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第152話 雪村の想い

 雪村には腹が減っていないと告げたものの、何か食べないと空腹に耐えられそうにないぞ。


 少し考えて俺は、コンビニでおにぎりをふたつ買うことにした。


 上月の分の弁当を買っている時間はないので、雪村との予定が急遽入ってしまったことをメールで送った。


 雪村の名前が出れば、何かとうるさい上月でも文句は言ってこないだろう。


 俺はスマートフォンをポケットに戻して電車に飛び乗った。


 早月駅に到着して中央改札を抜ける。平日の夜は人の姿が多い。


 人ごみを掻き分けて、約束の場所である土手へと向かう。走って行けば五分くらいで到着できるほどの距離だ。


 雪村はちゃんと来てくれるだろうか。そして俺になんて相談してくるのか。


 瀬上川にかかる橋を渡って、川沿いの道を学校へと向かって歩いていく。土手に目を向けて雪村の姿を探す。


 明かりのついていない土手は薄暗く、人気がまったくない。雪村の姿も見当たらない。


 雪村と初めて会ったあの日、対岸のビルが見えるこの辺りで彼女は絵を描いていた。


 土手のまわりをうろうろしていても、無駄に疲れるだけだな。柵に座って待つことにしよう。


 それから十分くらいが経過していただろうか。スマートフォンでいつもやっているパズルゲームで暇を持て余していると、左側から女の声がした。


「あ、あのっ、やや、八神さん……ですか」


 この異常な早口とどもり方は雪村で間違いない。俺はパズルゲームのアプリケーションを閉じて、スマートフォンをポケットにしまった。


「ああ。悪いな、いきなり呼び出しちまって」

「い、いいえっ。わたしも、相談したいことが、あり、ありました、のでっ」


 雪村が慌しい動作で頭をぺこぺこ下げる。この挙動不審な動作を見ていると、どうも絵画の天才には見えないんだよなあ。


 服装もタンスのあり合わせを適当に引き出してきたようなシャツとズボンの組み合わせだし、メイクだって特にしていない。挙動不審な動作を除けば、見た目は普通――というか地味だ。


「場所を変えるか? 俺は、話しやすい場所だったらどこでもいいけど」

「わ、わたしも、別に、どこでも」


 雪村も場所にこだわりはないようだ。俺は移動するのが面倒なので、となりの柵に腰かけてもらうことにした。


 彼女にどんな言葉をかけて質問しよう。雪村本人を前にすると言葉がなんだか出てこない。


 雪村も緊張しているのか、じっとうつむいて川の水面を見ている。身体が少しふるえているような気がするが。


「その、話したいことっていうのは、山野のことなんだ」


 微妙に気まずい沈黙を振り切って切り出すと、雪村が不安そうに顔を上げた。


「単調直入に聞いちまうけど、あんたは山野とよりを戻したいのか? そうじゃないのか?」


 なんだか敵を責め立てるような言い方になっているぞ。そんな気持ちはさらさらないんだが。


「わたしと柊二くんのことは、もうご存知なんですね」

「ああ。すまない。あいつから全部聞いた」

「じゃあ、わたしが留学してることも、知ってるんだよね」

「ああ。プロにスカウトされて、ドイツに留学してるんだってな。すげえな」


 絵のことについては素直にすごいと思う。しかも、それを鼻にかける感じじゃないから、尚更すごいと思うんだよな。


「い、いえ。わたしには、絵を描く才能しか、ないから」


 雪村が応答に困っている感じで苦笑する。余計な言葉で困惑させてしまったのなら、すまない。


「柊二くんも、そう言って、わたしのことを褒めてくれました」

「そうなのか?」

「うん。いつもは、褒めてなんかくれないんだけど。……嬉しかったな」


 その言葉を聞いて、この人は山野のことが今でも好きなんだと思った。


 好きじゃなかったら、前に付き合っていた恋人の話なんてしたがらないだろう。でもこの人はそうじゃなくて、山野との思い出を嬉しそうに語っている。


 その無邪気な姿に、かつての恋人を怨んだり嫌っているような印象は伝わってこない。溢れんばかりの好意と揺るぎない信頼関係が感じられるだけだった。


「ああっ、ご、ごめんなさい。わたしの、つまらない話ばかりして」


 雪村が自分ばかり話をしていることに気づいて謝罪する。


 この人を説得するのは、難しいかもしれない。俺は生唾を呑み込んだ。


「話を戻したいんだが、あんたはどうしたいんだ? あいつとよりを戻したいのか?」


 俺が詰め寄るように問うと、雪村は口を噤んだ。


「あいつは、苦しんでる。あんたが現れて、諦めたはずの気持ちに踏ん切りをつけることができなくて迷ってるんだ」


 彼女は何も悪くないのに、それでも責めないといけないのはつらい。けど、山野と弓坂を救うためには、ここですべてをはっきりさせないといけないんだ。


「俺の友達も、あいつのことが好きで苦しんでるんだ。だから、もしあいつと付き合う気がないんだったら、あいつを、振ってほしいんだ」


 ついに言ってしまった。包み隠さずに、はっきりと。


 俺みたいなもてない男が、親友のかつての恋人にとんでもないことを要求している。身の程知らずもいいところだよな。


「あんたの気も知らずに、身勝手な要求を一方的にしているのはわかってる。久しぶりに日本に帰ってきたのに、俺みたいな他人がこんな重たい話をして、申し訳ないと思う。けど、そうしないと、あいつらは――」

