第110話 どうした山野
雪村さんという挙動不審な絵画系女子に遭遇して忘れていたけど、今日はさっさと家に帰ってゲームをやろうと思っていたんだ。
そもそも下校中なんだから、こんなところでだらだらと道草をくっている場合じゃないな。
「山野。こんなところで立ち話をしてても暑いだけだから、さっさと帰ろうぜ」
そう言ってポケットに手を突っ込んで踵を返したが、山野からの応答はなかった。
「山野?」
山野は雪村さんに身体を向けたまま、微動だにしていない。すらっとまっすぐに伸びた背中からどこか哀愁を感じさせるが。
しばらくして山野が俺に振り返ってメガネの縁を触った。
「すまない。八神、今日はひとりで帰ってくれないか?」
山野は俺の返答を待たずに雪村さんに歩み寄って、
「雪村。これからカフェにでも行かないか? 久しぶりに会ったんだし、少し話でもしたい」
「えっ、で、でも、柊ニくんは、あの八神さんといっしょに帰るんじゃ――」
「八神。いいよな?」
山野がまた振り返って俺に同意を求めてくる。
俺は山野とこれから用事があるわけじゃないし、いっしょに帰宅するのが習慣化しているわけでもない。今日は帰る時間が偶然重なっただけだから、ひとりで帰るのはやぶさかではないが。
「ああ。俺は別にかまわないぞ」
うなずきながら妙な違和感をおぼえる。
いつもの山野だったら、こんな強引に予定を変えたりしないんだけどな。あの雪村さんとそんなにいっしょにいたいのか。
「八神。すまないな」
山野が首の角度をわずかにかたむける。だがすぐに雪村さんに注意を向けて、今度は絵の話をし出した。
どうやら今の山野の思考に俺の存在は入っていないようだ。ふたりを邪魔したら悪いから、俺はなるべく足音を立てないようにしてその場をはなれた。
* * *
早月駅始発の各駅停車の私鉄に乗って、最寄の黎苑寺駅に向かう。
夕暮れの車内は人気がなくて静かだ。うちの高校の生徒が何人か見えるが、知っている顔はひとつもないな。
それにしても、あの雪村さんという女子は何者なのだろうか。
山野は同中の友達だと公言していたが、ただの友達にしてはやけに親密だったんだよな。
それに、俺がふたりの関係を問い質したときの、あの微妙な空気。あれは一体なんだったのだろうか。
明らかに俺に対して返答しづらそうだったけど、それは俺の気のせいじゃないよな。
暇つぶしにポケットからスマートフォンを取り出して、いつもやっているパズルゲームを開始させる。十コンボが成功した頃に電車が黎苑寺駅へと到着した。
今は山野と雪村さんの関係が気になって仕方がないから、ゲームに集中することができないな。俺はアプリケーションを閉じてスマートフォンをポケットにしまった。
自動改札機に定期券をかざして駅から出る。駅前のロータリーをポケットに手を突っ込みながらのっそりと歩く。
駅前のコンビニで菓子でも買っていこうと思ったけど、先月は夏休みでいろんなことに金を浪費しちまったから、無駄な金はつかわない方がいいか。
そう思ってコンビニを通りすぎると、右の二の腕に突然車に激突されたような衝撃と激痛が走った。
「な、なな……!?」
車に激突されたという表現はいささか大げさだったが、俺はわけもわからずにロータリーの道路へと吹き飛ばされた。
俺をいきなり殴り飛ばしたやつは、一体だれだ!? っていうか、俺はただ公道を歩いていただけなのに、なんで殴られないといけないんだ!?
