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勇者の荷物持ち  作者: 竹内緋色
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1 春は死んだ

勇者の荷物持ち


1 春は死んだ


 今や昔話になってはいるが、それを実体験した人間にはとても大変な出来事だったとだけ述べておこう。

 それは誰も予期できなかった。冬が長く続くな、なんて呑気に考えていたら、とうとう、春が来なくなった。冬が春の分まで続いた後、いきなり夏だ。昨日まで氷が張っていたというのに、いきなり蒸発しそうな暑さだ。そうなるとどうなると思う?そう。飢饉ってやつだ。作物が全然育たない。すると、食い物がなくなる。そうすると、人は限りない食料を巡って戦いを繰り広げる。誰だって、世界を救おうだなんて考えはしなかったさ。自分が生き残るために食い物を奪うことだけ考えた。でも、春が来なくなって再び冬が訪れようとしていた季節、俺は世界を救おうなんて本気で思っている、酔狂な奴に出会ったんだ。


 俺は生死を彷徨っていた。いや、そんな生易しいことじゃない。生きてはいたが、体を魔物に食い荒らされている。俺の目の前で、魔犬が息を荒くして俺の内臓を貪り食っていた。魔物も飢えているとは、なんというご時世だ、と俺はその時思っていた。もう、痛みはどこかに消え去っていた。そういう意味では、俺は死にかけていたのだろう。それなら、意識も一緒に食べて欲しかった。目の前で自分が死にかける様子など観察したくはない。ひどい仕打ちだ。

 俺は勝手に村を出た。村で生きて、一生を無駄にするのも嫌だったが、なにより、あんな場所にいたら殺されるに決まっている。村の人間にではない。外から村を攻め入るものに対してである。最近、小さな村を襲い、食料を奪っていく山賊の類が頻発している。そんな奴らが攻め入ってきたら、村はひとたまりもない。それに、村の方だって、このまま飢饉が続けば、口減らしをするだろう。

 だから、俺は村を出た。出たのはいいのだが、出てすぐに、魔物に襲われてしまった。武器になりそうなものなんて持っていない。食料に比べれば、武器なんて大分安いものだが、それでも、村人ごときが手を出せるものじゃない。魔法も使えない。だから、俺が取れる選択肢は逃げる、だけだった。でも、レベルの低い俺は逃げられなかった。

 魔犬なんてのは雑魚中の雑魚であると聞いていた。猟師でも仕留められるのだから、逃げるのも簡単だろう、と悠長に構えていたのが間違いだった。奴らは背を向けた瞬間、足を狙ってきた。がぶりと一噛み。魔犬と犬とは大分違うんだな、と俺は思ったね。だって、一噛みで足の肉を引きちぎっちまうんだもの。痛みを感じている暇なんてなかった。足をやられて、動きが止まったと見るや、他の二匹――魔犬は三匹現れた――は俺の足を食いちぎった奴と同様に俺の肉を食いちぎる。今度は俺の背中に飛び乗り、俺に砂を舐めさせた。これで俺は完全に逃げる手立てを失ったわけだ。犬ながら、舌を巻くファインプレーだ。犬はモツは最高だぜェというように、俺の腹に牙を突き立てた。そこからは一方的な食事だった。神が食われるものの気持ちを分からせるためにこういうことをしたのだ、と言われたところで、納得できない。これなら、一思いに殺してやる人様の方がマシではないか。

 神なんて信じない、と人生最後に地獄に落とされそうなことを考えていると、なんだかよく分からない人が現れた。犬と戦っている。俺を救おうと言うのだろうか。でも、手遅れだ。戦っているのだから音が聞こえてもいいはずだが、何も聞こえやしない。ただ、剣を使い、いとも簡単に魔犬をやっつけてしまったことだけは確認できた。そして、俺に近づく。何やら叫んでいるようだが俺には聞こえない。俺にとって幸福だったのは、人生の最後に美少女の顔を見ることができたことだった。勇者は女の子だった。


 目が覚めた。俺は生きていた。全て夢だったのか。体を見る。服はボロボロだが、手足は引っ付いている。食い荒らされていない。顔を抓ってみる。痛みを感じる。夢ではなく、体の調子も良好だった。

「怪我は無いか?」

 俺に言ったのは、俺を助けてくれた女の子だった。でも、女の子らしいところはあまりなく、体は軽微な鎧をまとっていた。後ろで一まとめにした長い髪と凛々しい顔立ちだけが、彼女が少女であることを証明してくれる。

「助けてくれたのか?どうやって。俺は死んでた。」

「いいや、生きていたさ。魂はまだ君の肉体に残っていた。だから、なんとか一命をとりとめた。」

「回復魔法ってやつか。」

「君の場合には瀕死用の魔法だったがな。回復魔法は苦手だったから、助かるかどうかは賭けだった。」

 俺は、喜んでいいのか悪いのか、迷っていた。この時代、生きていたっていいことはない。

「ありがとう。ええっと・・・」

「マリナだ。」

「ありがとう、マリナ。俺の名前はカス。」

「カス、か。妥当な名前だな。」

「それはどういう意味だ。」

 案外失礼な奴である。

「さて、近くの村まで案内しよう。君はこの先の村の住人だろう。」

「ああ。でも帰りたくはない。」

「喧嘩でもしたのか。」

「いいや。あんな村に住んでたとことで、何一つとして希望はない。抜け出したとあれば、帰りづらくもあるしな。」

「だが、魔物の恐ろしさが分かっただろう。魔物の強さは大したことはないが、数と狂暴性はこの周辺では群を抜いている。それ故に村は交易が少なく、守られてきた。お前では簡単に死ぬ。」

「じゃあさ、俺を連れてってくれよ。マリナ。そもそも、どうしてこんなところに?この先は俺の村しかないぞ。」

「連れて行くことはできない。足手まといだ。ところで、君の村で春は見なかったか?カス。」

「春?そんなもの、どこにも訪れちゃいないだろ。」

「そうか。では、無駄足なのだな。」

 マリナは俺から離れていこうとした。俺は立ち上がってマリナについていく。

「確かに足手まといかもしれないが、女の子一人では危ないだろ?」

「構わない。俺はそこいらの男よりも強い。なぜなら、勇者だからな。」

「お前が?」

 俺は勇者というものを初めて見た。勇者とは、国家試験をパスしてなることができる、超エリートである。どんな軍隊の訓練よりも厳しい試練を乗り越えなければなることができない。勇者になると国を越えて活動ができ、金を払わずに宿をとれたり、食い物を食えたりする。なるまでが地獄だが、なってからは天国の職業。子どものなりたい職業ナンバーワンだ。その勇者は魔犬の死体を運んでいた。

