第153話 海の外へ出るのは、そんなに大切なのか
この話では主人公の視点で海外進出を否定的に書いています。
ですが、作者個人として海外進出やグローバル化を否定するつもりはありません。
あくまで親の海外進出の影響をもろに受けてしまった主人公の考えですので、お気をつけください。
話の方向は変わってしまうかもしれないけど、雪村の話を聞いていて、どうしてもわからないことがひとつだけある。
海外で成功するのが、そんなに価値のあることなのだろうか。
俺は、父親があんな感じだから、身近な人間に海外へ行かれることを良いと思えない。むしろ反吐が出るくらいだ。
好きな人と別れるのがそんなに嫌なら、日本の高校に通いながら絵を描けばいいんじゃないか。とても素朴な疑問が頭を過ぎってしまった。
「あんたの気持ちを無視するようなことを言ってしまうんだが、日本でがんばるっていう選択肢はないのか?」
口を開いてみると、雪村が俺の顔を見上げた。
「俺は絵の世界なんて全然わからないから、わざわざドイツへ留学する価値がわかんないけど、日本の美大へ通ったりするんじゃダメなのか? 日本の美術のレベルだって、それなりに捨てたもんじゃないと思うけど」
自分の意思に反して口がぺらぺらと動いてしまう。
これで彼女が考えを変えて、日本に残ることを決心したら、弓坂にとって不利になってしまうというのに。何をやってるんだ。
でも、泣き腫らす彼女の姿を見ちまったら、山野と別れてくれと冷然と突き放すのがつらいんだよな。
雪村はぽかんと口を半開きにして、俺をしばらく見つめていた。そして、くすりと笑って、
「八神さんって、変なことを言うんですね。わたしに日本に留まられたら、弓坂さんにとって都合が悪くなると思うんだけど」
俺の心中を簡単に言い当てられてしまった。
「いや、ぶっちゃけそうなんだけど、なんか、ほっとけなくて」
「ふふっ、変な人ですねっ」
素行が変な人に、変な人と言われたくはないだけどな。
「柊二くんが、八神さんの話をいつもするから、どんな人なんだろうって思ってたけど、柊二くんが信頼するのがわかる気がする」
俺はあいつに信頼されてたんだな。いつも冷たくあしらわれてるから、相手になんてされてないんだと思ってたけど。――いや、俺の話はどうでもいい。
雪村がとなりの手すりに腰を降ろす。そして夜の川を見ながら言った。
「わたしは、ヨーロッパで絵を描きたいの」
どこからともなく吹いた夜風が彼女の頬をなでる。耳元の髪がかすかに揺れる。
「わたしが絵を描いたきっかけは、ヨーロッパの油絵に憧れたからなの。ヨーロッパの絵画の繊細な筆遣いや色彩に憧れて、あんな美しい絵を小さい頃から描いてみたくて。だから、小さい頃からヨーロッパに行きたいって思ってたの」
「そうだったのか」
ヨーロッパの絵はたしかに繊細できれいだ。日本のそれとの違いは俺にはよくわからないが、専門家からしたら、和食と洋食くらいの違いがあるのかもしれない。
「だから、中三のときに先生からお声をかけていただいたときは、天にも昇る気持ちだったな。先生の下で大好きな絵をたくさん勉強できる、ゴッホやダ・ヴィンチみたいな、最高の絵が好きなだけかけるって、思った」
ああ、やっぱりこの人は、一般人と見ているところが違う。彼女の話を聞いていて、そう思った。
この人の夢は、画家になってやろうという軽々しくて浅ましいものじゃない。美術の教科書に載っているような、ヨーロッパの歴史に残るような名画を本気で描きたいと思ってるんだ。生まれたばかりの子どものような純粋さで。
山野に絵の天才だと言わせしめた理由が、よくわかった気がする。
真の天才は、才能におぼれない。飽くなき好奇心と貪欲さで我が道を突き進んでいくから、傲慢さや虚栄心がひとつもない。
彼女の天性の才能に感化されたら、俺だって身を引こうと思うかもしれない。
