第10話
衣擦れの音が止み、部屋にまばゆいばかりのドレスが広げられた。
侍女も上臈も、見たことのない輝きに見とれている。
マダムジラーが、
――いかがですか?――
と言いたげに、侯爵夫人に顔を向けた。
侯爵夫人は物言わず、あごを上げた。
何も言わないのは文句がないという事だ。マダムはほっと、胸をなでおろした。
ペラジーが1週間も休み、とても納期には間に合わないと思ったが、リリアスが工房の女たちを統率し、迷いのない製作でドレスを完成させたのだ。
ペラジーが途中で復帰できたのも、大きかったが、美しいがおとなし気な顔をしているリリアスは、やはりとんでもない逸材だった。
部屋の隅で控えているペラジーとリリアスは、無表情で作品の評価を待っている。しかし夫人が何も言わないので、内心では焦っていることだろう。
「奥方様、これは大変な物を手に入れたものでございますね」
上臈の一人がにこやかに言った。
夫人は黙っているが、仕えている者達には上機嫌なのが分かるのだろう、それぞれにドレスの素晴らしさを口にする。
「あの子の外国旅行も、無駄ではなかったということじゃな」
夫人がそっと扇を開き口元を隠すと、濃くアイラインがひかれた目が笑っているのが、リリアス達にも分かり、やっと体の力が抜けた。
「奥方様、坊ちゃまがお伺いしたいと、仰っておられます」
部屋に入ってきた女中が案内を乞うと、その返事を待たずして、扉を押して息子が入って来た。
「母上、ドレスが出来上がったと……」
大きな声を上げた息子は、部屋に広がるドレスを見ると、押し黙った。 その顔は侯爵夫人によく似ている。
靴が埋もれる絨毯を歩きながら息子は、じっとドレスを眺めている。
母親に向けた顔は、輝かんばかりだった。
「これほどとは思っておりませんでした」
息子は顔見知りのマダムジラーに向いて、
「良くやったぞ」
と、褒める言葉を与えた。
「恐れ多い事でございます。これもひとえに若様のお力添えが、あったればこそでございます」
マダムは深々と頭を下げた。
――うんうん――
と、うなずく息子は、部屋の隅にいるリリアス達に気づいた。
「お前も来ていたのか」
リリアスとペラジーは頭を下げた。
以前会った時は、尊大な鼻持ちならない貴族の息子という印象しかなかった。
しかし、出来上がったドレスを見て、単純に褒めて喜ぶ姿を見ると、子供が気にいった玩具を手にいれたような感激のしかたで、ドレスを作る者としては、嬉しい気持ちだった。
「ラウーシュ、騒がしい事ですよ」
侯爵夫人が落ち着かせると、息子は満面の笑みで母親を見た。
「私の持ち込んだビーズが、美しいドレスを作り上げたのです。とても喜ばしい事ではありませんか。それに母上もこれで、妃殿下主催のパーティーで、女主人のような顔ができますでしょう?」
侯爵夫人がこみ上げる喜びに、冷静な顔を作る事を放棄した。
「ホホホホ……、息子よ、良くやりました。お前のような息子を持って、私は鼻が高い」
リリアスは着道楽の貴族親子の会話を聞いて、主催である王妃が気の毒になった。
今この国で最高のドレスは、自慢ではないが自分達が作ったこのドレスだろう。
王妃が外国の珍しい布を手に入れて、最高のデザインで作らせたとしても、このビーズを縫いこんだドレスに勝る事はないはずだ。
自分主催のパーティーで、他の女性にドレスで遅れを取る事ほど、屈辱的な事はないだろう。
「王妃様に悪い事しちゃったんじゃないかな?」
帰り道でリリアスはついペラジーに、弱音をはいた。侯爵夫人に褒められ、思ったより過分の仕立て料をもらい、意気揚々と帰る上がった気持ちに、水を差す言葉だった。
「あたしらはなんの力もない、ただのお針子だよ? 侯爵夫人の仕事が嫌だと言ったら、そこで仕事を取り上げられて、――はい、さよなら――さっ。私たちに、なにか選ぶ権利なんかないだろう?」
押し黙るしかない。
「好きな布に刺繍をして、繊細なレースをドレスに飾り付けて、一生着られもしないドレスを作るのは、それが好きだからさ」
隣のペラジーの顔を見る。
彼女もリリアスを見て、微笑んでいる。
「二親揃っていて、子供もいて、好きな仕事をしている……。それだけで幸せだろうって思っていたんだ。だから旦那があたしを殴ったって、我慢できてたんだ」
思わず、うつむいてしまう。