「何をしようってんだ?モンスターの死体なんて持って。」

「町にでも持って行って金にする。どうやら、日が暮れるまでには町に帰れそうだ。」

「でも、勇者だったら、金なんて払わなくても大丈夫だろ?」

「そうでもない。我々の活動費は国の負債となる。それに、国の信用がガタ落ちしている昨今、笑顔でお泊り下さいなどと言ってくれる宿なんて存在はしないよ。」

 大変な経済状況であるのはわかった。ついていっても贅沢の限りは尽くせそうにない。

 マリナの持っている犬の死骸から、血が滴り落ち、マリナの衣服を汚していた。俺はマリナに声をかけた。

「勇者様。」

「なんだ。」

 機嫌が悪そうにマリナは答える。

「私めに荷物持ちをさせてください。」

 そして俺は勇者の荷物持ちになった。


「もうすぐ町に入る。犬を隠せ。」

「それもそうだな。」

 俺は服の下に犬を隠す。

 町に入った。それは酷い有様だ。人が路上で伸びている。死んでいるものもいたし、まだ生きていて動けなくなってしまったものも多いみたいだった。

「で、勇者様。これから何をなさるんですか?」

「宿屋に泊まって飯を食うんだが?」

「お金はお持ちで?」

「いいや。ないからこうやって犬を狩ってきた。」

 犬を一匹だけ持ってこいと言ったときはなかなか分かっている奴だと思ったが、てんで分かっていない。

「今まで一度も物を売ったことはないんですか?」

「なんだ。悪いか。」

「失礼なことを言うかもしれませんが、マリナ。魔犬一匹では宿にも泊まれない。」

「なんだと?でも、今は食料を誰もが欲しているではないか。」

「魔物はマズい。食ったことあるか?」

「いいや、ない。だが、売られていたぞ。」

「安値で、だろう?その店も大分割に合わないことをしたもんだ。多分、俺らみたいなやつから安値で買い占めたに違いない。」

 庶民の暮らしを知らないお姫様なのか。格好も見た所、南都側だから、北都に初めて来たのかもしれない。南都も北都もそれほど変わらないと思うが。

「では、どうすればいい。」

「ちなみに、この周辺で捕れる魔物は魔犬ばかりか?」

「魔犬と魔蛇くらいだ。」

 どっちもくえない。

「宿屋なら、どんなところでもいいな?」

「雨風をしのげて物を食えれば。」

「分かった。これから話をつけに行く。だが、一言も発するな。勇者様は黙って店主を睨んでろ。」

 少々高圧的な態度を取ってしまったが、そんなことで俺を斬るような勇者様ではないらしい。相当困っていると見えた。なるほど。使える。

 俺は一番ぼろい宿屋を見つけて中に入る。多分、この町で唯一の宿屋だろう。食事は保証できない。

「なんだ?」

 入るなり、カウンターに陣取っていたおっさんが言った。客に向かってなんだ、とはいい度胸である。

「泊めてもらいたいんだが。」

「なら、食うものをよこせ。金はいらん。」

「食事は貰えるのか?」

「やらん。」

 そうなると宿屋に泊まる理由もない。俺はマリナにヒソヒソ声で話す。

「だそうだ。そこらの家に勝手に入り込むのはどうだ。」

「・・・・・・」

「宿屋に泊まる必要もない。雨風をしのげればそれでいいだろ。」

「・・・・・・」

 マリナは固く口を閉ざしている。怒っているのだろうか。

「ああ、そうか。ヒソヒソ声でなら話してもいい。」

「人家に入り込むのはよくない。勇者には国の尊厳もある。ここが北都であろうともだ。」

 なるほど。勇者も大変だ。

「分かった。」

 俺は店主であろうおっさんに話しかける。

「食事は自分で確保する。アンタにも分けてやろう。ただ、魔物の肉だ。」

「例え出せたとしても魔物だろうよ。だが、相当な量がいる。魔犬ニ十頭だ。」

 ぼったくりだ。だが、それが正しい。

「今は一頭しかない。」

「じゃあ、帰れ。」

「だが、こちらは勇者様だ。」

「勇者が何になる。」

「お前を殺すことも簡単だ。」

「脅すのか?」

 なるほど、肝が据わっている。こんなことで上手くいくとは思っちゃいないが。」

「いいや。実力派お墨付きだ。犬ニ十頭でいいんだな?それ以上は出さない。」

「わかったよ。」

 店主は悔し気な顔をして言った。勇者の真偽を疑わなかったところから鑑みると、実力があれば真偽は問わないということか。なかなか難物だ。

「これから狩りに行くから、部屋の掃除でもよろしく願うよ。どうせ人も入っていないだろう。」

 今時宿屋に泊まるのはバカな勇者様くらいだ。だから、店主もガリガリ。

「私は犬を狩るなどと言ってはいないが?」

「いいだろう?」

 店を出たなりマリナは文句を言う。だが、どうすることもできまいよ。


「さあ、狩りをよろしく。ニ十頭な。」

「時間が足りない。」

「じゃあ、野宿だ。」

 しぶしぶ勇者は納得した。

「お前は何をする?」

「ナイフを渡せ。」

「態度がデカいな。」

「あ、追加でもう十頭狩ってくれ。」

「私のご機嫌はとっておいた方がいいと思うんだが。」

 まあ、俺も三十頭も狩れるとは思っていない。

「あ、それと、俺が行くところで狩ってくれ。囮にしてもいい。俺は俺でやることがあるんだ。」

 例え十匹だけでもそれはそれでいい。俺にもやることはあるんだ。


 結果的に勇者は三十匹狩った。それほど魔物がいることに驚きだが、勇者は魔物に狙われやすいのだとか。魔女がどうこう言っていたが、俺には関係ない。

「よし。そのマントを脱げ。あと、ヘルメットも。」

「何に使う?」

「ええっと・・・液体を汲む。」

「何の液体だ。」

 なるべく秘密にしたかったが、仕方がない。

「獣の油をとる。」

「何に使うんだ。」

「油ってだけで売れるんだよ。どんな獣の油でも、油なら問題はない。なんなら、他の鎧も脱いでもらおうか?」

「私は女だ。」

「その前に勇者だろう?」

 でも、流石にそれはしなかった。せっかくのお色気シーンが台無しである。

「先ほどは草を取っていたようだが、何に使うんだ?」

「草って言うな。薬草だ。といっても、そこらに生えている価値も何もないものだが。」

「じゃあ、どうする。」

「質問が多いヤツだな。信用が置けないのは分かっているが、黙って見ていてくれ。」

 まあ、別にマリナに被害があるわけではないしな。もう、被害を受けた後だから。

 俺は魔犬の腹を裂き腸を取り出す。皮を丁寧に剝ぎ、肉と革を引き離す。丁寧にやったつもりだったが、あまり上手にはできなかった。

「皮を剝ぐのか?」

 勇者が口を出す。

「そうだが。」

「やらせろ。」

 勇者の手際は見事だった。俺なんて数センチで革が切れてしまったのに、マリナはいとも簡単に皮を剝ぐ。

「人の薄皮よりは楽でいい。」

 ああ、物騒。

「じゃあ、このまま肉も細切れに。骨は折るなよ。」

「私だけ働いていないか?」

「遠い目で見ろ。」

 何やら不満たらたらに呟いていたが、しっかりと仕事はしてくれた。

 さて、下ごしらえは終わった。ここからは俺のターンだ。俺は丁寧に細かくしてくれた肉と薬草を混ぜる。そして、腸に詰め込む。

「それは、美味いのか?」

「ウインナーだよ。食ったことない?」

「いや。食べたことはあるけど、美味いの?」

「焼けば大抵なんとかなる。」

 火を焚いて焼いてみる。黒い肉の入った黒いウインナーはおいしそうには見えない。実際、美味しくなかった。が、食えないほどではない。

「これ、食べても大丈夫だよな。」

 そう言いながら、マリナは次のウインナーに手を伸ばす。

「腹を壊しても治癒魔法でなんとかしてくれ。」

「治癒は自分には使えない。」

 そんな魔法聞いたことはない。

「ああ。私のは魔法でも魔術でもない。奇跡に近いものだ。奇跡は人の身に余る。」

 まあ、そんなことはどうでもいいさ。俺さえ助かればそれでいい。

「これを店主にやるのか?」

「いいや。これは俺たちで食べる。よし。兜も熱くなったな。」

 そこに肉を入れる。ジュウ、という音はおいしそうだが、臭いは食えない。どぶよりも臭い。

「その臭い、なんとかならないのか。飯がまずくなる。」

「気持ちはよく分かる。だが、我慢だ。貧乏勇者様。」

 不満そうだが、文句は言わない。良い人なのだろう。つけ込める。

「だが、犬をどうやって運ぶ。」

「何回かに分けて運ぶほかないだろ」

「じゃあ、マントは――」

「捌いた肉を入れる。」

「ですよねー。」

 陽が落ちるまでになんとか肉を運び出す。

「ほら。肉だ。これで問題ないだろ。」

 店主は本当にできるとは思っていなかったのか、驚いた顔をしていた。ニ十頭も食いきれるはずはないものな。

「早く食わないと臭くて食えんぞ。食えないならどこかに売れ。まあ、ここにこんなに肉があるとわかると飢えた人々が群れを成して襲いかかってくるかもな。もしかしたら隣の町から来るかも。」

「脅してるのか?」

「いや。これは忠告だ。まあ、ここに来る前に大分町を歩いたけど。」

「鬼だな。」

 勇者が呟いた。

「俺はどうすればいい。」

 店主は泣きつくような声で俺にすがる。か・い・か・ん。

「ここには勇者がいる。一日くらいなら身の安全は保障できるけど?」

「くっ。嫌な奴だ。で、他には何の用だ。」

「何の用とは?」

「それだけだと釣り合わない。」

 なるほど分かってらっしゃる。

「名前は?」

「俺のか?」

「ああ。」

「マシュだ。」

「キリエライト?」

「違う。バグス。マシュ・バグス。」

「聖圏側の名前だな。」

「別にいいだろう。なんだ?もんざえもんとでも名乗ればいいのか。」

「なるほど。いつもその名前なんだな。」

「悪いか。」

「いいや。いい名だ。」

「早く話を進めろ。」

「そうだな。厨房を使わせろ。あと、あの魔物も要らないな?」

「分け前はもらえるよな。」

「二割。」

「三割だ。」

「随分下手に出たな。まあ、妥当だ。三割。」

「いや、四割。」

「調子に乗るな。」

 なかなか交渉しやすくなった。本来はこういう手を使うつもりではなかったが、まあいい。

「ただし、手伝うのが条件。儲けによっちゃあ四割でもいいが、この町で生きていくのに大金持はよくないだろ?」

「為せば成る、だ。」

「いいね。おっちゃん。気に入ったよ。」

 まあ、多分すぐに出て行くのだから、手法くらい教えてもいいだろう。マシュの目的もそっちだろうし。

 俺たちは夜遅くまで作業をする。体力は十頭で尽きた。

「案外うまいもんだな。」

 ウインナーを食いながらマシュは言った。

「どんな味覚をしているんだ。」

「本当の肉なんてもう何年も食ってない。」

 マリナも一緒に働いたからか、マシュと話すようになっていた。もう隠す必要はないからいいだろう。

「で、部屋の掃除は済ませたのだろうな。」

「・・・ま、まあ、な。」

 マリナの言葉にマシュは言いよどむ。

「勇者様。許してあげてください。」

 そして、耳打ちをする。

「多分宿屋はここしかない。」

 マリナは大きくため息を吐く。

「まあ、一部屋でもまともであればいい。」

「そうか。ご苦労。」

「え?」

「カス。お前が外で寝るのだろう?」

「一緒にベッドに――」

 俺の喉に人の丈ほどある大剣を突きつける。一ミリでも動けば俺の喉は血を噴き出しただろう。また、お色気は無しか。


 部屋は埃ばかりでなす術がない。それはマリナの部屋も同じだった。あのポンコツおやじめ、と悪態を吐いても仕方がない。ベッドに寝込む。ホコリが舞い、咳き込む。えらい宿である。だが、まだ宿屋があるだけ奇跡なのだと思った。

 これからのことなど考えていない。ただ、この町で冒険を終わるのは嫌だった。もっと大きな町に行かなければならない。できれば南都の首都に行きたかったが、勇者様についていくから場所を指定はできないし、今は戦乱の真っ最中であるから、南都に行こうとしても行けはしないだろう。

 そう言えば、俺は勇者様の使命とやらを聞いていない気がした。その使命によっては南都に行けるかもしれない。マリナのやろうとしていることに興味がなかったが、興味が湧いた。

 きゃああああああ。

 女の悲鳴が聞こえる。すぐ近くで。誰かが襲われているのだろうか。だとしても俺には関係ない。こんな飢餓の中で精力盛んなモンキーもいるものだ、というくらいにしか考えていなかった。

 そして、どたどたという音。そこで異変に気付く。気付いたときには俺の部屋の扉は開いていた。

「何やってんだよ。」

 男の部屋にノックもなしに入ってこないでほしい。男の子は女の子より秘密でいたすことが多いのだ。ばん、と俺の胸に温かいものが飛び込んでくる。それは俺の背よりも低かった。

