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第177話 妹原とクラシックデート

 期末試験はとくにこれといった波風も立たず、粛々とすぎていった。


 一日目の試験日に受けた数学や古典の答案用紙は、次の週に手早く返却された。点数は自分の予想していたものよりも少し高かった。


 妹原といっしょに勉強した古典の点数がとくによかったのは嬉しかったな。それをあいつに見せたら、妹原は自分のことのように喜んでくれた。


 ――そう、妹原だ。試験の結果をこんなところで長々と語っても、なんの意味はないのだ。


 今日は土曜日。妹原とふたりでピアノのコンサートへ行く、運命の日だっ。


 今は時刻にして朝の八時二十分だ。俺は洗面台に両手をついて、もうかれこれ十分くらい鏡を凝視している。昨日は興奮してなかなか寝付けなかったぜ。


 コンサートの開演時間は午後の三時で、コンサートは開演時間の三十分前には会場へ入るものらしい。なので昼食の時間も考えて、午後の十二時三十分に妹原と待ち合わせを約束している。


 お昼はどこかで食べるとして、空き時間は何しようかな。あいつを退屈させずに今日一日をすごすことができるだろうか。


 興奮する反面、失敗するかもしれないという不安と緊張が心の多くを支配している。俺がつまらない男だと思われたら、妹原は俺のことなんて見向きもしなくなってしまうんじゃないか。


 そんなことを想像すると、心臓の鼓動が興奮とは違う意味で早くなってくる。ああ、神様。どうか、今日一日を無事にすごさせてください。


 ――こんなときばかり都合よく神にお願いしても、それこそ意味はないな。鏡の前で気持ち悪く両手を合わせていないで、さっさと着替えよう。


 クローゼットの扉を開けてふと思ったけど、コンサートに出席するときは、どんな服を着たらいいんだ?


 クラシックのコンサートって、たまにテレビで放送されているあれだよな。市や国が運営している公的で巨大な会場で開かれて、演奏者はタキシードやドレスにぴしっと身を包んで演奏してる感じだったよな。


 テレビで観客の姿は映されないけど、そんな公的で立派な場所に行くのだから、男はスーツにネクタイを締めて行かないといけないんじゃないか?


 やっべえぞ。デートの成功以前に、スーツなんて一着も持っていないじゃないか!? 仮にあったとしても、ネクタイの締め方なんて俺は知らないぞ。どうするんだよ!?


 慌ててスマートフォンでいろいろ調べてみたけど、クラシックのコンサートに出席するときはやはり蝶ネクタイのようなものに合わせた服装にすべきらしい。


 ……やべえ。マジでマジで、やっべえぞ。


 心の中で妙に甲高い声で叫んでしまうが、本当に無意味な行為をしている間に、妹原との待ち合わせ時間が刻々と近づいてしまうっ。


 こうなれば、仕方ない。逆立ちしたって俺の家にスーツなんて一着もないのだから、手持ちの服の中で一番公的そうな学校の制服を着ていくしかない。


 休日に制服で待ち合わせなんてしたくないけど、ださい格好で臨んで妹原に迷惑をかけるより数倍はマシだ。


 俺は激しく落胆して、パジャマのシャツを脱いだ。



  * * *



「八神くんっ」


 待ち合わせ時間よりも十分早くに、妹原が駆けつけてくれた。


「ごめん、待った?」

「いや。っていうか、まだ待ち合わせ時間よりも前だし」


 俺は左手に巻いた時計を出して、わざとらしく時間を確認する。この時計は家にあった、ブランド名もよくわからない安物だ。


 サラリーマンがよくつけているものよりもサイズがひとまわり小さいから、おそらく死んだ母さんのもの――いや、こんな時計のことなんてどうでもいいだろう。


 俺は上月や同中の友達から遅刻魔と怖れられて――いや呆れられている存在だ。だから今日は、デートに失敗しないために、待ち合わせ時間よりも二十分早くに早月駅に到着していたのだ。


 待っている時間はすごく長くて、緊張で胃酸とかが分泌されまくりそうだったぜ。


 生唾を呑んで妹原を見やる。妹原は、ああ。……もう形容しがたい神秘的な姿だった。


 肩にかかる黒髪はアップにして、後ろでくるくると巻いている。髪を留めるのは、バレッタというのか? 蝶の形をした銀色の金属で髪を可憐にまとめている。


 服装はうすい桃色のワンピースに、赤紫色の丈の短いカーディガンを羽織っている。


 ワンピースはシルクのような生地で、表面が艶々としている。光沢があってシワがないそれは、まるで結婚式に出席するときの衣装のようだ。


 ああ。なんか、妹原のこの美しい姿が見れただけで、もう幸せだ。待ち合わせ前の不安は、一目で吹き飛んでしまった。


 妹原が俺を見て目を丸くした。


「あっ、八神くん。制服で来たの?」

「え、あ、ああ。スーツとか持ってねえからさ」


 妹原に恥ずかしい姿を見られてしまったぜ。俺はいたたまれなくなって頭を掻いた。


 そんな姿が面白かったのか、妹原が口に手を当てて微笑んだ。


「今日のコンサートはクラシックコンサートよりもカジュアルだから、普通の私服でも全然問題ないんだよ」

「そうなのか? でも俺、ジーパンとかしか持ってないしなあ」

「ジーパンは、さすがにまずいかなっ」


 妹原がまたくすくすと笑った。


 服装はやはり失敗しちゃったけど、待ち合わせはそんなに失敗していないかもしれない。妹原もなんだか楽しそうだ。


「じゃあ開演まで時間があるから、お昼を食べたら洋服でも見に行こっか」

「ああ。でも、なんだか悪いな。俺のために貴重な時間を費やしちまって」

「貴重な時間って、なにそれっ」


 妹原が微笑みながら俺を見上げる。


「コンサートまでは何をするか決めてなかったから、ちょうどいいと思うんだよね。それに、今日は八神くんがわたしに合わせてくれたんだから、全然悪くなんてないよ。わたしの方こそお礼を言わなきゃ」

「いやいや、そんな」


 俺は入学したときから今日この日をひそかに熱望していたのだから、俺こそ深々と頭を下げたい思いです。


 土曜日のお昼の駅前は、何かのイベントがこれから開かれるんじゃないかっていうくらいに混雑している。人通りの多い場所で立ち話をしていたら通行人の邪魔になるな。


「じゃあ、行こっか」

「ああ」


 微笑む妹原に俺は浅くうなずいた。


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