第1話
高い天井まである、大きいガラス窓から差し込む午後の日差しは、部屋の奥に届いていた。
部屋の真ん中の大きな机に独りむかい、真っ赤な作りかけのドレスに、まるで祈るように、刺繍をしている娘がいた。
ドレスの色で染まったような赤く長い髪は鳥の巣のようにからまり、一つにまとめられ背中に流されていて、ひたいにかかる後れ毛は、ピンであちこちに留められていた。
まとう服には色とりどりの糸が模様のように付着し、彼女がどれだけそこで作業しているのかが、うかがいしれた。
部屋のドアが開けられ、むっとした空気の中に流れ込むひんやりとした気配に、彼女はやっと顔を上げた。
カチャカチャとなる茶器の音が、この部屋を現実の世界に引き戻していく。
銀盆を持った年若い娘は、隅にある机にそれを置き、馥郁とした紅茶を入れ始めた。
刺繍針を糸から抜いて針刺しに戻した娘は、大きな伸びをしてから、立ち上がった。
「ベリー、ありがとう」
三つ編みの髪を両肩に落としたベリーに、礼を言って娘はカップを受け取った。
「こんなことに礼なんて、とんでもないです。……リリーさんは、根を詰め過ぎだってみんな言ってます」
憧れの人から礼を言われて、ベリーは頬を染めながら、不満げな顔をするという器用な事をした。娘は素朴なベリーの気遣いが嬉しかった。
「あ、あの……、今度王妃様のドレスを作るって聞いたんですけど……」
ベリーがおずおずと、いま一番の関心事を聞いてきた。
いつまでも下がらず、用ありげにしていたのは、それを聞きたかったからなのか。
「裾の刺繍を少しだけよ。こんな平民の洋服屋に王妃様のお召し物の注文がくるはずないわ」
ベリーは少し落胆しながらもなお、目を輝かせながら、身体をよせてきた。
「でも、やっぱり王妃様のドレス作りに参加するんですね!」
田舎育ちのベリーにしてみれば、貴婦人のドレスを制作しているだけでも、夢のような事なのに、雲の上の存在の王妃に関われる人の側にいる事が信じられないのだった。
ベリーが出ていってシンとしずまった部屋で、娘は誰もがこがれる、王族の仕事を引き受けざるを得なかった事を、にがにがしく思わずにはおれなかった。
リリアスは若くして裁縫師として名が売れているが、もとはどこの誰とも分からぬ孤児だった。物心ついた時から針を持って、なにかを縫っていた。ただただ布に触れて、好きなように縫っていられればよかっただけなのだ。
貴族のドレスや、ましてや王妃の物などと、だいそれた野望など持ち合わせていない。
白く細い自分の手を見つめた。同じ孤児院の年頃の娘たちは、ひたいに汗し水仕事にあかぎれを作っている。無法な男の色欲にまみれた視線をごまかしながら、生きるのに必死だ。
手芸に才能があるのを子供の頃に認められ、きつい労働から解放され工房に奉公にだされた。教えられるレース編みや刺繍や洋裁に、わくわくしながら取り組んだのはけっして生きるためだけではなかったのだ。
それをせずにはいられなかった。針を持っているあいだは、食事さえ忘れるほどで、真っ暗になって布目が見えなくなっても、手探りで縫っていたほどだ。
気が付けば、工房の責任者になり自分では一生かかっても買う事ができない生地や、レースを好きなように扱っていた。
周りの嫉妬や悪意など気にもならなかったし、ひたすら技術の習得しか頭になかった。
工房の経営者も自分のおかげで、貴族からの注文が増え一流の店の端っこに名前を連ねることが出来て、満足そうだった。
それだけで良かったのに……。
いつもは作業着と称した、仕事の邪魔にならない、薄いペチコートをつけ、丈が短めのドレスを着ているが、今日はこの日のために睡眠をけずって作ったドレスを着ている。
木綿だが深緑のそれでも、質のいい織の無地の胸元に、こまかい薄い緑色の小花を蔦と一緒に刺繍してある。胸の真ん中をレースで飾り、腰で切り替えたスカート部分は、あまり膨らまないペチコートをはいて、自然に流れ落ちるようにしてある。
しかしみる者が見れば、その自然なラインがよりもなく、きれいなドレープを作っているのがわかるはずだ。
髪型も工房の、腕に自慢の女性数名がなんどもくしけずり、流行のスタイルに整えてくれていた。