「弓坂さんの、ことだよね」


 雪村からの思いがけないひと言に、俺は驚いて立ち上がりそうになった。


「な、なんで、あんたが弓坂のことを知ってるんだ?」

「柊二くんから聞いたの。友達から好かれて、どうすればいいのかわからないって。たしか、弓坂さんって言ってたから」


 あいつから弓坂のことを聞いていたのか。


「弓坂さんは、教室で泣いていた人でしょ?」

「あ、ああ」

「わたし、柊二くんのことを好きな人がいることも知らないで、バカみたいにはしゃいでた。あのときは、本当にごめんなさい」


 雪村が両膝に手をついて頭を下げた。


「柊二くんはかっこいいから、クラスでもてるよね。そんなこと、ちょっと考えればすぐに気づけたはずなのに、浮かれてたのかな」


 好きな人に久しぶりに会えれば、つい浮かれてしまうのは仕方がないと思う。


「わたしが急に帰ってきたから、柊二くんや弓坂さんに、迷惑をかけてるんだよね。それを、八神さんから聞きたかったの」

「そうだったのか」

「柊二くんは、聞いても絶対に話してくれないから。でも、だれに聞けばいいのか、わからなかったから」


 若干だが、風向きが変わってきた……?


 彼女の口ぶりは、山野と別れたことを後悔している感じではない。むしろ、その逆なのではないか。


 雪村がおもむろに立ち上がった。


「実は、どうしたらいいのか、わたしにもわからないの」


 雪村が背中を向けたままつぶやいた。


 そういえば、どもりまくっていた口調が普通になっているな。話に集中して気づかなかったけど。


「ドイツに留学して絵の勉強をしてるけど、全然うまく描けなくて。それで、逃げるように日本に帰ってきたの」


 雪村が自分のことを話し出したけど、俺に何を伝えたいのだろうか。


「一度日本に帰って、気持ちをリフレッシュさせれば、また昔みたいに絵を描けるようになるかなって、思って」


 この人が帰国したことに、こんな重大な理由があったんだな。知らなかった。


「日本に帰って、早月駅のまわりを散歩してたら、この辺りの風景が急に描きたくなって、気持ちの許すままにキャンバスを持って、絵を描いてみたら……柊二くんがあらわれた」


 あの土手で再会した日には、そんな経緯があったのか。


「あのときは、すごく驚いたな。すぐ近くに高校があることなんて知らなかったから、そこに柊二くんが通ってるなんて、夢にも思わなくて」

「それで、あんたとあいつがまた会いだしたんだな」

「うん。柊二くんも、きっと寂しかったんだと思うから、なんとなく」


 雪村が振り返ってうなずいた。


「だめだよね。別れたのに、ずるずると会ったりして。お互いのためにならないのはわかってるんだけど、なかなか辞められなくて」


 この人は、やっぱり山野のことが未だに好きなんだな。


「だけど、柊二くんは優しいから、つい甘えちゃうんだよね。わたしは、自分の夢のために、柊二くんを……見捨てた、のに……」


 雪村の声が弱々しくかすれる。やがてその場にぺたりと座り込んでしまった。


 この人もいろいろと難しい事情を抱えているんだよな。俺や弓坂たちと同じで。


 山野と別れるのは、断腸の思いだったのだろう。――夢をとるか、彼氏をとるか。まさに究極の選択だ。


 自分が同じ立場だったら、どうするのだろうか。夢をとって大好きな人と別れるのか。それとも大好きな人と暮らすために夢を諦めるのか。


 どっちもつらい。つらすぎるぜ。どちらか片方を選択することなんて、俺にはできないぜ。


 雪村はうずくまって泣き続けていた。きっと絵に対する葛藤や、山野への想いがぐちゃぐちゃに交錯して、精神的に追い詰められているんだと思う。


 こんなつらそうな背中を見てしまったら、山野と別れろなんて、とても言い続けられない。俺はただ、彼女が泣き止んでくれるのを見守るしかなかった。


 それから五分くらい経ったのだろうか。雪村が右手の袖でごしごしと涙を拭いた。そして俺にふり向いた。


「ごめんなさい。急に泣いたりして。ちゃんと、柊ニくんとは話をするから。だから、心配しないで」


 真っ赤に腫れた彼女の目を、俺は直視することができなかった。


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