第97話 真夜中の消失
コンクリートで舗装された細い道が、鬱蒼と茂る木々の間を伸びている。
吸い込まれるような漆黒の宵闇には、街灯が一本も見当たらない。二本の懐中電灯の明かりだけが闇を煌々と照らしている。
「まわり、真っ暗だね」
妹原が上月の左腕に抱きついている。人目もはばからずに怖がっている姿が女の子らしくて、なんとも愛くるしい。
俺が上月に替わって妹原を守ってあげたいくらいだ。上月が羨ましいぜ。
「雫。ごめん、ちょっと動けないから」
「あっ、うん」
よほど強い力で腕をつかまれていたんだな。上月が微妙に迷惑がっている。
それにしても、有名な心霊スポットである例の橋にまだ着いていないというのに、まわりから発せられる妖気が半端ないぞ。
俺は霊感なんて一ミリも所持していないが、この道の先にあるものがいかにやばいものかというのは肌で感じとれる。恐怖で思考が停止しかけるほどに。
自殺しに来る人は、こんな恐怖をもろともせずに橋から飛び降りるんだから、ある意味すごいよな。人としての何かを超越しているとしか思えない。
この恐怖を乗り越える勇気と度胸があるんだったら、自殺なんてしないで生きる選択をすればいいのにな。自殺者はなんでそう前向きに考えられないのだろうか。
そんなことを恐怖の中で考えていると、森が不意に開けてきた。突然あらわれた崖は、白いペンキで塗られた鉄柵で厳重に仕切られている。
コンクリートの道は崖の先まで伸びている。どうやら目的地の橋に到着したようだ。
悪い意味で有名な橋だから、俺はつり橋のような、かなり大きな橋をイメージしていた。しかし目の前に架かっている橋は、うちの近くにあるへんてこな橋と同じくらいの小規模な橋だった。
しかし手すりの前にはフェンスのような金網が設置されており、さらに金網の上に有刺鉄線まで張られている。おそらく飛び降り自殺を防止するためのフェンスなのだろう。
その不自然なフェンスがあたりの暗闇と不気味なまでの静けさと相まって、とてつもない気味悪さと恐怖感を俺たちの心に植えつけてくる。異様な光景すぎて喉がからからに渇いてくる。
けれども一方で、フェンスの先の暗闇へと吸い込まれるような高揚感を感じるのはなぜだろうか。気味が悪いはずなのに、崖の先に気持ちが釘付けになっているような気さえする。
いや、何を考えているんだ。気をしっかり持て。こんな場所に吸い込まれたら一巻の終わりなんだぞ。
「八神。平気か?」
右斜め前を歩く山野が俺に振り返っていた。
「あ、ああ。平気だ」
「ぼうっとしているみたいだが、気分が悪いんだったら車に戻った方がいいぞ」
こいつのこんな何気ない優しさが弓坂の心を射抜いたんだろうな。羨ましいかぎりだぜ。
「いや、本当に平気だ。気にするな」
「そうか」
「それにしても、すごく嫌な感じがするな。なんなんだよ、ここは」
額に少しにじんできた汗を手で拭う。山野が言葉をつづけた。
「そうだな。幽霊なんて信じてはいないが、嫌な感じがするのはたしかだな」
お前もこの嫌な感じをちゃんと察知しているんだな。この期に及んで強がったりしたら、橋からバンジージャンプでもさせてやろうかと思っていたが。
肝試しというと、目的地の心霊スポットに到着して終わりじゃなくて、ここで無駄に強がってはしゃいだり、度胸を試すためにひとりでその辺を歩きまわったりするんだよな。
ここは橋だから、橋をひとりで渡ったりするのが普通なんだろうけど、そんなことをしてはたしてだいじょうぶなのか?
幽霊とかそういったものは俺も断じて信じたくないが、この橋をふざけて渡りきったりしたら、いろんな霊的な何かに取り憑かれて、取り返しのつかない事態になってしまうような気がする。
とりあえず橋の近くまで行ってみたが、懐中電灯のライトで照らすと、足もとに花が供えられているよ。
この花は、だれがどういう意図で供えていったんだ? その回答はあまり考えたくないぞ。
後ろの木の茂みの陰から、車の走る音が聞こえたような気がして、俺は後ろに振り返った。しかしそこに立っていた女は、車なんかじゃなくてただの上月だった。
「なによ。急に振り返ったりして」
「別に、なんでもねえよ」
上月の恐怖と訝しさの混ざった視線が少し鬱陶しい。上月には聞こえていないみたいだから、さっきの音は俺の空耳だったんだな。
俺は橋に視線を戻して、人差し指で意味もなく指してみた。
「せっかくだし、向こう岸までちょっくら歩いてみるか?」
すると妹原がびくっと小猫みたいに反応した。
「や、やめた方がいいよっ」
「そうよ。なに考えてんのよ、あんたは」
一方の上月は口を尖らせて、いつもの太々しい態度で返してくる。だが、びびっているのか、声にいつものような張りがない。
「あたしたちの前でかっこつけるのはかまわないけど、行くんだったら、あんたひとりで行ってよね」
お前の前でかっこつける気はさらさらないが、妹原にはかっこつけたいな。だが、この殺気丸出しの橋をひとりで渡り切る勇気は、残念ながら俺にはない。
「なら、俺と八神でひとっ走りしてくるか?」
横からずいっと身を乗り出した山野が、相変わらずの無感情面で俺に賛同したが、
「だめだよっ。お化けに呪われちゃうよっ」
妹原は上月の手にしがみついて猛反対している。目には大粒の涙をためて、すごいびびりようだ。
妹原ってこんなに怖がりだったんだな。知らなかったよ。
度胸試しの提案をこれ以上つづけたら、妹原に本気で嫌われてしまいそうだ。今日はこの辺りでおとなしく引き下がった方が身のためだな。
山野に目配せすると、山野が小さく嘆息した。
「わかった。なら、ここで引き返そう。もともと先まで足を踏み入れないという約束だったからな。弓坂、もう撤収でいいよな?」
山野の少しこもった低い声が宵闇に響きわたる。
弓坂のおっとりとした返事を、俺たちは当然ながら期待していた。しかし訪れたのは、なぜか夜中の静寂だった。
「弓坂? どこにいるんだ? いるなら返事しろ」
山野は呼びかけるが、だれからも応答はない。
どういうことだ。弓坂はなぜ返事をしない?
「弓坂、どこだっ」
「未玖ちゃんっ」
俺たちも振り返って呼ぶが、弓坂ののんびりとした声は返ってこなかった。
今、橋の前にいるのは、弓坂を除いた四人だけだ。執事の松尾さんと長内さんは車の近くで待機しているので、俺たちの見える場所にはいない。
弓坂がいつの間にかいなくなってしまった。これは一体どういうことだ。あいつはどこに消えてしまったんだっ。




