第105話 ふたりのひそかなすれ違いは
その後は弓坂と合流して、また楽しい夏休みを満喫した。
別荘には二泊して、五日目のお昼過ぎに別荘を発つことになった。
駅の近くのイタリア料理のお店で昼食を摂って、午後はアウトレットモールで買い物を楽しんだ。
しかし、女子の買い物は長い。高級ブランドのブティックに入っては、これ可愛いだの、あれも可愛いだのと、服を手にとってキャーキャーと騒いでいる。
結局買いもしないのに、時間を惜しまずに店を転々と出入りして、何が楽しいんだろうな。たかだか身体に羽織る布の一枚を選んでいるだけなのにな。
おとなしい妹原もいつになく興奮してたな。目をきらきらと、はしゃぐ子供のように輝かせて――妹原が一番はしゃいでたかな。上月と弓坂を率先して誘っていたのは妹原だった気がする。
たぶんだけど、上月はファッションにくわしいから、ショッピングに慣れてるんだと思う。弓坂も高級ブランドを一番知っているから、妹原ほどはしゃいだりしなかったんだろうな。
妹原のことはどんなところも好きだけど、ショッピングに興奮している姿は理解しかねるなあ。
女子三人のショッピングがあまりに長いので、男女のグループに分かれて行動しようと山野が言った。山野もどうやら長すぎるショッピングに飽きていたようだ。
だから新幹線の到着時間である夕方まで、山野とカフェやアウトレットモール内の公園でだらだらとすごした。
そして帰りの新幹線の到着時間になって、俺たちは軽井沢駅のホームへと降りた。
「みんなとの旅行もぅ、終わりなんだねぇ」
「そうだな」
儚げにつぶやく弓坂に相づちを打つ。
旅行の出発のときはわくわくするけど、帰りのときって寂しくなるよな。感傷に浸ってもいいことは何もないけど。
新幹線の鳥みたいな頭がホームの向こうから近づいてくる。五日間滞在した軽井沢ともついにお別れか。
「新幹線が来たみたいだな。荷物の忘れ物はないか?」
「ないわよ。子供じゃないんだから」
注意を呼びかける山野に上月が不平を漏らす。
新幹線の席は、行きと同じように進行方向の席を上月たちに譲った。進行方向の逆方向の席に腰かける。
通路を挟んだ向こうの席に座っているのは老夫婦だ。じいさんの方は白のポロシャツを着て、椅子の手すりに杖をかけている。ばあさんの方は白髪におばちゃんパーマをかけていて、外の風景を静かにながめていた。
どこにでもいそうな老夫婦だが、旅行に来ていたのだろうか。
俺が妹原と結婚できたら、やがてあの老夫婦のように静かな余生を寄り添って過ごすことになるのだろうか。――いやこんな妄想をしていたら百パーセント気持ち悪いやつだと思われるな。下らない妄想はこのあたりで止めておこう。
新幹線が音を立てずに出発する。窓の外の風景がゆっくりと動いて、俺の前へと流れていく。
上月たちはショッピングで疲れたのか、みんな静かに口を閉ざしている。上月はスマートフォンを右手で操作している。妹原は椅子にもたれて目を瞑っていた。
長旅とショッピングで疲れているけど、あんまり眠くはないな。暇だからゲームでもしていよう。
手をもぞもぞと動かしてポケットからスマートフォンを取り出す。指で操作して画面のロックを解除する。
画面の左端に置いてあるニュースのアプリケーションが目についた。パズルゲームのアプリケーションを立ち上げる前に、そのアプリケーションをクリックして立ち上げる。
アプリケーションの一面に表示されているニュースは、中東の戦争に関する記事だ。興味があまりそそられないので、他のニュースを探してみる。
画面の下の方に『指名手配犯』という文字が見えた。例の殺人事件のニュースだ。
今まで逃亡していた犯人は、二日前の午後に捕まえられた。確保された先は、軽井沢よりも北の町だった。
ニュースの記事によると、犯人は事件の供述をはじめているようだ。旅行中はこいつにかなり振り回されたけど、他に犠牲者を出さずに事件は解決するみたいだった。
俺はニュースのアプリケーションを閉じて、パズルゲームのアプリケーションを立ち上げた。
* * *
高崎に停車していた新幹線がゆっくりと発進をはじめる。群馬県を過ぎれば次は埼玉県だ。
行きと帰りの乗車時間は同じはずだが、帰りの乗車時間の方がなんだか短い気がする。それは俺の気のせいだろうか。
新幹線の車内はものすごく静かだ。乗車客は俺たちを含めてほぼ全員が寝入っている。
上月と妹原は寄り添うように頭をつけて寝息を立てている。窓際に座る山野も手すりに肘をついて寝ていた。
