第174話 上月が妹原も嫌ってる?
黙って駅ビルに入る妹原の後を神妙についていく。妹原といるときは常時緊張しているが、今日のそれは常時のそれをはるかに超えていた。
今日のそれとか、常時のそれとか、時間を示す言葉と指示代名詞のそれを乱用してわけがわからなくなっているが、つまり俺の心境は最高潮にまで緊張していたということだ。
妹原から誘われることだって初めてなのに、今日の妹原は何があったのだろうか。こんなに積極的な彼女は、これまで一度も見たことがない。
ビルのエスカレーターをつかって二階へ上がる。眼前にあらわれたカフェを見つめて、
「このお店でいいかな」
「あ、ああ」
妹原にいつになく真剣な面持ちで聞かれたから、俺は空返事するしかなかった。
お昼時のカフェは平日なのに混雑している。でも入り口に近い席はいくつか空いている。
できれば窓際の席を確保したいが、ぱっと見た感じだとすべて埋まっているな。
「向こうの席は空いてないから、こっちの席にしよう」
「うん」
テーブルにハンカチを置いて、カウンターでコーヒーを注文する。メニューを吟味する余裕なんてないから、適当にカフェラテを注文だっ。
真っ白になりかけている頭を保ちながら、できあがったカフェラテを持って席へ戻る。よく見ると、妹原が手にしているのもカフェラテだった。
「急に、ごめんね。試験中なのに」
「いや、いいよ、別に。ちょっとくらい」
平静を装ってカフェラテを飲んでみるが、緊張感が半端なくて味わえねえよっ。
妹原は、俺に何を話したいんだっ? まさか、そのまさかなのか!?
「八神くんに、前から相談したいことがあって」
妹原が、カフェラテの入ったカップを置いた!
「お、おお」
「最近ね。どうしてなのか、わからなくて、ずっと悩んでるの」
その悩みの種は、僕の男性としての存在が大きくなってしまったことが影響しているのでしょうか!?
俺は生唾を呑み込んだ。
「悩みって、いうのは?」
「うん。……麻友ちゃんがね、なんだか素っ気ないの」
……麻友ちゃん?
「麻友って、上月ことか?」
「うん」
どうやら妹原の伝えたい悩みの種は、上月だったようだ。俺への愛の告白などではなかったんだな。
……そりゃあそうか。はは。
俺がカフェラテを飲むと、妹原もカップを持って口もとで少し傾けた。
「前は、お昼ごはんをいっしょに食べたり、休み時間にもいっぱいお話してたんだけど……いつからだったのかな。麻友ちゃんが、わたしから離れることが多くなって」
妹原が時折言葉をつまらせながら悩みを吐露する。
「わたしは、麻友ちゃんに、ひどいことなんて言ってないのに、どうしてなのかな。麻友ちゃん、わたしのこと、嫌いになっちゃったのかなっ」
妹原のかすれた声は悲痛で、今にも泣き出しちまうんじゃないかと思った。
上月が妹原を嫌いになった?
どうしてだ? ぱっと考えてみるが、俺にも理由がまったくわからない。
妹原と上月はうちの高校へ入学したときから仲良しで、妹原の言う通り、学校ではいつもいっしょにいた。
その仲の良さは、俺が羨望の眼差しで上月を見つめ、「なに見てんのよ、相当きもいんですけどっ」とあいつから軽くあしらわれてしまうほどだ。
それが、どうして……?
