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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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フリーワンライ参加作品

星の乙女

作者: 一条 灯夜

 冷え込んだ朝に、携帯電話の着信音が鳴り響いている。古臭い二つ折りの携帯電話に――、ああ、これは夢か、と、夢の中の僕は思う。

 思い出そうとすればするほど細部がぼやけていくような確かじゃない記憶なのに、夢の中ではいつまでもその色が褪せない。鮮烈に。その時に感じた心の動きも、まるで今、初めてそれに直面するような鮮やかさを持って……自分自身を苛む。


『もしもし、……修平?』

 姉さんにしては、ひどく平坦な声だった。

 でも、そんなのはもう珍しくもなんともなかった。姉さんが結婚して、この実家のある港町から遠く離れた生活を始めて二年。快活というわけではなかったが、明るく穏やかだった声は最初の半年だけだった。

「どうしたの、“また”お義父さんとなにかあった?」

 知らずに、僕の声は疲れたものになっていた。

 姉を心配する気持ちがないわけではない。だが、僕もこの春に大学を卒業し、就職して新社会人として働き始めていたので、心の余裕がなかったのは認める。

 しかし、言い訳をさせてもらえるなら、姉さん――というか、姉さんが結婚した家が悪いのだ。旦那となった男は、両親が妊活を諦めた頃に授かったとかで、三十になっても幼さが抜けず、楽天家であったし、その年老いた両親は痴呆が始まっていた。

 今の日本では、そう珍しくもない家族の姿なのかもしれない。

『ううん……それは大丈夫だよ。もう、永遠に』

「ああ、老人ホーム、結局なんとかなったんだ?」

 姉が向こうに嫁いでから、義父の痴呆症は急速に進んだらしい。

 最初は理解できなかったんだが、痴呆が入ると物忘れとかの単純なことだけではなく、怒りっぽくなったり――セクハラめいた言動を始める場合もあるらしく、それが原因で姉は陰気に、そして愚痴っぽくなった。

 男が嫌い、なんて、何回男の僕が聞かされたことか。


 姉は、最初の子供ということで両親に可愛がられて育てられたし、昔は学級委員長なんかを率先して行う優等生だったせいで、少し潔癖な部分があったのかもしれない。

 もっとも、そんな性格だからこそ、母性本能を刺激されてあんな男と結婚したんだろうけど。


 ――まあ、正直、僕は若干シスコンだったのかもしれない。四つも年が離れていて、なんでも完璧にこなす姉は自慢でもあったし、その優しさに随分と救われ、昔っから懐いていた。初恋も、姉さん相手だったなぁ。

 ――だから、今、こうしている結果に関しても受け入れている。他に、他人が理解する術はないのだ。僕と姉の間にあったことを。


「あ、帰省の話?」

 勝手に姉の言っていたことを、解釈した僕は、久しぶりに晴れやかな気持ちで、金曜の朝に時計を見ながら――食事は、通勤途中のコンビニででも済ませようと、身支度をしながらも、電話を優先していた。

 姉さんが、他に頼る相手がいない、というのは、やはり少し嬉しかったんだと思う。

 カレンダーを横目で眺めれば、今週も三連休だったし、それを逃したとしても来月にも三連休はある。

 介護がひと段落すれば、ようやく姉さんも羽を休められるな。

『違うよ。もう、戻ってる』

 鏡に映る、髭剃りを終えた顔が二~三度瞬きをしている。

 意味を理解するのに、時間がかかった。

「……は?」

 と、ようやく漏れた声はどこか乾いていて――、今更、なにかがおかしい事に気づき始めていた。

『家の門、開けてくれるかな?』


 姉の声を……、初めて、怖いと感じた。

 でも、僕しかいないのだ。


 ワイシャツにネクタイのまま、ジャケットを着ずに、導かれるように玄関へと向かう。覗き窓は見なかった。意味がない。

 ドアを開ける。

 姉さんの旦那の車が、家の前の道の止まっていたので、車庫へと入る門を開け――そして、車が漁に行っている親父の車庫に止まった瞬間に門を閉めた。

 運転席のドアを開ける。

 姉さんは、血まみれ――というわけではなかったが、ハンドルを握る手に乾いた血が張り付き、寒色の服の濃い色が、それとはっきりと気付かせた。

「姉さん……」

 それしか、言えなかった。

 姉さんは、どこか、呆けたような――でも、憑き物が落ちたような、そんな顔をしていたけれど、僕を見るなり震えだした。


 旦那を上手くあしらいつつも、その義父母の介護も完璧に行っていた姉さん。

 いつからか、全てを上手くやろうとして疲弊してしまっていたのだろう。


 返事が返ってこないせいで、僕は姉さんの腕をつかんで家へと入り、階段を駆け上がって――、出て行ったまま、徹底して現状維持していた姉さんの部屋へと向かった。

 姉さんは抵抗しなかった。大人しく、僕についてきている。


「大丈夫?」

「…………」

 姉さんは無言のままだったけど「誰かに話した?」と、訊ねれば首を横に振られた。その時点で、義父だけなのか、全員なのかは不明だった。けど――。

「逃げよう」

 と、僕は提案した。

 再び首を振る姉さん。

「無理だよ。ひどく、寒い……」

 腕の中に姉さんを包み込む。

 ふと、書架のギリシア神話の本が目に入った。姉さんは読書家で、日本神話と似ているギリシア神話についても好きで、子供の頃よくその話をしてくれた。

「しかたがなかったんだよ。姉さん、昔、話してくれたでしょ? 乙女座の神話。堕落する人の姿に、神様だって耐えられないんだから――」

 姉さんに、腕を強く捕まれ、言葉が詰まった。

「車で、海に飛び込もうとしたの。でも、出来なかった」

 姉さんは、顔を上げ、真っ直ぐに僕を見た。

「……僕に、それを頼むの?」

 喉が渇いて、心臓がうるさい。腕が震える。

 姉さんは、軽く笑って頷いた。


 動機を尋問された際答えたのは、ただ欲しいと思っただけ、だ。実際にそうだった。ずうと、姉弟だからと言い聞かせようとして、それでも無理だった。姉さんが先に爆ぜたから……僕も、そうなれたのだ。

 そして僕は、ようやく姉さんを手に入れた。



 今も、手元には、姉さんが好きだったあのギリシア神話の本が形見として置かれている。

 それだけで、いいのだ、もう。


 医療刑務所の、普通の……いや、窓が開かなくて、ドアも外からしか施錠できない病室が普通かは、分からないけど、特に囚人としての扱いはされていない。

 別に、“僕は”なにもしないんだけどな。


 だって、星の乙女は、地上を去ったのだ。

 最早、姉さんを縛るものなんて、なにもない。

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