると思っていた。
リリアスは首を横に振った。
「私は父が侯爵とか母がお姫様だったとかには、興味はありません。あなたが飲んだくれの仕事をしない博打好きな、私がしっかりしないと、食べるのにも困るという人だったらと、何度思った事でしょう」
侯爵は驚きで口が開いたままだった。
オテロと執事もリリアスが意外な事を話し始めたのに、そわそわと体を動かした。
侯爵は人間的に欠点もあり面倒な所もあるが、今リリアスが望んだ駄目な男の特徴はあるはずもなかった。
貴族の侯爵より怠け者の父親の方が良いとは、どういう事なのだろう。
「侯爵は……孤児として生きていく事が、どのような事かお分かりになりますか?」
侯爵は開いていた口を閉じて、緊張した顔でリリアスを見た。
「大変な事であろうとは思うが、本当の所は分からない」
――大変だったろう、その苦労は分かるよ――
と言われたら、カップを投げつけて帰っていた事だろう。
リリアスは、両手を膝の上で組んだ。
「物心がついた頃に、自分は誰なんだろうと思った事を覚えています。母から呼ばれていたリリアージュという名前を忘れない様に、いつもいつも心の中で唱えていました。これだけが私が私であるという、証拠だったからです。それ以外は何もない……本当に何もなかったのです」
侯爵もオテロも執事もリリアスの今までの人生を聞かされるのだと、胸が重くなり緊張が増した。本来ならこの屋敷で苦労なく育ち、侯爵家令嬢として使用人に傅かれ生活していたかもしれないのだ。
「幼い頃は年上の男の子に理不尽な暴力を振るわれ、食事の時は食べ物を奪われひもじい思いをしました」
侯爵もオテロも小さい時のリリアスを勿論知っている、あの時の子供が孤児院で暴力に遭いお腹を空かしていたと想像すると、断腸の思いであった。
オテロは涙が溢れていた。
自分も戦場で生きるか死ぬかの経験をしていたが、リリアスは受けなくても良い仕打ちを与えられていたのだ。それも三才の親の庇護と愛情が必要な時にだ。
「なんとか食べ物を食べられて、一緒の子達とも上手くやれるようになりほっとしていた頃から、今度はもっと大きな男の達から嫌な目で見られるようになりました」
皆心臓が止まりそうになった。これ以上聞きたくないと思ってしまうほど、男の自分達には想像がつく話だ。
「私と同じくらいの男の子は虐めてくるのですけど、上の男の子は抱き着いたり体を触ってきたりと、幼い私には分からなかったのですが、シスターが良く見ていて下さって、酷い目には遭いませんでした。大きくなったら私が随分と背が高くなったので、男の子達は近寄らなくなってきたんです」
一同ほっとして、汗を拭いた。少し聞いた話でも酷い日常なのが想像できるのだから、本当に生活してきた時は心が休まる日は無かった事であろう。
侯爵は、リリアスが話している顔を見る事が出来なかった。
「孤児の女の子はこうやって苦労して生きていたんです、男の子だってその中では暴力もあったし、皆大変な思いをしていたんです! 孤児ならずっと孤児でいれば良かった。こんなに大きくなってから両親が貴族だよっていわれて、どうやって納得がいくんですか? じゃああの生きるために必死だったあの時を、無くして下さい! しなくて良かった苦労を忘れさせて下さい!」
リリアスは顔を両手で覆った。
今更誰にもどうしようも出来なかった事で、父を責めるのは間違っている。それでも口に出さなければ、自分は前に進めないのではないかと今は思っていた。
宰相は、これらすべてを自覚してリリアスに、父を許すようにと言ってくれたのだろう。
リリアスの慟哭に誰も口が利けなかった。
初めて父と名乗った時には、リリアスは抱き着いてきて大声で笑ったのだ。それは父が見つかった嬉しさからの物だったはずだ。
それ以降は父とは呼んでくれず、――侯爵様――と他人行儀な言葉使いだった。それは父が貴族と知り、気後れからくる照れの様な物だと思っていた。
だがリリアスの心の、今吐き出さねばならなかった過去の自分と現在の自分との葛藤が、底知れぬ場所で渦巻いていたのだろう。
それは本人も気が付かず、ただ貴族の社会に飛び込めないという戸惑いとしか思えなかったのだろう。
宰相は離れていてもリリアスの葛藤に気付き、最後にそれを教えてくれたのだ。
侯爵は、リリアスの苦しい胸の内全てを引き出し、受け入れようと思った。
「リリアージュよ……お前の苦労は私が与えてしまった物だ、どんな事をしてでも償おう。お前の気持ちがすむのなら、私を殴っても斬ってもどの様にしても良いのだ」
侯爵は立ち上がり、両腕を広げた。
戦場では赤鬼と呼ばれ、咆哮し剣を持った両腕を広げれば、誰もが後ずさった歴戦の雄である。
今は、涙を流した只の父親であった。
リリアスは顔を覆った手を外し、仁王立ちしている父を見た。
見上げる父は本当に人かと思える程大きいが、流している涙はごつごつとした顔を流れ震える唇に滴っていた。
何事も真っすぐで、隠し事の出来ない正直なこの男が父なのだと思うと、本当は誇らしいぐらいなのであった。
この仕草も他人がすれば、ただの演技だろうが父は全てが本気の人であると思った。
リリアスは立ち上がり勢いよく父に飛び掛かり、拳を握って頬を殴った。
――ペチッ――
という軽い音が聞こえ、
「痛い!!」
リリアスが右手を掴んで、蹲った。
「リリアージュ!!」
「お嬢様!!」
侯爵がリリアスを抱き上げ、オテロが傍に来て腕を掴んだ。
侯爵の腕の中にいるリリアスは、泣いているのか体が震えてそれが侯爵にも伝わって来る。
自分が侯爵の娘という事に何の不満があるかと思っていたが、侯爵という事に驕っていた自分に気が付いた。
不自由なく暮らせる事をありがたいと思うだろうと、勝手に押し付けていたがリリアスはそれを受け入れてはいなかった。
自分の傲慢さに気付き、嫌気がさした。
「リリアージュ……お前の好きなようにするが良い。侯爵令嬢が幸せだと思っていた私が、間違っていたのだ。お前が、お前らしく生きられる事が一番なのだな?」
厳つい父の顔が真近にあり、リリアスは自分が叩いてもびくともしなかった頬を撫でた。
長年の日焼けで黒く硬くなった皮膚は、リリアスの手が動くとピクリと震えた。
じっと前を見てリリアスの手の柔らかさを感じている顔は、純朴で飾らない性格を表している様に思えた。
――この父ならしょうがないかな――
リリアスは、子供のような父を許そうと思った。父もずっと苦しんできたのだから、もう許されてもいいだろうと思った。
「貴方を許します。私の人生に苦しみを与えた事も、貴方が自分自身を許せない事も、私が許してあげます。そしてこれから二人の人生を一緒に出来る限り、作って行きましょう」
侯爵はリリアスを抱いたまま、滂沱の涙を流し――うんうん――と頷いている。
「おとうちゃん……」
リリアスが父の耳元で囁くと、侯爵は驚いた顔で振り向いた。
「本当はこう呼びたかったの。孤児院の周りの家の子達は、みんなこう呼んでいたんだから……」
リリアスの腕が父の首に回り、ぎゅっと抱き着いた。
いつの間にかオテロも執事も部屋からいなくなっていた。
いつまでも父は、娘を抱きしめていた。




