発車ベルが鳴る
「発車ベル」というお題で書いた、即興短編です。
真夜中にその列車は出発する。
「いいのか、俺なんかが乗ってしまっても。俺は逃げてきたんだぞ…」
「かまいません、これは現実から抜け出したい人のところへ停車する列車です」
黒い仮面で顔を隠した男がそう答えた。
目も口の切れ目もない卵のような画面。その下から零れてくる、男の声音はわずかに笑いを含んでいて、軽い嘲りとも、侮蔑を含んだ哀れみのようにも聞こえた。
俺は、逃げてきたんだ。
はじめは、小さな嘘だった。
少しだけ、人より偉く見られたい。
できる人間だと思われたい。
羨ましがられたい。
つまらない人間だと思われたくない。
何もできない人間だというのがばれて、馬鹿にされたくない。
そうしてだんだん、地味な虚勢が増えていった。虚勢…、違うな、これは虚栄心だ。
できないことをできると言い、持っていないものを持っていると言い、したことないことを、あんなもの簡単だと零した。
嫌いなものを好きだと言い、好きなものを自ら鼻で笑った。
ああ、なんてくだらない人間なんだ。
そんなときに、道端で変なものを拾った。
『夜逃げ専用特急 時刻表』
ボロボロの紙にインクの文字が滲んでいた。
時間は深夜。
鼻で笑いたかったが、どうせ行くところもなかった。
電車に乗る。
俺がいなくなっても、どうせ誰も・・・・・・。
電車の中はひどく暗かった。夜行列車の消灯後の車内のような感じだった。
ただ、座席のところどころに、希薄な人間の気配がある。
この列車は、どこに向かおうとしているのか。
ジシシシシシシ。
火災報知器のような音を立てて、発車ベルがなる。
車輪が回りだす振動が、足の下から全身に伝わってくる。
どこへ、向かおうというんだ。この特急列車は。
いいんだ。現実以外のどこかに行けるなら、どこでもいい。
「本当に、いいんですか?」
さっきの、俺を出迎えた車掌がいつのまにか背後に立っていた。影のように。
「行くところがなくて弱ってたところだったんだ・・・・・・、俺のことは放っておいてくれ」
「どこに行きたいのかは訊きません。しかし、なぜこの列車の停車駅で立ち止まっていたのです?」
「俺は犯罪者なんだ・・・・・・ 生活に困って、だんだん、善悪の区別がつかなくなってきていた。信頼を失くして、仕事もできなくなった。
気がついたら、身寄りのない年寄りから金を巻き上げるようなことをやっていたんだ。
そんな汚いことをやっても平気になっていた。仕方がない。俺は悪くない。
自分のずるさに気づいたときに、すっかり、そんな自分が嫌になったんだ・・・・・・。
俺は、こんな人間じゃなかったはずだ。
子供の頃は、こんな大人には絶対になりたくないと思っていたはずなのに」
「そうやって気づいたから、逃げ出したくなったんですね」
「逃げても、一度汚い人間になったら、もう戻れないさ・・・・・・」
ごうう、と。
汽笛のような音が聞こえた。
窓の外がいっそう深い闇に沈む。
電車は、走り続けている。
得体の知れない、どこか俺の知らない夜の中を。
恐らくここはこの世ではない、ということを薄々肌で感じていた。
この列車は、俺を地獄へ運ぼうとしている。
逃げようとしていた俺を。
「仕方ないですね。これ、あなたの落し物のようでしたので、返してあげましょう。もう落とさないでくださいね」
顔のない車掌が俺に渡したのは。
切符・・・・のような何か。
と見せかけて、文字が消えかけた学生証のようなものだった。
字が消えていてもわかった。
これは俺のものだ。
「あなたはこれを落としてしまったので、ちゃんと卒業できなかったんですね。
学生さんは乗車フリーパスですので、途中下車も許してあげましょう。
もう、乗り換え間違えないでくださいね」
ごとんごとんごとん。
車輪が回る音がゆるくなっていく。
電車が止まって、ドアが開く。
「降りますか。このまま乗っていますか。それとも、次の列車を待ちますか」
車掌が俺に尋ねる。
「これを降りたら、朝が来るかな」
「来ると思いますよ。これ、特急夜行列車ですから」
明けない夜はないなんて。
ガキの頃はそんな青い言葉を信じていたっけ。
人を騙して汚いことをする自分が嫌になった。
ずるくなっても平気になっていた自分が嫌になった。
そんな自分が嫌で逃げようとした。
そして今度は、そんな逃げようとしている自分が嫌になった。
結局逃げたって、どこにも行けないよ。
自分の足で歩かない限りは。
「降りるよ」
「そうですか。お疲れ様です」
俺は電車を降りた。
最初に電車の時刻表を拾った場所だった。
「この列車はこれから、どこに行くんだ」
「明けない夜を行く、現実ではないどこかです」
「そうか」
真っ暗な夜だけが、列車の行く先に、果てのないトンネルのように続いている。
「また乗りたくなったら来てください。これはそういう列車ですから」
車掌は、嘲る笑いを含めて、仮面を外した。
どうやらその顔は、俺自身の顔のようだ。
ああ、こんな馬鹿面だったかな。
そうだな。この列車を降りないままだったら、馬鹿かもしれない。
「じゃあな」
「ええ。いってらっしゃい。お気をつけて」
ここではないどこかへ。
明けない夜を進む列車が行く。
発車ベルが鳴る。