 初め、マシュだと思った。俺にラッキースケベ属性はない。だが、その温かく柔らかい感触は女のものだった。

「マリナ、か・・・?」

 下半身の血流がよくなる。俺は必死で息子をなだめる。おばあちゃんが言っていた。女に一物をニギニギされると男は一貫の終わりだと。

 俺は抱きついてきたマリナを引き離す。その姿は、鎧姿とは一変してあどけない少女らしいキャミソールだった。冬が近い時期にそんな格好をして寒くないかとかそんなことはどうでもよく、汗など何日も流していないであろう大衆は男の野蛮なものではなく、甘く甘美でとにかくこの世のものとは思えない代物だった。

「マリナ。怒るかもしれないが聞いてくれ。」

 震えていたマリナはまつ毛に涙をひっつけながら、俺を見る。

「俺、小さい胸は無理なんだ。ごめんよ。」

「死ね。」

 俺は思いっきりひっぱたかれ、隣の壁に激突し、そして、壁を突き破って隣の部屋まで侵入した。そこはマリナの部屋だった。俺の体を何かが這う。

「ご、ごきっ。ごきぶり・・・・」

 マリナは泣きそうになりながら俺の方から逃げていく。言葉から察するに、俺の体を踏む付けて行った無礼者は家庭を住みかとする平たくてつやつやとした彼であるみたいだった。確かに、それは俺を不快にさせるが、それ以上に俺を興奮させる。

 息子が俺に命令する。

 沸騰せよ。その理性・・・!

 俺は近くを彷徨っている彼を鷲掴みにする。立ち上がり、じわじわと、卑猥にマリナのもとへと歩んでいく。マリナは恐怖を顔一面に浮かべながら彼を凝視し、おずおずと退却していく。とうとう、部屋の角にまで追い詰める。逃げ場を失ったマリナは近づいてくる俺に恐怖している。この征服感がたまらない。マリナが俺のものになった瞬間だった――はずが。

 マリナの手には大剣が握られていた。さっきまではなかったはずだ。なのに、間違いなく握られていた。

「ごきぶりを殺すんじゃない。ごきぶりを殺すんじゃない。ごきぶりを殺すんじゃない。」

 病的にマリナは呟いている。

「人を殺す。人を殺す。人を殺す。」

 俺は逃げようとした。

「人なら殺せる。」

 勇者様の倫理観がどうなっているのかは分からない。俺は間一髪で大剣をかわすと、一目散に外へと逃げ出す。マリナは追ってくる。

「殺す殺す殺す。殺すのは人だ。ごきぶりじゃない。」

 そうやって俺たちは夜中、ずっと追いかけっこをする羽目になった。寒さがどうとか言ってられない。生きるか死ぬかなんだ。

 ちなみに、お互い落ち着いたころに手を見ると、俺の手の中で彼は息絶えていた。多分、走り出した頃にはもう死んでいたと思う。残ったのは手に着いた気持ちの悪い粘液だけだった。


「金にもう意味も何もないのは分かっているよな。」

 俺はマシュに言う。

「ああ。分かってはいるが、どうして織物と鉄なんだ?」

「鉄はお前にやる。」

「鉄なんて貰っても困るぞ。」

「でも、食料と交換してくれるヤツなんていないだろう?」

「そうだけどよ。」

 俺たちは肉と交換で織物か鉄を要求する。集まるのは圧倒的に織物と生地が多い。食えないものと食えるものが交換できるとあって、飢えた者たちが殺到した。自分の服をその場で脱いで渡そうとするものまでいたので、流石にそれは辞退してもらった。

「あの嬢ちゃん一人で大丈夫か?」

 勇者様には狩りに出てもらった。

「まあ、勇者様だからな。」

「本当に勇者だったのか?」

「信じてなかったのかよ。ま、帰って来てみれば分かるさ。」

 口は動かしても手は止めない。止められる余裕はない。食料を例え不味くとも安売りしているのだ。

「あら。これは・・・魔獣の肉、かしら?」

「はい。いらっしゃい。」

 俺は客を見る。その姿は、うら若き乙女だった。黒いゴシックドレスに日笠。その整った顔にはうっすらと笑が浮かんでいる。

「どうやら、たくさん売っているみたいだけど、どうやって狩ったのかしら。教えて下さらない?」

 乙女は俺の目をじっと見つめる。顔には笑が浮かんでいるのに、どうして背筋が凍るように硬直しているのだろう。

「いえ。これを言ってしまうと商売にならないので。」

 俺は平然を装い、乙女に言う。

「うふふ。なるほど。私を商売敵だと思ったのね。いいわ。」

 何がいいのか分からない。

「では、鎧を着こんだ髪の長い女は知らないかしら。」

「いいえ。知りませ・・・んっ。」

 即答しようと思ったが、途中で異変に気づき、喉を詰まらせる。一瞬、乙女の瞳が赤く光ったように思えた。

「あら。そうなの。私、その方を探しているのだけれど。まあ、いいわ。」

 何がいいのか分からない。

「そういうことにしておいてあげるわ。」

 うふふ、と上品に笑い、女は何も買わず立ち去っている。

立ち去り際、

「長生きの秘訣は嘘を吐かないことよ。」

 と抜かやがった。

「なあ、マシュ。」

 俺は隣の相棒に声をかける。

「なんだよ。」

「さっきの女の子だけど――」

「女の子?何のことだ、そりゃ。さっきからおばはんばっかじゃねえか。幽霊でも見たんじゃねえの?」

俺は思わず納得してしまった。それほどまでに乙女は幽玄のって雰囲気だったからな。


店をたたもうとした時、店の前にずっと突っ立っている小僧がいた。雑巾のような汚らしい布きれを見せながら、俺たちを見ている。俺もマシュも相手にはしなかった。

「おい。待て。」

 俺たちを呼び止めた者がいる。全身鎧で身を包み、大剣を背負った勇者様――マリナだった。

「なんだよ。」

 俺は少し苛立った態度で言う。次に善良な勇者様が何を言うのかよく分かっていたからだ。

「この子に食べ物を与えてもいいだろう。」

 俺は呆れかえって、マリナに問う。

「今日、何頭捕れた?」

「話を逸らすな。」

「何頭捕れたかって聞いてんだ。」

 少し高圧的に言った。俺はひどく不快だった。正義を正義だと思っている奴ほど救いのない存在はないからな。

「十匹だ。」

「そういうことだ。」

 マリナは悔しそうに俺を睨む。

「お前の力など要らない。荷物持ち失格だ。」

 そうかよ、と子どもの戯言のようにあしらう。俺は少し危機感を持っていたが、まあ、なんとかなるだろう。

「魔犬は私のものだ。」

「食い意地の張る勇者様だこと。」

 マシュはおどおどと俺たちを交互に見る。はた目から見れば一触即発なのだろうが、勝負はすでについている。勇者が俺を攻撃した時点で俺の命は十中八九ないのだから。でも、これだけは譲れない。

「その犬をどうするんだ?腹をすかせた奴らに配って回るのか?」

 マリナは苦しそうな顔をする。そう、誰だってそんなことをした後の結末を簡単に予想できるのだから。

「ああ。そうだ。」

 そう言ってマリナは俺たちの前から姿を消した。立ち去る前に小僧に肉を与えていた。


 がさごそと隣の部屋から物音が聞こえる。マリナが帰ってきたようだった。昨日破れた壁はマシュが布を張って、見えない様にだけした。なので、音は一際大きく聞こえる。

 がしゃり、という鎧が床に落ちる音。衣擦れの音。ばたり、とダニやノミの温床であるベッドに倒れ込む音。そして、枕に顔を押し付けて声を出さないようにしながら泣く音。

 マリナは精一杯魔犬を探して、それでも十頭ほどしか捕れなかったのだろう。単純に魔犬の数が減ったということもあるが、あれだけ乱獲したのである。群れが場所を変えたに違いない。町の近くにはほとんどいなかったであろう。

 別にマリナと話すべきこともなかった。でも、朝になったらあいさつくらいしようかと思っていた。だが、朝目を覚ますと、もうマリナはいなかった。


 部屋に兜が転がっていた。その中には白く固まった油がある。返さなくちゃな、と思い、返せないことに気付く。マシュ曰く、もう部屋を引き払ったそうだ。せっかちなやつだ。

「お前は出て行かないのか。」

「なんだ。もう厄介払いか。」

「ああ、そうだ。お前らは厄しか運んできそうもない。」

「襲いかかってくるものは大抵碌なもんではないさ。それを厄とするかグッドラックとするかは自分次第だ。」

「なんだ。ガキのくせに。」

「アンタより年上の婆さんの受け売りだ。」

「こんなところまで商売か。」

 考えすぎだろ。それは。

「で、今度はどうするんだ?もう魔犬はないだろう。それでも大軍を作っているから困るんだが。」

「襲われたら頑張って太刀打ちしろ。」

「逃げろとは言わないんだな。」

「一度逃げるとずっと逃げることになるからな。」

 マシュは肩をすぼめただけで答えとした。


 荷車に荷物をまとめる。大量の布類と獣の骨と毛皮。そして、最後に兜を詰め込む。骨と油はこの町で処分できればよかったのだが、仕方がない。ここに長居していては危険だ。

 何が危険かって?これが危険なんだよ。

「よう。アンタがこのスクナビコナで荒稼ぎしたっていう商人かよ。」

 荷車の周りに、男たちが囲んでいる。頬は痩せこけていながらも、かつてついていた筋肉はそれほど衰えは見せていない。服から地肌へと伸びる傷の後は、カタギではないと語っている。