「何か、心当たりはないのか?」
妹原に尋ねてみたが、妹原は首を横に振るばかりだった。
「本当にわからないの。どうして、嫌われちゃったんだろ。それとも、前からわたしのこと、好きじゃなかったのかなっ」
「それは絶対にないって」
上月にかぎってそんなことを思っているはずがないっ。
「あいつは、嘘をついたり、上辺だけで付き合うのが苦手なやつだ。妹原のことを嫌ってるんだったら、最初から話なんてしないさ」
「うん、そうだよね」
妹原が両手でカップをにぎりしめる。
妹原を慰めてみるが、肝心の原因を特定することができない。
上月が妹原の悪口を言っているところなんて見たことがないし、その逆もとても想像できない。学校でもいつも楽しそうにしてたんだけどなあ。
「じゃあ、あいつの誘いを断って、あいつが腹を立てたとか?」
「音楽のレッスンがあるから、学校の帰りや休みの日にはあんまり遊びに行けないの。わたしのことを麻友ちゃんがいつも気遣ってくれるから――あっ、そのせいかな!? 麻友ちゃんがずっと我慢してたからっ、いい加減に嫌になって――」
「妹原っ、待て。ちょっと落ち着けっ」
妹原が興奮して立ち上がったから、となりの中年カップルに不審がられてしまった。
「妹原と遊びに行きたいというのはわかるが、そのことが原因で急に嫌ったりしないだろ。嫌う前に、あいつが何か要求するんじゃないか?」
「うん」
「っていうか、月に何度か、あいつと買い物に行ったりしてたんだろ? 弓坂も含めた三人で。その度にあいつが俺に報告してきたんだぞ。すんげえ嬉しそうに」
上月は妹原や弓坂と遊ぶと、それをいちいち俺に報告してくるのだ。嫌味ったらしく。機嫌がいいときは、買ってきた服をわざわざ俺の目の前で広げたりして。
そんなあいつの無邪気に喜ぶ姿を思い返すと、妹原を前々から嫌っていただなんて、とても思えない。あいつは、頭がおかしくなってしまったのだろうか。
落ち込む妹原と挟むこの重い空気に耐え切れず、テーブルに置いていたカフェラテをぐいっと飲み干す。
上月の様子の変化は、俺も気になっているところだったのだ。
「妹原と関係あるのかわかんねえけど、実は俺も、最近はあいつとろくにしゃべってねえんだよ」
独り言のようにつぶやくと、妹原が重い顔を上げた。
「八神くんも、仲悪くなっちゃったの?」
「ああ。と言っても俺は妹原と違って、あいつとしょっちゅう喧嘩してるし、喧嘩するたびに無視し合うことなんてざらだからな。あんまり関係ねえかもしれないけど」
「そうなのかな。でも、気になるよっ」
妹原に心配してもらえるのは嬉しいな。俺がこいつを慰めないといけない立場なんだが。
「でも、なんていうか、今回の喧嘩は得体が知れないっていうか、原因が判然としないんだよ」
「判然としない……?」
「ああ。いつも喧嘩するときは……原因は大体くだらねえことばっかりなんだけど、今回は俺も心当たりがなくてさあ。ちょっと困ってるんだよ」
俺も上月から距離を置かれているが、妹原と何か関係があるだろうか。
「そうだったんだ。八神くんも麻友ちゃんと喧嘩してたなんて、知らなかった」
「体育祭が終わった頃くらいかな。急に俺を避けるようになったんだよなあ」
「そう! わたしも避けられてる感じがするの! どうしてなの!?」
妹原も俺と同じように避けられてたんだな。
だが腕組みして考えても、明白な答えはやはり出てこない。カフェで一時間くらい妹原と討論したが、原因を突き止めることはできなかった。
「八神くんに相談してすぐに帰ろうと思ってたんだけど、ずいぶん長居しちゃったね」
ビルの駅への連絡口を歩きながら、妹原が申し訳なさそうに言った。
「しょうがねえよ。上月の態度は俺も気になってたからな。早く機嫌を直してくれたらいいんだが」
「うん。そうだね」
駅の改札の近くは今日も人でごった返している。俺の斜め後ろを歩く妹原の目を離すと、そのままはぐれてしまいそうだ。
「じゃあ、俺は電車で帰るから」
「うん」
妹原は電車に乗らないから、ここでお別れだ。けれど、妹原はまた少しうつむいて、自宅へ帰ろうとしなかった。
「八神くん。あのね。……来週の土曜日って、予定空いてるかな」
来週の土曜日? それは試験の終わった次の週だから、もちろん空いているが。
「ああ。空いてるけど、それがどうした?」
「うん。その、お父さんがクラシックコンサートのチケットを二枚買って、友達と行ってきなさいって言われたんだけど、いっしょに行ってくれる人がいなくて」
……えっ、それってつまり、デートのお誘いなのでは。
「麻友ちゃんに行こうって言ったんだけど、断られちゃって。未玖ちゃんもその日は用事があるって言うから。だから、いっしょに行ってくれないかな」
なんだと!? 妹原からっ、直々にデートのお誘いだとっ!?
そんな、マジかよっ。これは夢なのか? 夢じゃないよな。
今すぐに右の頬をつねって、今の世界が夢であるかどうかを確かめたいけど、そんなことをしたら妹原に気持ち悪がられてしまうっ。
信じられねえっ。妹原から誘われるなんて、本当に夢のようだっ。俺、もうこの場で昇天してもいい。
「八神くん?」
妹原に呼ばれて、はっと我に返った。
「音楽のコンサートなんて、行きたくないよね。クラシックが好きな人じゃないと、きっと楽しくないし――」
「そんなことはないっ! 行く! 絶対に行くぞっ」
興奮してつい声が裏返ったから、妹原に苦笑されてしまった。
「ありがとう。でも、無理しなくても――」
「無理なんて全然してないっ。ああ、今からすっげえ楽しみだあ!」
身体中に沸き上がる喜びを素直に伝えているだけなのに、なんでだろうな。動きが微妙にわざとらしくなってしまう。
妹原に不審がられそうだったので、その後も二、三度念を押して、俺たちは解散した。
来週の土曜日は、妹原とデートだっ。……ああ、恋の神様は、ついに俺に微笑んでくれたんだっ。