第143話 涙と、後悔
朝の教室の机が衝撃に吹き飛ばされる。むちゃくちゃに押し倒された机の間に横臥する俺を、木田が怒り狂った目で見下ろす。
「てめえが身勝手で、こんな大バカ野郎だったなんて知らなかったぜ。てめえを信じた俺がバカだった」
いきなり殴りかかってきたくせに、勝手なことを抜かすなっ。
「昨日は勝手に学校を休んでおいて、今日はよく学校に来れたな。てめえのなめ腐った根性を、みんなに代って叩き直してやるぜ」
なめ腐っているのはてめえだ。一日目を碌にはたらいていなかったてめえがっ、てめえの棚上げをするなっ。
妹原が俺の傍らにいたが、俺は妹原を押しのけて木田をにらみ返した。
「何が叩き直してやるだ。てめえ、さっきから聞いていれば、勝手なことばっか抜かしてんじゃねえよ。一日目の当番をさぼったのはどこのどいつだ」
「あ? だから昨日はてめえに代って、朝からずっと当番してたんだろうがっ。弓坂と遊び呆けてたてめえには、いくら言ったってわかんねえだろうがなっ」
「遊び呆けてなんていねえ!」
俺の頭で何かが完全に切れた。俺は突進して木田の胸倉をつかみ、黒板まで押しやった。
「透矢っ!」
上月の悲鳴が聞こえた気がするが、そんなものは無視だ。このふざけた野郎を叩きのめしてやるっ。
「俺が弓坂と遊んでただと? そのデマは一体どこから流れてきた。俺にわかるように一から説明しろよ」
「はなせ!」
木田が俺の手を強引に離す。立てられた爪が俺の手に食い込んだ。
「デマじゃねえ。てめえと弓坂が昨日、ふたりで手をつないで遊んでいるのを何人も目撃してるんだよ」
「なんだとっ!?」
「お前ら、昨日の真昼間に仲良くゲーセンで遊んでたんだろ? 制服姿のままで、何時間も違うゲームで遊んでよお」
「それは――」
昨日は弓坂とゲームセンダーに行った。なんでそれを見られているんだ。
いや、見られないわけないじゃないか。その程度の憂慮もできないなんて、俺の心はそこまで疲れ切っていたのか。
愕然とする俺の胸倉を木田が乱暴につかんだ。
「これでわかったか、くそ野郎!」
木田に殴られて俺はまた吹き飛ば――っていうか何度もバカみたいに殴るんじゃねえっ!
「ふざけるな!」
「ふざけてるのはてめえだっ!」
俺が起き上がって殴ると、木田も赫怒して殴り返してきた。教室を巻き込んでの大乱闘がはじまった。
頭に血がのぼった俺の思考回路が完全に停止する。我を忘れて木田に襲いかかった。
だが木田も歯を剥き出しにして反撃してくる。俺よりチビのくせになんて力だ。
こいつは弓坂のことが好きだから、あいつとお忍びでデートしていた俺が許せないのだろうが――そんなものは知ったことかっ!
立ち直ろうとしている弓坂を無用な戯れ言で陥れる輩は絶対に許しておけねえ!
「桂、何をしてるんだ。そいつらを早く抑えろ!」
遠くから山野の指示が飛んでくるが、抑えられるものなら抑えてみろ。
お前らが束になってきたって、俺は止められねえぞっ。振り上げた拳は、敵を殲滅するまで止められることは――。
「やめて!」
妹原の喚呼が俺の脳天に響いて、俺の拳が止まった。顔中に痣をつくった木田も目を大きく見開いていた。
突如として現実に引き戻されて、俺の心に大きな暗翳が差す。身体中に受けていた打撲がずきずきと痛みだしていた。
妹原は、むちゃくちゃに倒された机の傍でしゃがみ込んでいた。大きな瞳にこぼれ落ちそうな涙を溜めて、悲しさで身体をふるわせている。
妹原のとなりでとめどなく涙を流しているのは、弓坂だった。
――ああ、しまった。俺はなんてバカなことをしているんだ。
今まであいつのために死力を尽くしているはずだったのに、我を忘れてあいつを泣かせてしまった。
「八神くんは、みんなを差し置いて遊びに行くような人じゃないっ! 未玖ちゃんだってっ、そんな人じゃない!」
妹原はか細い声を張り上げて俺たちをかばってくれる。
クラスのみんなが疑っても、妹原は俺たちを信じてくれているんだな。こんな、みんなの前で大暴れしちまったやつのことを。
そんなことを思うと、胸から抑えきれない感情がこみ上げてくる。
みんなといっしょに教室の後ろに退避していた上月が、ずいと前に出た。
「雫の言う通りよ。昨日は、その、いろいろあったのよ。くわしいことは、ちょっと話せないけど。……でも、透矢と未玖がみんなを置き去りにしていないことは、このあたしが証言するわ」
上月の思わぬ助け舟まで出て、後ろで不安がっていたクラスメイトたちがざわつきはじめる。となりのやつとこそこそ相談して、俺への視線も疑惑から困惑へと戻っているような気がした。
「それに、昨日はあたしも途中までいっしょにいたんだけどね。ふたりでゲーセンに行ってたのは知らなかったけど。……でも透矢と未玖ばっかり注目されて、あたしはちょっと心外なんだけど」
「だからお前だけ、昨日は少し遅れて登校してきたのか」
山野が絶妙なタイミングで促す。上月は振り返ってこくりとうなずいた。
「本当は、あたしと透矢で学校に行こうと思ってたのよ。だけど、その……」
上月が言いあぐねて俺を見やる。気を遣わせてばかりで申し訳ない気持ちでいっぱいだが、それでも親父のことは言ってほしくない。
上月が「へんっ」と胸を張った。
「まあつまり! 昨日はいろいろなハプニングがかさなって、なんだかよくわからない状況になっちゃったのよっ。だから、はい。今日はもうこの辺で、おしまいっ」
上月の曖昧な説明はところどころに突っ込みを入れたくなるものだったけど、第三者の思わぬ証言が得られたのでクラスメイトたちの関心がだいぶ薄れたようだ。
落ち着きを取り戻した連中から、「なんだよ〜」とか「残念だね〜」という声が返ってくるけど、結局は俺と弓坂の関係がただ気になっていただけなのか。
俺はクラスメイトたちの不興を買って、これからいじめに遭うんじゃないかとハラハラしていたけど、ただの悲観だったんだな。
妹原と上月のお陰でなんとか収拾できて、俺は大きく息を吐いたが、後ろで木田が「けっ」と舌打ちした。
「木田、どこに行くんだ。ホームルームがもうはじまるぞ」
山野が異変に気づいて声をかけるが、木田は聞こえていないように背を向ける。開け放った扉に手をついて、俺を見返してきた。
「こんな野郎と同じ空気なんて吸えるかよ。じゃあな」
そう言い捨てて、木田は教室を出ていった。




