第170話 妹原といても気になるあいつ
図書館で勉強しているから、妹原と会話することは少なかった。話すことも古文の文法の確認や、梓弓の解説や問題の相談ばかりだった。
すごく真面目なデートだけど、それだけでも、すごく楽しい。心が躍って、時間をつい忘れてしまう。
「この接続助詞は、なんて訳すのかな」
「そこは『ないで』と訳すんじゃないか? たぶん未然形だよ」
「そっか。先生もそんな風に言ってたね」
俺のかろうじて覚えていた授業の内容が、妹原の役に立ったみたいだ。
「この『すれ』とか、『ぬめる』なんかもややこしいよな。いつもわかんなくなる」
「ふふっ、そうだね。『すれ』は、サ行変格活用の言葉じゃなかったかな。『める』は、『めり』の連体形だよ」
おお、そうだったのか。忘れないうちにノートにメモを残しておこう。
妹原はクラス一位の才女なだけあって、俺よりも頭がいい。彼女の実力を疑っていたわけじゃないが、学力の高さに改めて舌を巻いた。
好意や恋愛的なことを抜きにしても、妹原は学業の良きパートナーになるんじゃないか?
現に苦手な古文の勉強がすこぶる捗っている。梓弓がこんなにわかりやすく、そして楽しいと思えるようになったのは、今日がはじめてだぜっ。
「妹原は、やっぱり頭がいいな。さすがだぜ」
「ふふっ。八神くんだって、充分すぎるくらい頭いいと思うけどなあ」
それは買いかぶりすぎだぜ。
試験の点数こそ妹原と大差がないものの、妹原の成績は音楽を両立させた上でのものだ。普段から適当な生活を送っている俺と比較してはいけない。
梓弓を一通り勉強し終えて、ノートの綴じ目にペンを置く。上月に勉強を教えているときと違って、自分の勉強が捗るな。
クラス一位の妹原と上月では差が出るのは当たり前か。
あいつは、俺の力を借りずに試験勉強をやると息巻いていたが、ちゃんと勉強しているのだろうか。思い出すと、ちょっと心配になってくる。
保護者ぶってきもいからやめろと言ったのはあいつなんだから、俺が余計なことを考える必要はないのだが、なんでだろうな。あいつの言う通り、俺は潜在的に保護者ぶっているのだろうか。
「八神くん?」
妹原に声をかけられて、俺は我に返った。
「八神くん、どうしたの? ちょっと、ぼうっとしてたみたいだけど」
「いや、なんでもない。ずっと集中してたから、疲れたんだよ」
妹原に心配をかけたくない。俺は気を取り直してペンをとった。
それから三十分くらい勉強して、時間が遅くなってきたので、そろそろ帰宅することにした。
「腹が減ったし、なんか食べてくか?」
「あっ、うん。そうしたいけど、お母さんが、うるさいから」
妹原の親なら買い食いを禁止しそうだな。俺としたことが、失言だった。
教科書とノートを鞄にしまって図書館を出る。日はまだ落ちていないが、空が曇っているから辺りは暗い。
「八神くんは、山野くんや木田くんとご飯を食べに行ったりするの?」
「どうかな。金欠だから、いつもじゃないけど、週一くらいは食べに行くかな」
「そうなんだ。いいなあ」
妹原が肩にかけた鞄の紐をにぎりしめる。買い食いに興味があるなんて、意外だ。
「買い食いとか、してみたいのか?」
気になったので尋ねると、妹原が小さくうなずいた。
「毎日のようにしたいわけじゃないけど、一度もしたことないから。麻友ちゃんや未玖ちゃんも、たまにコンビニでお菓子やアイスを買ってるみたいだし」
上月はたぶんたまにじゃなくて、わりと頻繁に買い食いしていると思うが――じゃなくて、仲のいい友達がしていたら、自分もしてみたいと思うよな。
両親が厳格で教育熱心だと、子どもは苦労するよな。
俺の死んだ母親や上月の母さんなんかは、教育熱心ではないと言うと語弊があるが、妹原の親みたいに厳しくはない人たちだ。だから妹原の苦しみを完全に理解することはできないけど、そういう悩みもあるんだなあと思った。
「未玖ちゃんのおうちも、お父さんがすごく有名な人だけど、どうしてうちとは違うのかなあって、思うの。わたしだって、未玖ちゃんと同じ子どもなのに」
弓坂の親父さんはあの超有名なゲーム会社の社長さんだが、その人や弓坂の家族が厳しいという話は俺も聞いたことがない。
厳しいどころか、文化祭のときは俺んちに泊まると言って、執事の松尾さんはあっさり了承しやがったからな。日本でも指折りの名家なのに、むしろフランクすぎるだろ。
沈黙に気がついて妹原が苦笑した。
「なんてね。ごめんね、変なこと言って」
「あ、ああ。別にかまわねえけど」
その後は話題が途切れて、黙々と歩いているうちに早月駅へと着いてしまった。妹原との楽しい時間は、これで終わりか。
「じゃあ、わたしのうちは、こっちだからっ」
「あ、ああ」
ここで彼女とお別れだけど、何か、言葉をかけたいっ。
「その、悩んでるんだったら、相談してくれよ。俺じゃ、力になれねえかもしれねえけど」
なれねえかもじゃなくて、力にならないといけないんだろ! 己の気弱な発言に悲しくなってくる。
「でもその、だれかにしゃべると、少しは気が紛れるだろ。だから、俺でよかったら、相談してくれっ」
妹原は鞄の紐をにぎりしめて、俺から数歩はなれた場所でたたずんでいた。少し硬い表情には、驚きと困惑が混ざっているような気がした。
妹原は二度瞬きをして、小さくうなずいてくれた。
「うんっ」