「これから出て行こうと思っていたんだが。」

「それはいい判断だ。だが――」

 一人がしゃべり、他の男たちはニヤニヤと俺を見つめている。見た所、数は十人ほどだが、隠れている数を考えると途中で考えるのを止めたくなった。

「アンタを行かせるわけにはいかない。」

「どうしてだ。この荷物はくれてやる。」

「そんなことは当たり前だ。前提。言葉、分かるよな。」

 どこの国にも町にも裏で商売を握っている者はいる。ヤクザというやつだ。で、彼らがそのヤクザというわけで。

「事前に話を通さなかったのは悪いと思っている。だが、あまり金になる話ではなくてね。」

「金?」

 わははは、と下卑た笑いを見せる。これは良くない展開だ。

「金なんてもう価値もなにもない。そんなこと分かっているだろう?お前の同業者はほとんどが山賊やらの奪うものに成り果てている。」

「じゃあ、お前らの目的はなんだ。」

 ヤクザは笑みをより一層邪悪にする。早く聞いて欲しかったに違いない。

「勇者、だよ。」

 その時、俺の脳裏に浮かんだのは、マシュだった。勇者のことを知っているのはこの町でアイツ以外いない。

「勇者ってのは身元がしっかりしている。つまり、どこに行ってもやりたい放題ってことだろう?そんな便利な道具、お前みたいな若造には手に余ると思ってな。」

 悪知恵には感服する。まあ、俺も同じような事を考えていたのだが。

「残念ながら、勇者とは仲違いした。」

「それならそれでいいさ。だが、やってみないのは性に合わなくてな。」

 なかなか勤勉らしい。

 俺は襲われた。抵抗はしなかった。だが、ぶん殴られた。右に一発。それで地面に倒れる。その後立ち上がることもなく、そんな俺をよってたかって蹴り上げやがった。早く意識がとばないか、と俺は神に祈った。


 目を覚ます。体中が痛い。そして、体の自由が利かない。目を開けた時、俺の目の前にいたのは椅子の背もたれに腕をかけて、逆に座りながら俺を見ている少年だった。ヤクザの下っ端なのだろう。

「目覚めはどうだ?」

「最悪だ。」

 お決まりのセリフである。

「他の仲間は?」

「みんな外で勇者が来るのを待ち構えている。」

「戦って勝てる相手だと思うか?」

「でも、人質がいる。」

「俺は人質にもならないさ。」

 これは嘘だった。あのお人よしは俺を人質にされると一瞬でもためらうかもしれない。勇者であっても人だ。その一瞬が命取りになる。

「俺はゲンクロウ。」

 少年は名乗った。

「俺はカスだ。」

「そうか。カス。あんたは何者なんだ?どうしてそんな歳で商人なんかしている。」

「俺は商人じゃない。」

 そう言うと、ゲンクロウは少し不満そうな顔をする。

「じゃあ、色んな場所を旅してきてはいないのか。」

「残念ながら。そこのウズメ村の出身。勇者とは一日しか一緒にいない。」

「なるほど。これじゃあ、人質にはならないな。」

 どうでもいい、といった風にゲンクロウは話していた。

「じゃあ、友だちになろう。」

「は?」

 俺は間の抜けた声を発する。だが、目の前の少年は本気のようで、少年らしい笑顔を俺に見せる。

「俺にヤクザになれってのか?」

「その言い方をすると、大人たちにボコボコにされるぞ。青年会だ。青年会。」

「ぬかせ。」

 そう言うと、少年はげらげら笑う。

「その度胸、気に入ったよ。ちなみに、あの肉の調理方法はカス。君が考えたのかい。」

「そうだ。」

「すごいじゃないか。君なら、すぐに青年会の地位につけると思うんだけど。」

 褒められたことは純粋に嬉しかった。だって、誰一人として俺を誉めはしなかったものな。

「だが、お断りだ。こんな町で終わるつもりはない。」

 こんな場所は夢がない。未来がない。可能性がない。どこもこんなところと一緒なのだろうけど、ここよりいい場所はどこかにあるはずだ。

「君、大物になるね。どう思う。カス。飢えも何もない町がどこかにあると思うかい?」

「ないな。」

 俺は断言する。他の大陸を行けば話は変わるかもしれないが、少なくともこの周辺はもう終わっている。

「そうか。俺もこんな場所は出て行きたい。なあ、カス。俺と一緒にこの町を出ないか?」

「それが許されるのか、お前は。」

「それはやってみなくちゃ分からない。ダメだったらダメ。でも、青年会も町から出たら手出しは出来なくなるさ。ガキの一匹や二匹で騒ぐほどの組織じゃないしね。」

 俺はゲンクロウとの未来予想図を描き出す。そこで聞いておかなくちゃいけないことがあった。

「お前は何ができる。魔物を倒せるのか。」

「それは無理だね。」

 即答だった。

「でも、カスの手足となろう。君を絶対に裏切ったりはしない。君を失望させないように努力してみせるさ。」

 芯の通った眼差しでゲンクロウは俺を見つめる。その瞳に嘘はなく、瞳の輝きは期待に満ち溢れていた。

「お前、ホモじゃないよな。」

「え?」

 言いよどむ。そして、頬を紅潮させる。止めてくれ。確かに、男の割りに可愛らしい顔つきではあるのだが――

「そんなことより、あの荷物はなんだい?ゴミしかないってみんな嘆いていたけど。」

「話を逸らすな。」

 俺は戸惑っていた。急に未来予想図を書き換えなくてはいけなくなった。一緒に野原を駆け回り、一緒に笑い合い、そして、ベッドを共に――ああ、もう、止めてくれ。

「俺たちは友達だ。いいな友達だ。復唱しろ。」

「俺たちは友達。俺たちは友達。いいおホモ立ち。」

「俺はホモじゃない。お前もホモじゃない。

「俺はホモじゃない。カスはホモかもしれない。」

「真面目にやれ。」

「俺はカスのいいおホモ立ち。愛玩奴隷。あんなことやこんなことも。きゃっ。」

 可愛らしくきゃっ、とか声を上げるな。早く縄を解いてくれ。俺の貞操が危ない。

「ま、お遊びはここまでとして、あの荷物はなんだい?あんながらくたでどんなプレイを。」

「妄想は止めろ。」

 だが、俺は確実にゲンクロウに心を開き始めていた。ゲンクロウになら話してもいいと思い始めていた。

「誰にも言うなよ。男と男の約束だ。」

「もちろんだ!漢と漢だもんね。」

 もうツッコむのはやめよう。ゲンクロウが望むのなら、首輪でもつけてやる。

「あれはな――」

 俺が話し始めた時、外で悲鳴が聞こえた。その声は新鮮で、胸が締め付けられる。ゲンクロウを見る。ゲンクロウの顔は硬直していて、目は光を失ってしまっている。絶望に満ち溢れた表情。

 その時、開け放たれていた扉から人影が現れた。その影は部屋に入って来ようとしているものではなく、何かに怯えて、逃げ出そうとしているものだった。その人影を一突き。槍のような長い棒の影が貫く。心臓。するりと槍の抜けた心臓からは噴水のように血が溢れ出す。

「逃げろ!ゲンクロウ!」

 俺は叫ぶ。ゲンクロウは俺の方へと向かって来る。俺など放っておいてよかったのだ。逃げ道はいくらでもあろうし、隠れる場所だってあるはずだった。でも、俺に向かって来る。それは気が動転して俺に助けを求めたわけではない。ゲンクロウは俺の束縛を解こうとして、そして、頭だけが俺の足元にたどり着いた。

「ゲンクロウうううううううう!」

 何で最期だけしか名前を呼んでやれなかったのだろう。そんな悔いしか残らない。

 カタ、カタ、とこの惨状を引き起こした人物は向かって来る。ゲンクロウの体の横に並んでその人物は言った。

「助けに上がりましたわ。人質さん。」

「お前は何者だ。」

「あら。命の恩人に対してその口はないんじゃありませんの?」

 黒いゴシックドレス。屋内だというのに日傘を差している。それは昨日見た漆黒の乙女だった。

「このお坊ちゃんはあなたのお友達だったのですね。なんて特殊な趣味なんでしょう。」

「お前はマリナの仲間なのか?」

「勇者様はマリナなんておっしゃるの?なんて女の子みたいな名前なんでしょう。」

 こいつはマリナの知り合いというわけではなさそうだった。それもそうだ。マリナがこんな残酷な仕打ちを望むわけがない。

「早くあなたを引き渡しなさい、と言ったのに、話が違う、なんて言うんですから、じれったくなってみんな殺して差し上げましたわ。でも、これほど騒ぎ立てれば勇者様も出てくるのでしょう。」