ロータリーのコンクリートの上で尻餅をついていると、俺の目の前に傲然と腕組みする輩がいた。そいつが俺を殴り飛ばした――いや蹴り飛ばした張本人だ。
「あんた、あたしが声をかけてるのに、なに無視してんのよ」
俺の前でえらそうに腕組みしているのは、上月だ。うすうすわかっていたことだが、やはりお前だったのか。
上月の左の肘から鞄がぶら下がっている。さっきまで肩に鞄の紐を引っかけていたが、俺を蹴り飛ばした衝撃で紐が肘までずり落ちたんだろうな。
いや、そんな細かい描写はどうでもよくて、
「はあ? 無視するってなんだよ!」
「さっきよ! あたしが声をかけてやったのに、あんた、無視して行こうとしてたじゃないのよ!」
そんなの知らねえよ。
「っていうか、いきなり蹴り飛ばしてくるんじゃねえよ! 俺はムエタイの対戦相手か!?」
「はあ? ムエタイ? なにわけのわかんないことを抜かしてんのよ。あたしを無視するあんたが悪いんだから、蹴られて当然よ」
わけのわかんないことを抜かしてるのはお前だ。自分に気づかない友達を蹴り飛ばす野郎は、日本全国を探してもおそらくお前くらいしかいないぞ。
しかしそんな正論を滔々《とうとう》とつづけてもこいつには一行も意図が伝わらないので、俺は尻についた砂を振り払った。
「それで、あたしを無視して何を考えてたのよ」
「別に、何も考えてねえよ。今日の夕飯は何にすっかなってぼんやり思ってただけだ」
それっぽい理由をさりげなく答えてみたが、上月の疑惑の目はより険しくなるばかりだった。
また蹴られたくないので俺は正直に申告した。
「今日は山野と帰ろうと思ってたけど、別のやつと用事があるからって言うんで、断られたんだよ」
「へえ。あんた、もしかしてエロメガネと喧嘩でもしたの?」
「してねえよ。っていうか、嬉しそうな顔すんな」
上月を無視して帰路に着く。足を踏み出すと上月が後をついてきた。
「じゃあなんで考えごとをしてたのよ。あたしに教えなさいよ」
「どうだっていいだろ。俺についてくんな」
「ついてくんなって言ったって、あたしんちだってこっちの方向だもん。帰り道が同じなのは仕方ないでしょ」
くっ、上月が嫌らしく俺に付きまとってくる。いつもだったらお願いしたってついてこないのに、本当に嫌な女だ。
とはいえ、あの雪村さんのことを隠す必要はない。これ以上付きまとわれたら面倒だから、さっきの出来事を全部しゃべってしまおう。
「さっき、山野と下校してたら、学校のそばの土手で山野の知り合いだっていう人がいたんだよ」
「土手? それって、おっきなキャンバスを立てて風景画を描いてた人?」
お前も雪村さんのことを見ていたのか。
「そうだよ。あの人、どうやら山野の同中らしいんだよ。それで、ふたりで話がしたいって言うから、俺は空気を読んでひとりで帰ってきたんだよ」
「ふうん」
上月が何かを詮索しているような感じで相づちを打つ。
「その人って、帽子をかぶった女の人じゃなかったっけ。エロメガネのただの知り合いなの?」
「さあな。知らねえよ」
程なくして我が家であるマンションに到着した。エレベーターに乗ってしまえば、上月は六階で自動的にいなくなるはずだ。
そう思いながらロビーの集合ポストに向かうと、
「ねえ」
上月がまたしつこく声をかけてきた。
「今度はなんだよ」
「あんた、さっき、今日の夕飯を何にするか、考えてたんだよね?」
はあ? いきなり何を言い出すんだ? あんなのはただの口からでまかせだ。そのくらいお前だって気づいてるだろ。
だが上月は嫌らしさ全開のしたり顔で、「ふふん」とあざ笑った。
「しょうがないから、たまにはあんたの好みに合わせて、ハンバーグでもつくってやろうかなあって思ってあげてるのよ」
「いや、別にたのんでねえし――」
「いいでしょ。はい決定ね」
今日はどうやら山野と雪村さんの関係について徹底的に尋問してくるようだ。こいつの性格の悪さには呆れを通り越して、もはや言葉が出てこないな。
俺はポストの中にあったチラシをごっそり取り出して、ため息をついた。




