第一章 商人視点 もう遠い昔のようです
スライム討伐は至って順調だった。少年戦士たちは休憩での自然回復を利用しながら、旧地下水道の奥へと徐々に向かっていく。彼らは安めの回復促進薬は使うものの、男は耐えるものだ!と言いながら、HPが黄色になるまで休まずにスライムをどついていた。肝心の魔術師は、スライムが群生しているところで使うから、と初級氷魔術の矢をちまちま撃つ程度で、範囲攻撃はしない。期待している、奥に着いたらよろしく、という約束で老魔術師は殿について、主にアイテム回収をしていた。シャンレンはというと、よく前衛が撃ち洩らすスライムのとどめを刺していくのが仕事といった具合だ。
老魔術師が持っていたマップデータで確認すると、もうすぐ行き止まりになると思われた辺りに、まさにスライムの群生地があった。むしろスライムの池だろうと思うほどに。
「よし、では始めるからの。しばし待たれよ」
老魔術師は術式をなぞりながら更に複雑な詠唱を開始し、それが終わるまではスライムには邪魔をさせないと、前衛は勢いづいていた。
自分が避けられたのは、ただの運だ。
前からの取りこぼしにばかり気が向いていて、頭上から落ちてきたスライムを慌てて振り払って剣で倒そうとしたら、暗がりに段差があるのに気づかず、ほんの少しの道の窄まりにはまってしまった。
だが、それが明暗を分けたのも、事実だった。
「氷嵐雹!」
術式が発動し、大粒の雹が凍てつく空気と共に通路を駆け抜けていく。喉の水分を一瞬で奪い尽くす寒さが全身を貫いた。その唸りが止むまで、瞬き一つの間しかなかったように思う。
ほぅっと息を吐いた。真っ白だ。
しかし、シャンレンはそれ以上動けなかった。左足が動かなかった。見ると、落ちたスライムとそれを貫いた剣ごと、シャンレンの左足は凍てついていた。スライムと剣はすぐに砕け散り、戦利品であるスライムの核石を残す。しかし、シャンレンの足は床に貼りついたように、動かないままだった。感覚が全くなく、凍傷だと悟る。
何とか身を起こすと、凍てついた通路が見えた。旧地下水道の、昔水が流れていた場所である。今もところどころに水が残っていたのだが、今はスライムごと全て凍てついていた。仲間である、少年戦士たちもだ。
すぐ隣を歩いていた。
粘つくスライムに松明を押し付けると、たちまち小さくなっておもしろいと、ついさっきまで笑っていた。
誰が一番多く倒せるか競争しようぜと言いながら、数なんて全然数えてなくて、ただふざけ合っていた。
シャンレンは手を伸ばした。
氷の彫像のようになった少年戦士は、自分を見ていた。瞬きすらできずに。
指先が冷たさに触れた瞬間、彼は砕け散った。次々と、友である同じPTの戦士たちとともに。道具袋を遺して。
「おお、よかった。そなたは助かったのじゃな」
その声に、シャンレンは確信した。これは老人がボケた結果ではないと。
ことばとは裏腹に杖を構えたまま、老魔術師はしゃあしゃあとほざく。
少年戦士たちのHPが黒となり、名前が失われていった今、シャンレンと彼だけが同じPTに残っていた。だからこそ見えている。
MPは赤、もう老魔術師に魔法は撃てない。
ほぼ全てのMPを火力にした術式が、仲間を葬った。IDの色に変わりはなく、攻撃対象がスライムであったことはわかる。だが、範囲魔術の影響は周辺に及ぶ。それを知らないはずはなかった。
場の空気が変わる。
術式の効果が消え、肺に入っていた冷たい空気が出ていくのがわかった。しかし、シャンレンの足は癒えない。凍傷は神官の癒しか、状態異常回復薬を使うまでは即時回復はしないのだ。そして、凍傷の回復薬など、シャンレンは持っていなかった。無理に動くと足を失う。
老魔術師は杖を構えたまま立っていた。
「仲間には残念なことだが、あれは事故じゃ。せめて遺品なりと持ち帰って役立ててやろうではないか。さあ、早くせねばまたスライムが沸きかねんぞ」
問いかけは脅迫に聞こえた。
時間が経過すれば、老魔術師のMPが回復する。スライムがいれば、また範囲攻撃で今度こそ命を奪うと。
シャンレンは老魔術師を睨み、言い放った。
「あんたがやったんだ。あんたが、エアルたちを殺した!」
それはただの叫びだった。
ちらりと、白い眉の間から目が見えた。灰色の、濁った眼だ。
「それが、答えか」
骨ばった指が、杖をなぞる。背筋を這うようなしゃがれた声は、つまらなさげだった。
何を言う。それ以外の真実がどこにある?
スライムが沸く。ちょうど、シャンレンの左足のそばだった。
「氷の矢」
シャンレンはもう立てない。HPは黄色になっている。
彼の脳裏には、旅立った友人の冷たい眼差しが焼きついていた。
すぐ、また会える。
「来たれ聖域の加護!」
そんなシャンレンの覚悟は、聖句によって氷の矢ごと打ち砕かれた。
祈りは彼に加護を与え、聖域は正しく身を護る。弾かれた矢が壁に突き刺さると、老魔術師は糸目を開いて驚いた。そして、声の主を探すべく、そちらに顔を向ける。
通路の奥、凍てついた風が貫いた先に彼女たちはいた。青い術衣と、赤い術衣のふたり。
「ちょっとアンタ! 寒いんだけど!?」
「いや、そこじゃないだろ」
ぼそりと呟いた仮面の男もまた魔術師の杖を持ち、老魔術師と同じく杖に術式を刻んでいるのが見えた。慌てて老魔術師が杖をなぞる、が、それよりも彼の術式が早く発動する。
「炎の矢」
放たれた炎は迷いなく老魔術師とシャンレンの間……仮面の魔術師の足元から飛来し、一匹の小さなスライムを撃ち砕き、そのまま老魔術師の髭を焦がして消える。
軽い音を立てて、老魔術師は杖を落とした。彼は理解したのだ。仮面の男の術式は、スライムを確かに狙っていた。しかも、熱は上昇するという性質を利用し、老魔術師を牽制した。それだけではない。シャンレンの足の凍傷を、熱風で温めるというところまで計算しての術式だった。
格が違う。
老魔術師が悟った時、更に奥からざわめきが聞こえてきた。行き止まりと思われていた場所に、隠されていた扉があったようだ。
慌てて老魔術師は身を翻し、来た道を戻るべく走り始めた。
即座にPTから外れたのか、マップからもステータスバーからも老魔術師の名前は消え、死亡して時間が経過したために、ブラックアウトしたそのほかのメンバーもPTから外れ……シャンレンはただひとり、残された。
青い髪の神官が手を握ってくれた時、シャンレンはようやく、己が助かったのだと理解した。そのあたたかさが心地よく、かけられたことばがやさしくて、子どものように縋ってしまったのをおぼえている。
助かった……本当に……助かったんだ……!
死を意識し、覚悟し、それを回避できた喜び。
それが湧き上がってくるのを、押さえられなかった。
仮面の魔術師が手渡してくれた遺品を見て、シャンレンはようやく、彼らのことを思いやれた。失った命があって、救われた命がいて、無意識に比較して。その黒い感情に、自己嫌悪する。
そして、遠くへ旅立った友人を思い、共に逝けなかったことを心で詫びたのだった。