 今の言葉で、ヤクザをそそのかしたのはこの女であることがわかった。

「勇者は来ないさ。仲違いした。」

「あら。では、あなたは用済みね。」

 短気にも程があろう。女は自分の背後から棘の触手を出現させる。これが噂に聞く魔女なのか。禍々しいそれは残酷な乙女に似あっていた。

「さあ。死んでくださる?」

 俺はどうすべきか考えた。こんなところで、こんな女に殺されたくない。

「待て。俺は勇者の顔を知っている。勇者に近づくこともできる。だから――」

「だから?」

 殺さないでくれ。そう命乞いしようとした。

「その必要はない。」

 芯の通った声が響く。現れるもう一人の人影。それは紛れもない勇者だった。

「あら。あなたがマリナさん?」

 驚いた顔をして乙女が言う。そこに現れたのは鎧を見に纏ったマリナだった。

「ああ。そうだ。イスラフィルの勇者、マリナ・デネヴだ。」

 その堂々とした姿は壮年の騎士顔負けだった。正義を愛し悪をくじく。それを体現したような姿。

「女の子だったのね。ああ。なるほど。どおりで。」

 乙女は俺の方を見る。いやらしく笑みを浮かべながら。

「違う!断じてそうではない!」

「あら。私はまだ何も言ってないのだけれど。」

 話術では乙女には勝てないとはっきりわかった瞬間だった。

「早くカスから離れろ。」

「もう名前で呼び合う仲なのね。」

 ペースは乙女に握られていた。

「早く助けてください。勇者様。このままでは殺されてしまいます。」

「あら。簡単に殺しはしないわ。あなたは大事にいたぶってあげようと思っていたのだけれど。」

 ああ、恐ろしい。早くなんとかしてくれ。

マリナは一度も俺と目を合わせようとしなかった。

「お前は何者だ。」

「あら。申し遅れましたわ。私はウメノ。あなたと同じ勇者ですの。」

「勇者、だと?」

 マリナは眉間に皺を寄せる。

「あら。疑ってらっしゃるの?では証明してあげますわ。」

 ウメノは触手を出現させ、マリナに叩き込む。マリナは大剣で触手をぶった切る。

「あら。野蛮な人。」

 触手は際限なく現れる。それは黒々とした地面から生えてきていた。マリナはその触手を避け、大剣で防ぎ、しかし、ウメノに斬りかかろうと近寄っては来ない。

「この殿方が気になって全力が出せないようね。いいわ。でももう終わり。」

 マリナの足元から無数の触手が現れる。そして、マリナは大きな棘のびっしりついた触手に囚われた。

「う、がっ。」

 マリナは血を吐く。棘は鎧を貫通していた。

「あはははは。それでも勇者なの?全くだらしがないわね。」

 だが、ウメノは急におっかない顔になる。なぜなら、マリナの体から光が発せられていたからだ。

「これは――」

 マリナの光は触手を焼き払う。マリナ自身の輝きではない。マリナの鎧が光を発していたのだ。マリナの鎧は空いた穴をみるみる塞いでいく。

「この――」

 ウメノは次々に触手をマリナに差し向ける。そのどれもをマリナの鎧ははじき返す。

「決して傷付かない身体――まさか、西の神話の英雄、トメド――」

 ウメノは焦っているようだった。形勢は逆転した。今のマリナは無敵であった。

 一歩一歩、マリナは歩みを進める。マリナがウメノに近づいていく度、ウメノの顎から汗が滴り落ちる。あと一歩でマリナの大剣の間合いに入る。そんな時だった。ウメノはマリナの視界を防ぐように触手を壁のように築き上げる。その壁をマリナが両断した時には、すでにウメノの姿はなかった。ついでに、俺もどこかに消えていた。


「いいザマだな。」

「うるさいわね。黙りなさい。」

 ウメノは俺を触手でぐるぐるにしながら、町を全力疾走していた。大層な靴を履いているお蔭で、ひどく走りにくそうである。

 マリナは追っては来なかった。俺のことなどどうでもいいと思っているのだろう。

「にしても。あの女。追ってこない。わね。」

 ぜえぜえ、と合間に呼吸しながらウメノは言った。

「これ、どこまで行くんですかー。勇者様―。」

 対する俺は触手に担がれているので、ひどく楽ちんである。役得役得。

「ウザいわね。アンタ。自分で歩きなさい。」

「言葉遣い荒くなってますよ、先輩。」

 俺は問答無用で地面に叩きつけられる。

「ほら。早くついてきなさい。」

「いや。縄でグルグル巻きなわけですよ。これが。」

「ちっ。」

 遠くから聞こえるほど大きな音でウメノは舌打ちした。そして、触手の棘で俺の縄を斬る。

「いてえ。肉まで斬るんじゃねえ。」

「あら。どっかのネズミが軽口を叩くものだから、思わずザクリと逝っちゃったわ。」

「なんだか殺すつもりのように聞こえたのは気のせいでしょうか。」

 とはいえ、精度が落ちているのは確かなようだった。汗をたらたら流している姿はいやに艶めかしい。

「もう歩けない、とか?」

「そうよ。何が悪いの?聖像物を使うと体力がもってかれるの。アンタのせいよ。」

 触手で俺を倒そうとするが、その触手も力がない。そのお蔭で難なく躱すことができた。

「なあ、これ。治してくれよ。血がたらたら流れてるんだけど。」

 斬られた腕からは血が出ている。多分そのうち止まるだろうが、少し傷口が広く、化膿するかもしれない。

「はあ?そんなことできないわよ。」

 地面にへたり込んでウメノは言う。絶対こいつ、聖像物とか以前に体力がない。

「勇者様ならできるだろ?」

「ああ。そういうこと。あの女にはできたのね。」

 ニヤリと笑ってウメノは言った。だが、苦しそうだ。

 はあ、と俺は息を大きく吐いて、ウメノのそばに向かう。

「何?アンタ、私に楯突こうとでも?少しでも触れば――きゃっ。」

 俺はウメノの体を両手で持ち上げる。思った以上に軽く、小さい身体だった。

「何を考えてるのよ。」

 顔を赤らめてウメノは言う。服から見ても分かるように、お色気とは程遠い体だが、まあ、役得役得。

「どこまで行かれるのですか。お嬢様。」

「そんな近くで。止めてよ。息がかかる。」

 顔を真っ赤にして訴える。可愛い奴め。

 俺はそのまま歩き出す。ウメノは観念したのか、無言で行き先を指さす。そこは俺の村とは反対側の町の外だった。

「アンタ、あの女の仲間じゃなかったの?」

「いいや。違うな。」

 絶交されたのだ。俺を救いに来たように見えたのも、偶然そうなったに違いない。

「俺は俺の目的さえ果たせればいい。そのためにはマリナだろうと先輩だろうとどっちでもいいのさ。」

「下衆ね。」

「それはどうも。」

「やっぱり、ソッチ系の人・・・?」

 そんな怯えた目で見ないでください。

「あ、そこよ。ソッチ系。」

「完全なる綽名だな。」

 ウメノの指定した場所には大きなトランクが一つ置いてあるだけだった。ここがウメノのホームなのだろうか。俺はウメノをトランクの横に置く。

「で、あなたの目的って何?」

 早速ウメノは聞いてきた。

「先輩も言えるか?」

「つべこべいわず言いなさい。」

 だが、言うことはできないさ。目的を知ればその人物を簡単に操ることだってできる。つまりは最大の弱み――

「先輩の目的はマリナを倒すこと。違うか?」

 わざわざ俺を囮にしてマリナを呼び寄せたのだ。話しあいたいって雰囲気でもなかったし。

「さあ。どうかしら。」

 そこにつけいる隙はある。

「そこで提案なんだが。」

 ウメノは予想外だわ、という目を向けて寝そべりながら俺を見る。

「協力しよう。」

「私とあなたが対等だと?」

「でも、俺の協力が必要じゃないのか?」

 でなければ、俺をわざわざ運んできたりはしないだろう。

「話くらいは聞いてあげるわ。」

 正解のようだった。

「俺は囮として使えるし、マリナの情報を少しくらいは知っている。だから、先輩は俺のやることに協力してくれるか?」

「条件にもよるわ。」

「別に先輩の手を煩わせることじゃない。少し、魔獣を狩ってほしいんだ。」

「なるほど。昨日と同じことをするのね。まあ、あの女を殺すよりは容易いわ。」

 すると、突然目の前に数十体の魔犬が死骸で現れた。どうやら触手で狩ったらしい。

「捌きなさい。」

「お安い御用。」

 トランクから投げられたナイフを受け取り、魔犬を捌く。ナイフはキラキラと輝き、装飾もついていて、売れば大金ができそうだった。

 俺は魔犬から肉を取り出し、ウメノに渡す。

「そんな塊で食えと?」

「いや、そんなつもりはなかったんだけど。」

 俺は自慢するつもりだったが。しかし、この女、魔犬をそのまま食うつもりなのか。

「薄くスライスしてさらに乗せなさい。」

 いつの間にか皿が触手によって俺に差し出されていた。便利だな触手。一家に一台欲しいぜ。俺は言われるままに肉をスライスしてさらに乗せる。すると、触手はウメノの方に皿を持っていった。ウメノはフォークを持って待ちわびているようだった。

 ウメノはおいしそうに魔犬の肉をたいらげた。

「美味しいですか。先輩。」

「味は美味しくないわ。でも、体が求めてるの。」

 勇者の体はよく分からない。俺は五体分をスライスする羽目になった。肩が凝った。

「で、アンタは何がしたいの?」

 ウメノは白いハンケチで口を拭った後、俺に聞いた。

「町に戻って荷物を回収したい。それと、工芸品を加工する職人と会いたい。」

「変な趣味ね。」

 自分に害はないと思い、ウメノは興味を無くしたようだった。

「私の身体目的ではないのね。」

「いや。先輩のようなロリボディは需要が低いかと。」

「今度言ったら殺す。呪い殺す。」

 この手の話は女性を激昂させるらしい。反省、反省。

「でも、町に戻るのはダメよ。あの女に見つかるもの。」

「でもなあ。なんとかなりません?」

「ちゅーちゅーわがまま言って。ちゅーちゅー?まさか、私の体をちゅーちゅーしたいってこと?」

「いや。違う。断じて違う。そんな目で見るな!」

 ともかく、ウメノはけだるそうにトランクから布を取り出す。

「まあ、これに着替えなさい。誰も寄り付かなくなるから。」

 それは、明るい色のドレスだった。

「いや。これは――」

「あと、これも。」

 次に出したのは赤ちゃんがつけるような頬かむりのようなもの。

「これは、ビジュアル的にちょっと。アニメ化とかイラストかした時に問題が。」

「作者みたいな三文文士にそんなチャンスあるとでも?」

「それもそうですね。」

「それと、アンタの命は私が握ってる。」

 ウメノは飛んでいた蝶を串刺しにして見せた。いや、秋なのに蝶飛んでるんだな。昆虫はまだ生きてる方なのか。

「はい。喜んでやらせてもらいます。」

 俺は即答した。俺の命のはかなさを代弁するように、蝶の羽はバラバラになって地面に落ちていった。


 人の目が気になる。そりゃあ、目立つさ。この格好は。着た衣服はサイズが合わなくてミニスカートみたいになっているし、そこからはみ出る足は鶏のように毛が生えてぶつぶつだ。頭には妙な被り物。絶対に近づきたくはない。その近づきたくはない人物が俺であるのがなおさら救われない。