「あ、ごめんなさいっ。わたしの話ばっかりして」
俺が絶句していることに気づいて、雪村が頭を下げた。
それでも、どうしても許せないことがあるんだ。
俺は、親父が海外で仕事しているせいで、かなりの苦労を強いられている。母さんなんて、そのせいで亡くなったんだと言ってしまっても過言ではないくらいだ。
だから、海外へ渡航する人にいかなる理由があっても、それを素直に応援しようという気持ちにはなれない。日本に残される人の気持ちも考えてほしいよなって、思ってしまう。
「俺の父親は海外で仕事してるから、海外に進出するのって、あんまりいい気がしないな」
「えっ、八神さんのお父さんって、海外で働いてるの?」
「ああ。今は夏休みなのか、日本に帰ってきてるけど」
「そうだったんだ」
雪村が困惑してるから、親父の話はちゃんとしないといけないか。
「うちは親父が海外で暮らしてるから、大変だよ。母さんはひとりで俺を育ててくれたから、過労でたおれちまうし、親父は母さんの葬式には来ねえし、もうひどいもんだよ」
雪村は瞬きしないで俺の話に聞き入っている。
「一応、離婚はしてなかったみたいだけど、片方が死ぬまでずっと別居してたなんて、事実上は離婚したようなもんだろ。なんだかなあって思うよ。……そうしたら、忘れた頃に親父が帰ってきて、父親面し出すし」
「それは、わたしも嫌かな」
「そうだろ。たまったもんじゃないよ」
気づいたら俺の愚痴話になっているが、話は大方済んでいるから、まあいいか。
「あいつが何を企んでるのか、よくわからねえけど、俺は、あんな人でなしに利用なんてされないからな。絶対に」
そうだ。それだけは何がなんでも阻止しなければならない。俺は右手を強くにぎりしめた。
「――って、こんな話、部外者のあんたにすべきじゃないよな」
「あっ、ううん。そんなことはないよっ」
雪村が高速で手を横に振る。
「わたしは、自分がヨーロッパに行くことしか考えていなかったけど……そうだよね。家族は、迷惑だよね」
ゆるやかに流れる川の水面に三日月が映し出されている。
「わたしのお父さんもお母さんも、何も言わないけど、本当はわたしにヨーロッパに行ってほしくないんだと思うし。柊二くんも、きっと」
雪村が俺に振り返って言葉を続けた。
「でもわたしは、八神さんのお父さんの気持ちが、少しわかる気がする。お父さんもきっと、わたしみたいに海外に行って、やりたいことがたくさんあるんだと思うの」
「だからって、そんな簡単に海外へ行かれてたまるかよ。日本に残された俺たちだって、俺たちの夢や希望があるんだっ」
そうだ。俺たちだって、あんたほど立派じゃないかもしれないけど、やりたいことや叶えたいことがあるんだ。
海外で成功を収めたいっていう気持ちは尊敬できるけど、やっぱり俺の意見とは相容れない。親父のせいで散々苦労させられて、母さんまで亡くしてしまったのだから。
雪村は言葉をなくして、視線を川へ戻した。
「柊二くんもきっと、そう思ってるんだよね。柊二くんは優しいから、わたしに何も言わないけど、わたしの知らないところで悲しんでるんだよね」
雪村が顔を上げて夜空を見上げた。東の空に昇っていた三日月は、微弱な光を放っている。頼りないけど、どこか儚げであった。
「柊二くんのためにも、ちゃんと答えを出さないとね。別れたのに、中途半端にずるずると会ってたら、柊二くんに悪いもんね」
雪村が起き上がって言った。
「八神さん。話を聞いてくれて、ありがとう。柊二くんに、ちゃんと伝えるから。いつまでも、柊二くんの友達でいてね」
「あ、ああ。……あんたも、いろいろ大変だと思うけど、がんばれよ」
「うん」
三日月の光を背に受けた雪村は、夜空に浮かぶ星のように光り輝いていた。無邪気に微笑む彼女は、思わず心を奪われそうなくらいにきれいだった。