第70話 弓坂の正体
いつもならそのまま二度寝しているところだけど、今日は気持ちが逸っているのか、布団に入っても全然寝付けなかった。
寝るのはあきらめて、夜明けからだらだらとゲームをはじめた。そして朝の十時をまわったくらいに、スマートフォンの着信音が鳴った。
画面に表示された電話番号はアドレスに登録していない番号だけど、十中八九学校からの電話だろう。
「はい。八神です」
『あら、八神くん? おはよおっ』
受話口の向こうにいる気持ち悪い人は、担任の松山さんだな。
朝の挨拶を手短かに済ませると、松山さんは言いづらそうに声色を変えて、
『八神くん。ごめんねぇ。今回のことなんだけどねぇ、先生がんばってみたんだけど、教頭先生がもぅ、すっごいかんかんでねぇ。抑えるのがむずかしかったのよぅ』
松山さんのおネエ口調を長々と傍聴するのは精神的につらいので、話を要約すると、俺には来週末までの謹慎処分が下されたようだ。
つまり警察に言われたとおりに、一週間の停学処分を受けてしまったのだ。
こうなることは予期してたけど、先生の口から正式に告げられると、ずしりと重いなにかを感じずにはいられないな。
目の前が当然真っ暗になって、とり返しのつかない悪事をしでかしてしまったんだという絶望感が部屋中を覆っているような気がする。こんな深刻な気分に落ちるのははじめてかもしれない。
これで俺の内申点には、四十四口径マグナムで撃ち抜かれたような、大きな銃痕がついてしまったのか。とほほ。
「山野と上月はどうなるんスか?」
『山野くんと上月さんもおんなじよ。でもね、先生はそんなことよりも、みんなのお身体の方が心配なのよ』
松山さんは気持ち悪い先生だけど、基本的には生徒想いのいい人だ。余計な迷惑をかけてしまって、申し訳ない。
「怪我はしてないから、身体はだいじょうぶです」
『あら、そお? 山野くんと八神くんは、先生が看病してあげたかったのに。ほんとにお身体だいじょうぶぅ?』
三十すぎのおっさんの艶っぽい声を聞いて、ぞわっと背筋が凍りついたぞ。
「だ、だいじょうぶです。じゃあ、朝飯の用意をしないといけないんで、それじゃっ」
『ああっ、八神く――』
松山さんにはやっぱり関わらない方がいいな。通話を即座に切って、自分の胸に再度言い聞かせた。
* * *
昼に山野から電話があって、放課後に弓坂と会うことになった。
弓坂がどうやって中越の親父を抑えたのか、仔細を説明してもらうためだ。
中越の親父と弓坂の親父さんは知り合いらしいけど、じゃあ弓坂の親父さんは何者なのか?
中越の親父を抑えられるんだから、相当な地位の人なんだと思えてならないけど、まさか政治家じゃないだろうな。
上月といっしょに早月駅へと向かい、駅の構内で山野と待ち合わせする。ふたりとも疲れているみたいだけど、身体に別状はないようだった。
そして通行人でごった返す駅構内をすぎて、駅前にあるカフェへと向かうと、
「あ、ヤガミン。こっちこっちぃ」
窓側の客席からにこにこしながら手を振る弓坂が座っていた。
となりには妹原もちょこんと腰かけている。俺と目が合うと優しく微笑んでくれた。
「悪いな。待たせちまって」
「ううん。ぜんぜん、だいじょうぶだよぅ」
弓坂の様子はいつもと変わらない。いつも通りすぎるくらいの、能天気でおっとりとした、虫一匹すら殺せなそうな普段の弓坂そのものだ。
なのに今日は、弓坂の笑顔が一種の不気味な仮面に見えてくる。上月と山野も同じ思いだったのか、いつになく神妙な面持ちで弓坂を見ていた。
カウンターでカフェを注文して、午前中に学校から電話があったことを簡潔に伝えた。妹原と弓坂は素直に残念がって、慰めの言葉をかけてくれた。
「それじゃあ、弓坂。くわしい話を聞こうじゃないか」
「うん」
背筋を正して口を切ると、弓坂は真剣な面持ちでうなずいた。
「中越先輩のぉ、お父さんの会社は、なんていう名前だったっけ?」
「フロントエンドのことか?」
俺が即答すると、弓坂は「そぅっ」と声を少し弾ませる。
「そのぉ、フロントエンドっていう会社はね、お父さんの会社の、ええとぅ、子どもの会社なの」
弓坂のいまいちわかりづらい回答に、俺を含めた四人の思考回路が一時停止する。
ええと、つまり、どういうことだ?
文脈から察するに、『お父さんの会社』のお父さんというのは、弓坂の親父さんのことで合ってるんだよな?
弓坂の親父さんは政治家じゃなくて、中越の親父と同じく社長なのか?