ペラジーが店に出て来てからも、忙しさに話どころではなかったから、リリアスがペラジーの旦那を殴った事について、まだ二人は話し合っていなかった。
「ごめんなさい! 余計な事をしたんじゃないかって、ずっと思っていたわ。ペラジーには、ペラジーの考えがあったんだろうにって。一時の感情で、他人の生活に土足で踏み込んで、申し訳ない事をしたわ……」
「ありがとうよ。あんたが、いなければ、きっとまだあたしは、悩んでいたと思う」
リリアスは首を横に振った。
「あれから旦那と話し合ってさ。旦那は父ちゃんたちに、あたしを殴っていた事を話してくれたんだよ」
西日を顔に受けて、ペラジーは胸を張って歩いている。
その顔は厳かな聖母のように、清らかだった。母でも妻でもあるペラジーは、リリアスが思うよりずっと強かった。
「父ちゃんの料理の腕前には敵わないし、かあちゃんの客あしらいにも追いつかない、その上女房のほうが稼ぎがいいんだから、腐るなってほうがおかしいんだ」
田舎から出て来て王都の住民には、引け目もあるし息つく暇もなかっただろう。
「地方の父ちゃんの知り合いの店に、料理修行に行く事になったんだ。旦那が料理の腕に納得がいったら、帰ってくるってさ」
「それって、私がお店で暴れたから、居づらくなったんじゃあ……」
――アハハハ――
ペラジーは口を開け、空を向いて笑った。無邪気にも見える、心からの笑いだった。
「おとなしい旦那にも、女遊びができる甲斐性があったんだって、近所じゃちょっと名を上げたんだよ」
落ち込むリリアスの背中を叩いて、ペラジーは
「気にすることはないさ。旦那が腕を上げて帰ってくれば、ぜーんぶ上手くいくってもんさ」
ペラジーの言うとおりになってくれれば良いと、思わずにはいられなかった。
朝早い下町はもやがかかり、数町先は見通しがきかない。
年季の入ったドアがゆっくりと開き、旅支度のベゾスが小ぶりの袋を担いで出て来た。後ろにはペラジーが付いてくる。
口を堅く結んだベゾスが振り向くと、そこにいるペラジーの視線がずいぶん下だった。
何年も一緒にいたのに、自分の女房がこんなに小さかったのかと、あらためて驚いた。
肩幅も首も細く抱きしめてしまえば、折ってしまいそうだった。
こんな小さな女房を殴っていた自分が恐ろしくなった。
抱きしめようと伸ばした手が、どうしても肩に届かない。
「あんた!」
ペラジーが腕の中に飛び込んできた。
「早く修行を終わらせて帰ってこなかったら、エイダがあんたの顔を忘れちまうよ!」
ペラジーの身体が震えているのか、自分が震えているのか分からないまま、細く熱い身体を抱きしめた。
「ああ、エイダが忘れる暇もないぐらい早くに帰ってくるよ……」
自分が帰る場所はこの暖かい腕の中しかないと、改めて思う。
見下ろすペラジーの顔は、笑っていた。
――うん――と、うなずいてベゾスは、引きはがすようにペラジーの身体から離れた。
そこに開けっ放しのドアから黒い小さな影が、飛び出してきた。
「とうちゃん!」
いつのまに起き出してきたのかエイダが、裸足で二階から降りてきたのだ。
「エイダ!!」
振り返ったべゾスは顔をゆがめて、追いすがるエイダを抱き上げた。
首元の細い腕の暖かさや、顔にかかる柔らかい髪の乳くさいにおいを感じると、自分のしでかした事の大きな代償に胸が締め付けられた。
「どっかいくの?」
「ああ、ちょっと田舎の食堂の手伝いに行ってくる。エイダは良い子にして、待ってるんだぞ」
「やだあ! あたちもいっちょにいくもん」
幼子の手が思ったより強く、ベゾスの首を絞め胴が震える。
「すぐに帰ってくるから、かあちゃんと家で待っててくれな?」
「やだ! やだ! いっちょにいくぅ~」
いつもはどんな我が儘を言っても聞いてくれる父が、自分の言い分を聞いてくれないのを不満に思い、エイダはどんどん不機嫌になり、涙声になる。
ペラジーは、夫からエイダを抱き取り、出発するようにうながした。
「や! や! とうちゃん! とうちゃん! いっちゃやだあ!!」
全力でペラジーの腕から逃れようと暴れるエイダの力は強く、落としそうになる。
「エイダ、母ちゃんの言う事聞いて、良い子にしてるんだぞ。そうしたら父ちゃん、早く帰ってくるからな?」
ベゾスはくるりと体を回転させて、街の大通りの朝もやの中を、足早に進んでいった。
「とうちゃん!! とうちゃん!!とうちゃ~ん!」
エイダの声は、朝もやの中ずっとベゾスを追いかけてきた。