 荷車を押して、職人の小屋に着く。場所はマシュに事前に教えてもらっていた。マシュは元気なのかな、などと考えてみる。きっともうこの物語に顔を見せることはないだろうけど。

「ごめんください。」

 入って行った瞬間臭ったのは、しみったれた臭い。その臭いは目の前の無気力そうな老人が出している。老人は俺に無言で目を向ける。なんだ、と無言で語っていた。

「骨で工芸品は作れるか。」

「金はいらん。」

 作れるということだろう。

「魔犬の肉でどうだ。」

「かまわん。」

 老人は平然としていた。この姿を見ても平然としていられるのは、なんというか、素晴らしい。

「前金として一頭。」

 俺は老人に犬を差し出す。

「二日で作れるだけ作ってくれ。作れた量によって犬を渡す。一頭分の骨で一頭でどうだ。」

「五頭だ。」

「それでいい。」

「これは餞別だ。」

 俺はマリナの兜を差し出す。

「これはいいものだな。」

「渡すのは油だけだ。」

「罰当たりなことをしよって。」

 老人は油を鍋に移しながら、兜をまじまじと見る。

「トメドの兜か。よくできておる。だが、偽物だな。」

 ぽいっ、と老人が投げた兜を受け取る。俺は質問する。

「トメドってのはなんだ?」

 老人はバカにするように息を吐いた後語る。

「西の大陸の昔話だ。その昔、西の大陸を切り開いた英雄がおった。その英雄はどんな攻撃でも傷一つ負わなかったという。ワシが知っておるのはそれだけじゃ。」

 俺はマリナの姿を思い出していた。光を纏った後の姿は、老人の語る英雄の姿と重なる。だが、その前のマリナは傷を負っていたはずだが――

「約束を違えるなよ。」

「そっちこそ。」

 帰れという意思表示なのだろう。俺は小屋を後にする。また外に出るのは嫌だったが、仕方がない。軽い扉を重く感じながら小屋を後にする。


「用は済んだのかしら。」

 ウメノのいる場所に戻った俺はウメノに話しかけられる。元気は戻ったみたいだ。俺が帰るまで寝ていたようでもある。

「涎。」

「うるさい。」

 ウメノは服の袖で口を拭う。

「反対。」

「分かってるわよ。」

 ウメノは反対側の口の端を拭う。

「用事は済んだのかしら。・・・その兜は?」

 ウメノは俺の手にしていた兜に目を移して言った。

「マリナの兜。どうも贋作らしいけどな。」

「そんなこと、百も承知よ。渡しなさい。」

 一瞬これで遊んでやろうと思ったが、元気いっぱいのウメノに逆らえばどうなるかわからない。大人しく差し出す。

「やっぱりトメドのものね。なるほど。ネズミでも役には立つのね。」

 ウメノは兜を大事そうにしまった。

「あの女がアンタの傷を治療したって話だけど、詳しく話してくれる?」

 易々と情報をくれてやるのはどうかと思ったが、仕方がない。

「俺が死にかけの時、マリナが俺の傷を治療してくれたんだ。致命傷だったけど、魔法みたいなもので治した。本人は奇跡とか言ってたけど。」

「なるほど。アンタはその命の恩人を易々裏切ろうってことなのね。いけ好かないわ。」

 本気で言ってはいないことは分かった。

「そう言えば、自分の傷は治せないって言ってたな。人の手に余るとかなんとかで。」

「最高よ。アンタ。きちんと弱みを握ってるじゃない。そんなに易々と弱点をアンタに告げるなんて、心を開いていたか、油断していたか、単なるバカかどちらかね。」

「お人好しなだけだろう。」

 ウメノの顔は醜く歪む。俺の言葉がお気に召さなかったのだろう。

「じゃあ、作戦だけど。この先に開けた場所があるの。明日、アンタはそこに女を誘い出しなさい。それだけで十分よ。」

「勝てるのか?」

「当り前よ。あれは様子見。相手の能力さえ見ることができれば十分だったから。それに思わぬ副産物も得た。これで負けるはずはないわ。」

 とうとう、マリナは死ぬようだった。だからと言って俺には何の感情も湧かない。ウメノはいつ俺を裏切るか分からないし、きっとマリナを倒せば用済みとみなされ殺されるかもしれないが。でも、今さらマリナに付け入ることもできまいし。少しだけ寿命が延びたということか。首の皮一枚とはよく言ったものだ。


 着替えて夜空を見上げる。外で寝るのは危険だと思うが、目の前でウメノが寝ているから大丈夫なのだろう。あれでも勇者であるわけだし。

「くしゅん。」

「くしゅん。」

 俺のくしゃみに続いてウメノのくしゃみ。その後、ウメノは寝返りをうつ。魔法のようになんでも出てくるトランクから毛布を出して被っていたが、どうも寒そうだ。俺は何も被っていないからより寒い。ウメノの毛布は他の調度品に比べると薄汚いものだった。それでも、俺たちが使っているものよりは綺麗である。きっと幼少のころから使っていて、これがないと眠れないというものなのだろう。俺もそんな毛布があった。村に置きっぱなしだ。だからって眠れないわけではない。むしろ、昨日は一晩中追いかけられて眠れなかったから、今すぐにでも眠りたい。でも、冬も近いこの頃に毛布もなしに野宿をすると明日死体になっているだろう。俺は荷車から比較的綺麗な布とまだ生臭い毛皮を取り出す。布はウメノに被せてやる。俺は毛皮。生臭さは気になるが、獣の獣脂の染みついた毛皮は保温に優れている。だからこそ、他の場所で売れば儲けることができると踏んだわけだ。ウメノは目を覚まして汚い布がかかっていると怒るだろう。全く、感謝されないというのはそんな役割だ。

「ねえ。起きてる?」

 ウメノが言った。俺は黙って寝たふりをする。得にもならないことをした気恥ずかしさで、面と向かって話せそうになかった。

「聞いてないならそれでいいわ。どうして私に優しくするの?私はあなたのお友だちを目の前で殺して、命の恩人まで殺そうとしているのに。どうして協力なんてするのかしら。」

 ウメノの口調は自分に語りかけているように聞こえた。自問自答ってやつなのだろう。

「訳が分からないわ。どうせ、明日、あなたも殺してしまうのに。」

 聞いているかもしれないのに、ウメノは何のためらいもなく自分の計画を殺そうとしている相手に告げる。それが何を意味するのか。俺はよく分かっていた。俺はどうするべきなのか。いや、どうしようもないんだ。あわよくばおこぼれに与るのみ。案外俺も自分の命が算段に入っていないのかもしれない、なんてありえないことを考えてみた。


「ほら。起きなさい。死んでるの?」

 そう言って俺の顔を踏んづける。犬のフンとか踏んだかもしれない靴で人の顔を踏むのはよろしくない。

「あら。起きてたのね。」

 できれば日中中寝ていたい気持ちだった。まだ寝たりない。でも、気が進まなくてもやらなくてはいけないこともある。

「汚い皮を着ているものだから、てっきり腐ってしまっているものだと思ったのだけど。」

 ひどい言いようである。まあ、慣れてしまった。

「はいはい。起きますよ。先輩。」

 俺は意を決して毛皮を押しのける。寒さが頬を掠める。

「こんな汚いボロを着せてくれたのはあなたかしら。」

 随分綺麗な方ですけどね。

「いやあ、きっと風で飛んで来たんですよ。先輩。」

「そんなわけないでしょ。子どもでも騙せないわよ。」

 俺は子どもに呆れられる。

「何か聞いたかしら。」

 俺は昨晩のことは口外しないと固く誓っている。

「何か言ってたのか?そう言えば、『ああ、人類滅びないかな』って寝言が聞こえたような。」

「最低ね。乙女の寝言を盗み聞きするなんて。一度死んでおく?」

「おねしょは大丈夫だったか?」

「本気で殺すわよ。」

 ウメノが触手を出したので、俺は即座に土下座をする。少し土下座に至るスピードが上がった気がする。嫌な成長である。

「早く勇者を見つけて来なさい。」

「でも、まだ残ってるかどうか。」

「それを探るのがあなたの仕事でしょう。それに、絶対にまだこの町にいるわ。」

「どうして。」

「あなたがいるから――と言ってあげたいけど、私がいるからよ。正義感の強そうなあの女なら、私のような殺人鬼を放っておくわけがないもの。」

 確かに、その確率は高いように思える。

「分かった。手筈通り、誘い出せばいいんだな。」

「ええ。別に女に寝返って逃げてもいいけどね。」

 そんなことを言うとは以外だった。だが、きっとウメノのことだ。裏切りが分かった瞬間俺を殺せる何かがあるに違いなかった。この乙女が俺と同じくらいずるがしこいことはよく分かっている。

「さあ、逝きなさいネズミ。」

「ちゅううううう。」

 俺は奇声を上げて町へと向かった。


 東方の鬱蒼とした森の中にある村と大きな本国ヒノカグヅチとを結ぶ交易の中間地点がこのスクナビコナだ。それ故に色んな店の名残がある。今はそのどれもが活気を無くし、道端には生きているのか死んでいるのは判然としない死に体がごろごろと転がっている。俺の村は作物も作っていたから、春が来なくなっても少しは作物が採れた。それでも一昨年の十分の一だ。今は貯蔵した穀物類で食いしのいでいるが、今年で底を尽きるだろう。自然の恵みに頼っていた果実類は全滅。動物はやせ細って、食えても少ししか食うところがない。イノシシと熊だって切り開いてみれば骨と皮だけだったというのだから、獣は人間以上に食糧危機なのかもしれない。獣の共食いも人の共食いも日常茶飯事だ。自分の指を美味しそうに食いちぎっている子どもに何人も出くわした。何もかもが末期だった。また春が来ないと世界は滅びることが簡単に予想できる。大分昔から休戦状態になっていた南都と北都も戦争を始めるだろう。俺たちが知らないだけで、もう始まっているかもしれなかった。