弓坂の姿だけ見えないが、トイレにでも行っているのだろうか。
トイレのことを考えたら、俺の下半身が急に尿意をもよおしてきた。我慢したら膀胱炎になるから、さっさとお手洗いを済ませてしまおう。
車内の案内板に従って前方のトイレへと向かう。
男性用トイレはちょうど空いていた。すみやかに用を足して外に出る。
後ろの洗面台で手を水洗いしていると、女性用のトイレの扉が開いた。
「あ、ヤガミン?」
女性用トイレから出てきたのは、どうやら弓坂のようだ。
「よう。寝られないのか?」
「うん」
弓坂は手を洗うと、水玉の可愛いハンカチで手を拭きながら、
「その、ヤマノンが前にいるから」
恋する乙女のような仕草で言うから、俺の胸が一瞬どきっとしてしまった。
弓坂は山野のことが本当に好きなんだな。山野が羨ましい一方で、弓坂の今の心境に同情する自分がどこかにいる。
たまらずに俺は頭を掻いた。
「そうだよな。俺も妹原がすぐそこにいるから、心がざわついてとても寝られねえよ」
「えっ、ヤガミンも、そうなのぉ?」
弓坂が小鹿のように純朴な表情で俺を見つめる。
「ああ。行きの新幹線だって、妹原がまん前にいたから、興奮して会話どころじゃなかったからな」
「あたしもぅ、ヤマノンが目の前にいたから、息がつまりそうだったぁ」
女子も好きな人の前にいると緊張するんだな。
片思いの恋はつらいことばかりだけど、同じ気持ちを共有している友達がいるのは、ありがたいな。今まで感じたことのないような意味不明な気持ちをそっと肯定してくれるから、心強いなって思う。
「山野も心配してたぞ」
壁にもたれながらつぶやくと、弓坂は「えっ」と困惑の表情を向けた。
「弓坂がいなくなったとき、みんな寝れずにダイニングで集まってたんだぜ」
「そうなのぉ? ごめんねぇ」
まずい。こんな言い方をしたら弓坂を責めているみたいになってしまう。俺は口に手を当てて咳払いした。
「いや、そうじゃなくてだな。山野が弓坂のことを心配してたぞと言いたかったんだ」
「そうなのぉ?」
「ああ。血相を変えて頭を抱えてたぜ」
血相は変わっていなかったような気がするが、少しくらいは盛ってもいいだろ。
弓坂の愁眉がそっと和らぐ。恥ずかしそうにうつむいて、「ふふ」と微笑んだ。
「そうなんだぁ」
好きな人に恋する女の子って、可愛いよな。今の弓坂は、今までに感じたことないくらい、たまらなく可愛い。
「あ、でもぉ、ヤマノンを困らせちゃったのはぁ、よくないねぇ」
「別にいいんじゃないか? あいつの精神は鋼鉄みたいに固いから、ちょっとやそっとじゃ壊れやしないし」
「それでも、だめだよぅ」
弓坂があたふたして言った。
客室車両の扉が開いて、三十台くらいのおっさんが入ってきた。邪魔になるから、立ち話はこの辺で終わりにして席に戻ろう。
弓坂を励ましながら、細身の刃のような何かが胸に突き刺さったような痛みを感じる。
刃となった愁い事は、山野から聞き出してしまったあの発言だ。
『彼女はいずれほしいと思っているが、今すぐにほしいとは思っていないということだ』
山野は中学生の頃に付き合っていた彼女がいて、その人のことがきっと今でも忘れられないのだ。
弓坂たちが夕食のカレーをつくっているとき、山野は思い悩んでいる感じで俺に言った。今はしゃべる気がないと。
終わった過去を第三者にしゃべれないということは、そのことがまだ悔いとして残っているということだ。
元カノのことがまだ好きなのに、弓坂から告白されたら、山野はどうするのだろうか。元カノのことを忘れて弓坂と付き合うのだろうか。
元カノのことは、弓坂にはしゃべれないよな。俺だって、妹原に元カレがいたり、また好きな男がいたらショックで死んでしまうかもしれないから。
「ヤガミン?」
弓坂のゆるやかな声が聞こえて俺ははっと我に返った。
「ぼうっとして、どうしたのぉ?」
「い、いや、なんでもない。長旅だったから、ちょっと疲れてるのかな」
弓坂が不安げに見つめてくるので、俺はあははと笑ってごまかした。
山野が弓坂にどう答えるのかはわからない。俺はさっきから悲観的にばかり考えているけど、山野だって実は弓坂のことが好きだったりするのかもしれないからな。
先のことを不安視ばかりしていても、仕方ない。だから断片的な懸念材料で不安になるのは、もうやめよう。
客室車両の通路を歩きながら、俺は弓坂に言った。
「まあ、そういうわけだから、お互いがんばろうぜ」
「うん」
俺は弓坂とそっと拳を合わせた。