待つようにと言われたサロンの受付はさすがに、王族御用達の店にふさわしい装飾で、日頃工房で過ごしている、リリアスには気おくれしそうな雰囲気だった。ソファーにすわることもできず、たたその場で立ちつくしていると、カーテンの奥のドアが開き、音もなく現れた女性は、洗練した身のこなしで、リリアスの前に立った。
「あなたが、コルトレさんね」
「はい、モロー工房から参りました。リリアス・コルトレでございます」
女性は眉をひそめ、
「リリアスって男の名前じゃないの?」
と言った疑問に、リリアスは答えた。
「私は孤児で、拾われた時に名前をリリアスと答えたそうです。皆がリリアンだろうと、言いなおしても、泣いてリリアスだと譲らず、そのまま戸籍に書かれましたが、普段はまぎらわしいからと、リリーと呼ばれております。ですが、初めて名乗る時はリリアスと名乗っています」
「あ、そう。じゃあ、ここではリリアスと呼ばせてもらうわ」
そう言ってから、リリアスより2,3才は年上に見える女性は、感情を隠してじっと見てきた。
いつもは工房の女性の監督にあたる立場にいるリリアスは、反対の立場になって、居心地が悪い。
赤い髪を綺麗に結い、細いうなじを強調する肩の見えるすっきりとした、深緑のドレスを着たリリアスは、日にあたらぬ生活で貴族令嬢かと思えるほど、透きとおった白い肌で、その美貌を無防備にさらしていた。
受付の女性は、リリアスの美しさと、スタイルの良さを強調するドレスに飾られた、レースの繊細さに驚愕していた。
自分達の工房でもこれほどのレースを作れる者はそれほどいないだろう。そのレースを自分の服に惜しげもなく使っているリリアスの腕に、ここに呼ばれるだけの事はあると、感心していたのだ。
「マダムがお待ちなの、こちらにどうぞ」
朝のピリッとした空気の中、窓辺に立っていた年配の背の低い女性が、リリアスが入室すると、明るい顔を向けてきた。
「ようこそ、リリアス・コルトレさん。あなたに会えてうれしいわ」
「マダムジラー、こちらこそお会いできて光栄です」
白髪交じりの髪をかんたんな夜会巻きにしたマダムジラーは、さすがに王宮に出入りする、洋装店の主だけあって小柄ながら貫禄が半端なかった。
朝のしつらえながらラフに着こなしているガウンでさえ、絹だった。その光沢たるや朝日にひかり、リリアスの目を刺すようだった。
マダムジラーは、リリアスにソファーにすわるようにうながして、正面に腰かけた。
そしてマダムジラーは、案内してくれた女性がいつの間にか火を点けた煙管を手に持ち一息吸い込んだ。
プファーと立ち上る紫煙が朝日に照らされ、ゆらゆらと天井にのぼっていく。
優雅な仕草に、リリアスは動揺した。
貴族の婦人を知らぬわけではない。仮縫いの時には立ち会わねばならないし、気配をけして、ただのお針子のようにふるまって、貴婦人を観察すれば自分達とは住む世界がちがう人種だと、痛いほど理解できた。
マダムジラーは富裕層の出であっても、貴族ではない。それなのに、リリアスが見たどの貴婦人よりも、品があり、貫禄があった。
王族と直接会うことができる人とはこれほどなのかと、あらためて王室御用達の看板の権威の重さに、思い至った。
「あなたの事は、以前から聞きおよんでいたのよ。ムッシュモローには、ぜひうちに、とまで申し込んだのだけれど、さすがにうんとは仰らなかったわ」
驚愕の事実である。リリアスが驚いた顔をすると、マダムは――ホホホ――と軽やかに笑った。
「ですから、お借りするという方法しかとれなかったのよ。迷惑をかけるかもしれないけれど、あなたと同様にわたくしも、妥協という言葉は知らないの」
煙管を手ににっこり笑うマダムジラーは、いつも朝起きてのぞいた鏡の中の、自分と同じ目をしていた。
「そのレースは、もちろんあなたが編んだのよね?」
獲物を狙うような目で、リリアスのドレスに縫い付けられたレースを見て、マダムジラーは興奮で頬を赤く染めた。
お高くとまって見えたこの人も、結局は職人なのだろう。今日重い足取りでやって来たリリアスは、少しほっとして胸をなでおろしたのだった。