 マリナの居場所で心当たりがあるのはマシュの宿だった。宿を覗いてみると、マシュはいなかった。あったのはもうマシュではない亡骸だけだった。丁寧にも肉は綺麗にそぎ落としてある。骨が光沢を発しているところから見ると、綺麗に嘗め回したのだろう。誰がマシュを殺したのかなんて興味はなかった。恐らくはあの青年会のおにいちゃんたちだろう。金目のものは全て奪われているし、俺がくれてやった鉄器類も根こそぎ持っていかれている。その後、肉欲しさにやってきた飢えた食人鬼どもがマシュの肉を舐ったに違いない。

 この光景を見てマリナは――

 この先は考えてはいけないことだった。俺の気持ちも壊れてしまう。冷徹を貫かなければ、心が先に死んでしまう。

「いるんだろう。マリナ。」

 俺の声は冷たく宿に響く。生きているものなど存在しない物質だらけの宿屋に。

「なんだ生きていたのか。」

 マリナは億劫そうに出てくる。

「てっきりあの勇者に食われたのかと思ったよ。」

「なんだ。泣いていたのか。」

「そんなわけあるまい。」

 マリナの目は赤く、声も湿気を帯びていた。それでも彼女は泣いていないと言い張る。

「何の用だ。」

「お前についてきてほしいんだ。ちょっと付き合え。」

「私はお前に用などない。」

 でも、ついてくるようだった。マリナの足元には骨と皮だけの死体がいくつも落ちている。そのどれもが両断されている。何が起きたのかは容易に想像できた。

 俺は先行する。マリナは無言でついてくる。俺はかけるべき言葉も見つからない。こんなお人よしは早く死ぬべきなのだ。俺は本気でそう思っていた。

「カス。」

 俺は歩みを止めず、振り返らず進む。返事さえしない。

「お前が正しかったよ。」

 もうすぐ死ぬ人間の言葉など聞いても仕方がない。

「あの後、子どもに肉を与えた。その後、子どもは肉を奪われ、命まで奪われた。私は何もできなかった。怖かった。人があれほどまでに残忍になれるなんて信じたくなかったのだ。」

 だから、やるなと言ったのだ。

「その後、私にも襲いかかってきた。私は自分が生きるために人間を殺さなくてはいけなかった。勇者になると決めたのだから、当然そのくらいの覚悟はできていたはずなのに。」

 これ以上話さないでくれ。俺に人間の心を取り戻させないでくれ。

「マシュが食われた。その状況が理解できなかった。あいつらはもう人ではなかった。私に襲いかかってきたそいつらを私は心を鬼にして斬った。でも、終わって人に戻った時、自分も死のうかと思った。私の信じてきた正義とは何であるのか、疑わずにはいられなかった。」

 それ以上、マリナは話そうとしなかった。俺は声をかけない。それはひどく残酷だが、人はいつか乗り越えなければならないことだと知っているから。自分で乗り越えなければ意味がないのだから。

「さあ。ここだ。」

 俺はマリナの方を振り向く。木々と木々の合間に広い草原があった。秋なので草は勢いがなく、それはきっと秋だからという理由ではないのだと悟った。俺はマリナに向けて拳銃を向ける。

「何の真似だ。」

 行動以上の答えはない。拳銃なんて初めて持つし、使い方なんて分からない。ウメノに一通り使い方は習ったのでなんとかなるのだろうが。

「さようなら。勇者様。」

 俺はマリナに向けていた拳銃を天にかかげ、雲を引き裂くように引き金を引く。耳をつんざく音がして、俺は驚きしりもちをつく。そりゃ、こんな代物、命中しようがないぜ。

「まさか、本当につれてくるなんて。アンタ、それでも人間?」

 この世の醜悪を濃縮したような声。何かに取り憑かれたかのように豹変した乙女が姿を現す。

「裏切られた気分はどうかしら。勇者様。」

 ウメノの言葉など気にせず、マリナは鎧を輝かせる。無敵の肉体を持つ、トメドの鎧を身に纏ったマリナにウメノは勝機を見出せないはずだった。

「あら。早速聖像物を使うのね。でもいいのかしら。あなたは私の聖像物の正体が分かっていないのではなくて?それで戦うのは危険でなくて?」

 そう言いながら、ウメノは小さな手を俺の方に向けている。それは、手を出したら人質を殺すぞ、と語っていた。

「世界を救うための犠牲なら・・・―――・・・仕方がない。」

 涙をこぼしながら、マリナは決して目を閉じることはない。ウメノをじっと睨む。

「でも、それはおかしいんじゃない?私を殺すことが世界を救うことになるのかしら。あなたの目的はもっと別のところにあるはずだけど。」

 ウメノはマリナの目的を詳しく知っているような口ぶりだった。

「そうだな。」

 マリナは一歩一歩ゆっくりと進む。

「これは私の自分勝手な振る舞いだ。私はお前が許せない。誰かを救える力で、誰かを救うための勇者の力で誰かを傷付けるお前の存在を私は決して許すことはできないのだ。」

「そのために彼を犠牲にするの?」

「その罪も背負って生きていく。」

 それは力強い言葉だった。だが、どこかで変な音がする。俺の心がおかしな音を上げていた。その罪の重さこそ、どんな奇跡や力よりも人の身に余るものではないか、と告げているような気がした。

「あら、そう。私が聞きたかったのはそれだけ。じゃあ、さようなら。」

 ウメノは自らの掌を自分の目の前に持っていき、力強く握りしめる。ただそれだけの行為で俺たちの命運は決まってしまった。

 初めに訪れた異変は腕が妙に熱いということだった。何かおかしい、と自分の腕を見る。そこから棘が生えてきていた。漆黒の、目を逸らしたくなるほど禍々しい棘。棘が生えてきている場所は、ウメノによって傷付けられた傷口だった。俺の体からあり得ないものが生えてきてぬるぬると動いてきている。それは恐怖以外の何者でもなかった。そして、棘は俺の恐怖を喜ぶように俺の体にまとわりついていく。俺の体は動かなかった。石になったように言うことを聞かない。俺の体はもう俺のものではなくなっている。

「マリ、ナ・・・」

 かろうじて絞り出せた声でマリナを呼ぶ。目の端から見えるマリナは俺のように棘に囚われて、俺以上に苦しそうだった。俺の棘の何倍もある太さの棘がマリナをむしばんでいた。その数も俺なんかより多い。腹部から次々に飛び出す棘は、マリナの内臓が飛び出してきているようで、吐き気がする。

「初めから、あなたは私に勝てなかったの。あなたの聖像物がトメドのものということが分かった時点で私は勝ちを確信したわ。無敵のトメドがどうして死んだかはあなたでも知っているわよね。かの英雄は呪いで呪い殺されたの。」

「呪いの棘・・・原始の魔女か・・・」

「苦しいのならわざわざしゃべらなくてもいいのに。大丈夫。肉体の死はあげないから。あなたたちに与えるのは精神の死。哀れな裏切り者のネズミさん?あなた、とても苦しいでしょう?」

 うふふ、と悦に浸った表情でウメノは言う。その表情は今まで見た中で一番艶めかしく美しかった。

「なるほど。あなたには人間らしい感情があまり見当たらなかったわね。じゃあ、タネを一つ仕込んであげる。私はね、呪いを使うには呪いを補給しなきゃならないの。ほら、美味しくもない魔犬の肉をわんさか食べてたでしょう?魔物の肉にはね、魔女の呪いが染みついてるの。だから、生で食べると普通の人間は腹を下すの。お利口なネズミさんには今の言葉で理解出来たんじゃないかしら。」

 つまりは――俺はこの惨状に加担したのだ。呪いの発現には呪いを供給する必要があり、その呪いの力を魔犬の肉で補っていたということ。俺が食わせた肉で俺が責め苦を受けるのなら自業自得だ。だが、マリナは俺の何倍もこの苦しみを――

「ぎゃあああああああああああああ。」

 喉がさけるほどの悲鳴。涙を流し、目の光を失い、マリナは叫んだ。その声を聞いた途端、俺の傷口からさらに棘が現れる。

「怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い――怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。」

 寒さに凍えるようにマリナは呟いた。体は痙攣して、もうお終いなのだと悟った。マリナは壊れてしまった。

 途端、俺の意識は奥深くに沈んだ。


 俺はみなしごだった。

 嘲笑う声。

 おばあちゃんに拾われた。

 嘲笑う声。

 毛布にくるまれて森に捨てられていたのだという。

 嘲笑う声。

 誰もが俺を気味悪がった。

 嘲笑う声。

 石を投げられるくらい、マシな方だった。

 嘲笑う声。

 ある日、家に投げられた石がおばあちゃんの顔に当たった。

 嘲笑う声。

 おばあちゃんは血で顔を赤く染めながら、大丈夫、と笑顔で言った。

 嘲笑う声。

 いつも厳しくにこりとも笑わないおばあちゃんが、この時だけ笑った。

 嘲笑う声。

 無理しているのが分かって辛かった。

 嘲笑う声。

 だから、俺は村を出た。

 嘲笑う声。

 笑うんじゃねえ!