「もしかして、未玖のお父さんも、どこかの会社の社長さんなの?」
「……うん」
上月の問いに、弓坂がなぜか申し訳なさそうにうなずく。
子どもの会社というのは、子会社のことだな。ということは、弓坂の親父さんが経営する会社は、フロントエンドの親会社であるということだ。
ああ、なるほど。だから弓坂の親父さんは、中越の親父よりも偉いのか――。
「ちょ! ちょっと待て弓坂!」
「もう、いきなり立たないでよっ」
衝撃的な事実にはたとたどり着いてしまった。気づいたら俺は立ち上がって、歌舞伎役者のように手の平を弓坂に突き出していた。
いや、待て。八神透矢。落ち着いて事実を確認するんだ。
となりで不快感を示す上月を全無視して、速やかにスマートフォンをとり出す。画面下部にあるWEBブラウザのアイコンをクリックして、検索サイトを表示させる。
真ん中の入力ボックスに『アーキテクト』と打ち込んで、検索ボタンを押下する。検索結果の最上部に表示されたアーキテクトの公式サイトのURLを指で押して、サイトを表示させた。
「さっきから何を調べてんのよ」
「まあ黙って見てろ」
不快感を募らせる上月を山野が横から制する。
ゲームのキャラクターたちでごちゃごちゃしたトップページのサイドメニューから会社概要のタブを選択する。
生唾を呑み込んで、ページの真ん中に表示されている代表取締役社長の欄を確認する。そこに書かれている名前は、弓坂宗一郎――。
「弓坂の親父さんの名前だけど」
「うん」
「弓坂宗一郎さんっていうのか?」
「……うん」
俺の背中に、またサンダーストームのような紫電の高エネルギー体が落下した。前回よりもはるかに大量に。
弓坂は、ゲーム会社の最大手であるアーキテクトの社長令嬢だったのだ!
だって、あのアーキテクトだぞ。俺や木田をはじめとする、中学高校のゲーマーだったらだれもが憧れる、ゲーム会社最大手のあのアーキテクトなんだぞ。
こんな衝撃的な事実を聞かされて、驚かずにいられるかっ。
ふるえる手を抑えて、サイトを上月や妹原に見せる。ふたりとも「うそっ」と口に手をおさえて絶句した。
アーキテクトは超有名だから、女子でもゲームをやっているやつだったらたぶん知っている。男なら、山野だって名前くらいは知ってるんじゃないのか。
そりゃあ、アーキテクトの社長が脅せば、たかだかマイナーな子会社の社長のごときなんて一撃で撃沈するよな。
そうか。そういうことだったのか。
「ちょっと、透矢。だいじょうぶ?」
これは事件だ。あまりに衝撃的すぎるから、全身から力が抜けて、身体が海月みたいに軟らかくなってしまう。
となりで上月が呆れているけど、すまない。今はお前に反論する余力をとても捻出できそうにない。
一週間の停学なんかよりも、はるかに大きな事件だ。昨日の暴力事件なんて、掬った水で簡単に洗い流せてしまうくらいの衝撃じゃないか。
だって、こんなこと、だれも予想できるわけがないんだから。
「未玖ちゃんのお父さんって、すごい人だったんだね。知らなかった」
妹原も素直に驚いてくれているみたいだけど、俺は社長という役職だけに驚愕しているんじゃないぞ。――と力説したところで、ゲームをやらない妹原にはわかってもらえないのだろうが。
「八神だけが大げさに驚いているみたいだが、弓坂の会社はそんなにすごいのか?」
山野はいつものロボット面で平然と言いやがったが、ならお前もゲームやれよ。お前はそろそろいい加減に機械の気持ちを理解した方がいいと思うぞ。
上月なんて、俺を相手にするのがもはや面倒になったのか、俺を完全に置き去りにして、
「未玖は、中越先輩の会社のこと、最初からわかってたの?」
弓坂にそう問うと、弓坂はふるふると首を横にふった。
「ううん。気づいたのはぁ、ヤガミンが、中越先輩のことを調べてくれてから。中越先輩の苗字は、どこかで聞いたことあるなあって、思ってたんだけどぉ、食堂で聞いたときは、全然思い出せなかったの」
「なら、フロントエンドっていう社名で気づいたのか?」
「うん」
弓坂が森の動物みたいに小さくうなずく。社名で気づく方が稀だと思うが。
「中越先輩のお父さんは、新年会で、何度も会ったことあるしぃ、お父さんもね、会社のこと、いつも言ってたから、覚えてたの」
「そうだったんだ」
「うん。それにね、ここだけの話なんだけどぅ、評判もぉ、あんまりよくないんだよ。中越先輩のお父さん」
つまり親子そろって迷惑野郎だったということか。
「だからね、なにかあったらいけないって思って、お父さんに相談しておいたの。麻友ちゃんや、みんなに迷惑をかけることがあったらぁ、なんとかしてって」
そうだったのか。
俺と上月がくだらない喧嘩をしている裏で、弓坂はひそかに気をまわしてくれていたのだ。夢にも思っていなかった。
そんな弓坂の杞憂と気遣いのお陰で、俺や上月の被害が最小限で留められたんだから、どんなに感謝してもしきれないな。窮地を救ってくれた恩人だ。
「みんなには言わなきゃって、ずっと思ってたんだけどぅ、なかなか言い出せなくて。今まで黙ってて、ごめんねぇ」
「あ、いやいや」
弓坂になぜか謝られてしまったので、妹原を含めた俺たち四人はいつになく丁重に頭を下げた。