 嘲笑う声。嘲笑う声。嘲笑う声。嘲笑う声。嘲笑う声。嘲笑う声。嘲笑う声。嘲笑う声。嘲笑う声。嘲笑う声。嘲笑う声。嘲笑う声。嘲笑う声。嘲笑う声。嘲笑う声。嘲笑う声。嘲笑う声。嘲笑う声。嘲笑う声。

 もう止めてくれ。俺が、俺が悪いんだ。俺が生きてなんかいるから――

 キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ―――――

 俺は心を鬼にした。どんなことがあっても苦しまないように、心を閉ざして、自分の目的のために人を利用して。そして、多くの人が死んだ。誰かが死ぬ度に俺の心は凍り付いていった。もう人ではなくなった、はずなのに。

 キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ――――

 嘲笑は俺の心の傷を広げていく。押し殺していた罪悪感の部分を無理矢理に。そこだけを土足で踏みにじっていく。

 もう生きていたくない、と思った。

「死にたい・・・・・・」

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。


 でも、マリナは死にたいなんて口にしなかった。

 必死で恐怖に耐えながらも、一言も死にたいなんて言わなかった。俺の責め苦の何倍もの苦しみを、屈辱を受けながら。


 そこはつるつるとした部屋だった。壁にあるはずの木々の継ぎ目など一つもない、気味の悪い部屋だった。そこにあるのはよくわからない金属の造形物とその造形物の上に寝かされている一人の少女。裸のまま、手足を黒い縄で束縛されている。

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。

 口に猿轡をされ、声を出せないが、その涙に濡れた瞳は紛れもなく恐怖を訴えていた。

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。

 見たこともない服を着た人間が彼女に覆いかぶさり、そのまま彼女の成熟しきっていない右の胸に手を伸ばす。

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い――――

 食事をするナイフのような小さな刃物が彼女の胸に押し付けられる。

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い――――

 彼女は必死で逃げようと体を動かす。しかし、彼女に覆いかぶさる人間の腕力には敵わず、指一本動かせない。

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い――――

 彼女の未熟な胸から赤い果汁が流れ出す。たらりと果汁は彼女の体表を流れていき、彼女はその果汁の温かさを感じることによって、それが自分から流れ出ているものだと認識してしまう。

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い――――


 怖いよ。助けて。お父さん――


 刃物はさらに奥深く彼女の果実を切り裂いていく。彼女は首を動かし、横を見る。そこには窓があり、誰かが静かに彼女に施される術を静かに眉一つ動かさず見ている。

 助けて、お父さん――

 ようやく口にした言葉も、届かない。見ているだけで彼女の恐怖は伝わってくるのに、その人物はただ、冷酷に彼女を見つめていた―――


 視界が開ける。俺の体中には棘が渦巻いている。その無数の棘からマリナの姿が見えた。涎を垂らし、淑女あるまじき姿をしなから、それでもまだ呟いている。

「怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い――」

 それでも彼女は弱音を吐いていなかった。

 彼女に歩み寄る人影が見える。黒い憎悪の権現。

 俺はどうしたい。どうすればいい。どうすれば――

 そんなこと、考えるのは止めた。途端、体が動く。体は言うことを聞かず、一ミリ動かす度に軋み、悲鳴を上げるけど――

 俺は足元の石を掴み、投げる。俺を虐げた者と同じ行為。でも、違う。俺は初めて誰かを守る為に戦うんだ。

 力の入らない体では、コツンとウメノの頭にぶつけるくらいしかできなかった。それでも、彼女の怒りを買うには十分だった。

「しぶといわね。ネズミ。ネズミはしぶといから嫌いなのよ。」

 ウメノは俺の方を振り返る。その顔には一筋の血。でも、彼女は少しも気にしていないようだった。

「あんたからブッ殺す。」

「うぐああああああああああ。」

 激痛。体中が棘の棘に傷付けられ、血が流れる。もうこれ以上締め上げられると俺の体はもたないだろう。だが、そんな中、俺がただ見つめていたのはマリナだった。彼女の目に光が戻る。そして、俺を見つめる。驚いた顔をしていた。そんなに俺が痛い目にあるのが珍しいか?結構痛い目に遭ってる気がするんだけどな。

「カ、ス・・・・・?」

 ウメノは驚いて勇者様の方を振り返る。

「かすうううううううぅぅぅぅぅぅぅ!」

 なんだか罵られているみたいで快感だ。痛みのせいで頭がいかれたみたいだ。

「無駄よ。トメドの鎧ではもう防ぎようはないわ。」

 マリナの光り輝く鎧を見ながらウメノは言った。だが、その口調は少し怖気づいているようにも聞こえる。

 マリナは無理矢理に体を動かし、右腕を大剣に伸ばす。

「姿を見せろ!我が終の聖剣、バターナイフよ!」

 マリナの背後の大剣がはじけ飛ぶ。その勢いでマリナをむしばんでいた棘は消し飛ぶ。

「嘘でしょ。そんなはずは。だって、それは、それは――」

 マリナは細くなった剣を構える。一撃必殺。マリナの鬼気迫る表情に誰もが戦慄していた。

 振り下ろす。その剣戟は大地を割り、漆黒の乙女のもとへ。そして、漆黒の乙女の体を包み――

 俺は自由になった。急に気が抜けて、地面にへたり込む。あの威力の前にはもう、ウメノは骨一つ残ってはいまい。

 げほっ、げほっ。

 幼い少女の咳き込む声。俺は背筋を凍らせる。

「なぜ――」

 マリナの疑問は五体満足のウメノの正面にあるものが答えていた。棘に侵食されたトメドの兜。それがマリナの一撃を防ぎ切ったのだ。

「切り札をここで見せることになるなんてね。でも、もう戦う気はないわ。だってこの聖像物の力を引き出すのに呪脈の呪詛を全て使っちゃったもの。ここには数年は魔物はよりつかなくなるわ。」

 マリナは剣を地面に刺し、倒れるのを防ぐが、戦える状況ではない。

「命拾いしたわね、あなた。」

 俺の方を振り向いてウメノは微笑んだ。それは年相応の可愛らしい笑顔で、さきほどの残酷な仕打ちとは似てもいない。

「おぼえてらっしゃい!」

 お決まりの捨て台詞を吐きながら、ウメノは可愛らしい走り方で森の奥深くへと姿を消す。

 マリナはその姿を見守った後、安心したような丸い顔をし、地面に倒れた。


 そして、マリナは二度と目を覚まさなかった。


 背中には大量生産品の剣。そして、動きやすさを重視した軽装の鎧。俺は町を後にしようとしていた。

「何処に行くの?」

 町の幼女が俺の背中を上目遣いで見ている。

「漢になりに行くのさ。俺はいくぜ。この果てしない荒野をよ。」

 今にも飛びつきたい衝動を必死で堪えながら俺を見守る幼女を俺は振り返らない。

 そうやって大人になっていくのさ。

 俺の言葉はまだ果てしない荒野には響かない。しかし、俺はいつか荒野よりも大きな男になってみせるさ。

「作者の力を使って、何好き勝手してるのよ!」

 ぱんっ、と軽快な音。だが、その音に反して俺の後頭部は金属の棒で殴られたように痛い。

「別にいいだろうが。俺が語り部だ。俺の好きなように物語を改変しても悪いことはないはず!」

 またも、一撃。俺の背後でハリセンを持つマリナは額に青筋を立てながら、俺を笑顔で見ている。ウメノとの戦いでもこんな恐ろしい表情は見せなかったぞ。

「こわいこわいこわいこわい――」

 またも純白のハリセンで一撃。マリナの剣は闘いの後、力を失い、ハリセンに姿を変えてしまったのだ。

 また、一撃。次で、俺の脳は決して治らない傷を負うぞ。冗談抜きで。

「勝手に改変するな。」

 ハリセン怖い。ハリセン怖い。ハリセン怖い。ハリセン怖い。ハリセン怖い。

「そのハリセンは何でございましょう。勇者様。」

 俺はひざまずき、頭を下げる。結局はこうなるのね。

「ああ、これはマシュの家に伝わる家宝らしい。ありがたく頂戴した。」

 俺と同じような事をしている。以前のマリナなら決してしなかったであろう。マリナも変わったのだ。

「そもそもだ。私が倒れた直後、お前が先に意識を失ったのだろう。先に目を覚ました私がお前を宿まで運んだんだ。」

「勇者様にはなんとお礼を申し上げればいいのかわかりません。」

「ありがとうございます。勇者様。私は一生あなたの奴隷であります。りぴーとぷりーず。」

「下手くそな英語。」

 ぱんぱん、と勇者様は自分の手のうちでハリセンを遊ばせる。

「ありがとうございます。勇者様。私は一生あなたの奴隷であります。」

「私はあなた様に絶対服従であります。裏切るなんて滅相もないでござ候。」

「なんだよ、それ。」

 ぱんっ、ぱんっ。

「私はあなた様に絶対服従であります。裏切るなんて滅相もないでござ候。」

「私は一生あなたの荷物持ち。一生ついていきます。」

「私は一生あなたの荷物持ち。一生ついていきます。」

 俺の一生はここで決した。

「さあ、発つぞ。やり残したことはないな。」

 満足げな表情でマリナは言う。なんだか、いけない性癖に目覚めさせてしまったか。

「実は、少し寄りたいところがありまして。」

「よかろう。では参るぞ。」

「ハハアっ!。」

 元気よく答える。

 そして、老人のいる小屋にたどり着く。

「ごめんください。」

「遅いぞ、小僧。」

 老人は待ちくたびれたように俺を睨む。なんだかそわそわして、饒舌気味である。

「出来はどうだ?」

「渡された骨は20頭ぶんじゃったな。ほれ。」

 そこには見まごうことなき、精巧なペンダントやらイヤリングやらのアクセサリ。

「魔犬百頭。」

 なるほど。そわそわしているのはそれね。なるほどなるほど。

 俺はゆっくりとマリナの方を見る。

「頑張れ。」

「お願いします。勇者様ぁ。」

 最速の土下座。また記録を塗り替えてしまった。マリナはふん、とそっぽを向いたきり、俺と目を遭わせようとしない。俺ではどうしようもないんだよう。

「助けてやってもいいが・・・」

 そう言ったのはマリナではなく老人だった。

「条件がある。」

 ニヤニヤとした顔。嫌な予感嫌な予感。

「わしとおホモ立ちになってくれ?」

「お前がゲンクロウのじじいかっ!」

 思わぬ伏兵。俺は一縷の望みをかけて、手を合わせ、マリナに祈る。

「いいじゃないか。おホモ立ちになってあげろよ。」

「ぎゃあああああ。」


 とまあ、こんな終わりでどうよ。



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